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ずっと、お母さんはお花屋さんだと思っていた。
だって、お誕生日やクリスマスのイベントには必ず綺麗で可愛いお花を持って帰ってきてくれたから。
だって、お母さんはお花にとっても詳しかったから。
だって、何回か連れて行ってもらったお母さんが働いている所は、広くて、大きくて、そこに沢山のお花がすっごいいっぱい咲き乱れていて、とても綺麗だったから。
だから小学生だった私が友達のお花屋さんに遊びに行って帰って来た時に、うちのお花屋さんの方がぜんぜんおっきい、と言ったらお母さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でながら、
「そうかそうか、ママのお花屋さんの方がおっきいか。」
と、大笑いした。
それから私はお母さんの働いている所は植物園という所で、植物園というのはお花やお木々を育てたり研究したりする所で、お母さんはそこの園長でお花やお木々を育てたり研究したりしてるんだと知った。
子供の頃から私は私はよくお母さんの植物園に遊びに行った。中学に入って少しは本とか読めるようになるとちょっと難しい本をお母さんや他の職員さんに説明してもらったり、簡単な本を一人で読んで時々誰かに聞いて回ったり、華やかな植物が咲き乱れる小路をその鮮やかさを心に染めるような気分で楽しく歩いたりした。そうして時折、小学校五年生の誕生日におめでとーと言ってくれる皆の輪の外側で好きだった男の子が他の女の子と二人きりで楽しそうにしているのを見て締め付けられていた胸を夜になって帰って来たお母さんの持ってきてくれたお花が一瞬で解きほぐしてまるでお花が咲いたような気分にさせてくれたのを思い出す。
「澪ちゃんは、植物博士になるのかい。」
私にもお母さんにも優しい職員のおじさんが小路で図鑑を抱えている私に手を置いて聞いてくる。私は、うん、と無邪気に答える。
そんな夕暮れのお花畑の本当に不思議の国のような光景も今は過去になってしまって、高校の進学科には五教科全ての実力が必要で、理科、それも植物学だけの私ではそんなに高い所へは進めない、という現実に少し色褪せて見えるようになってしまった植物園にはそんなに頻繁には行かなくなってしまった。
その時、私には高校の新生活の方が年寄り臭い植物園よりもずっと華やかに見えていた。その時と言うのは高校に入って最初の数ヶ月。
五月の連休、私たちは皆で遊んだ。買い物に行ったりプリクラ撮ったりして、そして先輩って順番まわしてくれたりさりげなく気を遣ってくれたりして優しいな、って事に気付いたりしながら楽しく過ごした。
「ただいまー。あ、きれー。」
テーブルの上に見慣れない黄土色の固い花弁の花の鉢が置いてあって、その向こうでお母さんはキッチンに向かって料理をしながらおかえりー、と声を掛けてくれる。
「きれいでしょ、」こっちに向き直って手を拭きながらお母さん、「澪が最近来ないからね。職員がプレゼントに、だって。」
「え、だって、ほら、友達付き合いとかもあるし、勉強も大変だし、部活、そう、部活もあるじゃん、忙しいんだよ、高校生、って。」
「聞いてないわよ。」
まくし立てるような私の言い訳に母は軽く微笑みながら答える。
植物園に、お花やお木々に興味が無くなったわけじゃない。でも、植物園の中のお花やお木々の名前を全部言えたからって、何の役にも立たない。皆に凄いねって言われていた私なのに高校はそこなんだ、って思われるのも嫌だった。皆見た目は前までと変わらない笑顔を見せてくれるけれど、その裏側じゃ何を思ってるかわからない。
「でも、良かった。まだお花は綺麗だって思う心はあるみたいね。」
お母さんがテーブルに座ってその花を眺めていた私の後ろに回ってくる。それから私に何かを差し出して、
「はい、これはお母さんから。」
見ると小さな封筒のようなもので、今までの事から中には何か種が入ってるんだろうと思った。受け取って口を広げて覗き込んでみると、やっぱり種だった。手を広げて取り出してみる。チューリップのよりは少し大きく、見た事の無い種だった。それが二十粒程入っている。
「なんのタネ?」
「それは、ね。」
ポットからお湯を入れたカップを持ちながらお母さんはテーブルの向かいに座ると、話し出した。
「学名はアンビレオードヒレスニシアって言うんだけど、お母さん達は、ね、妖精の花、って呼んでるの。南米の比較的温暖な湿原で稀に発見される花の種よ。」
「アンビレオード属って何?」
「南米のある地域にだけ繁殖してる属よ。その数が非常に少なくてまだあまり研究されてないの。この間群生地が見つかって種が世界中の研究者の所に送られたの。澪にあげたのは、その一部。花は百合みたいにこんもりとした形で咲くときに文字通り花開くの。」
「ふぅん。」
種を眺める。それはどう見ても普通の種にしか見えなかったけれど珍しいと聞くとちょっと価値があるように見えるから不思議だ。私は続けて聞く。
「でも、南米で育つんだったらなんで日本にも送られてくるの?無理じゃん、ここで育てるの。」
「そうね、そう思うわよね。」
意味ありげに一度笑みを見せてからお母さんが説明してくれる。
「そもそもその種を送った研究者も、アルフレッドボールドウィンって言うんだけど、変わった人でね。どちらかと言うとイースターエッグのつもりなのよね。」
お母さんが胸のポケットから取り出した紙切れは欧米で子供たちが使いそうな波打った線と描かれた鳩が端に付いてる可愛いものだった。植物園のお母さんの部屋でよく見たびっしり文字がかかれた白い紙とは全然違う。それを手を伸ばして受け取ると広げてそのおどけてるような文字を心の中で読む。
「やあ、諸君、世界は不景気で我々の研究費も削られがちな世知辛い世の中だが、元気にやっているかね?さて、今日はそんな君たちに素敵な贈り物をしようと思う。なんだと思う?なんと、あの妖精の種だ!さぁ、こぞって皆でこの花を育て咲かせ、世界中を妖精で満ちた素晴らしい世界にしようではないか。では、健闘を祈る。よいイースターを! 南米の可憐な花が咲き乱れる土地より、イースターの前夜にて。アルフレッド ボールドウィンより」
読み終えると私は聞いた、
「このアルフレッドさんって人、知り合い?」
「前に学会で一度見たかしら。」
手紙を裏返してみる。そこには何も書かれていない。文字はもちろんコピーなので同じ文面が世界中に送られた事になる。
お母さんが続ける。
「その花は、ね。気候には割と強いのよ。ある程度寒くても暑くても、湿っていても乾いていてもちゃんと育つらしいの。ただ、育てるのにもの凄い手間暇がかかるのよ。」
私は種を袋に戻しながら聞く。
「とにかくすぐ枯れちゃうの。水は毎日あげないとだめ。一日でもサボるとすぐ枯れちゃう。それから病気にもすぐなって、白い粉見たいなものが出てきたらお湯で絞った布で拭いてあげる、黄土色の斑点が出て来たらカリウムをあげる、凄く細い枝が生えてきたらすぐ切る、凄く太いのでもすぐ切らないとダメ、って、挙げたらきりがないの。」
「でも、それって普通の事じゃないの?」
「シビアなのよ。半日放っておいたらすぐ枯れるのに、それらの症状が一日ぐらいの頻度で出てくるの。」
「それは大変。」
「でもね。それだけ手間暇かけても育てる意味があるのよ。その花は妖精の花。咲く時に花の中から妖精が生まれてくるって言い伝えがあるのよ。それで、その妖精はその花を咲かせてくれた人にすばらしい愛を与えてくれるの。どう、素敵な話じゃなくて?」
「ただの言い伝えでしょ。蔦とか花とか、イギリスにはそういう物語り多いじゃん。」
そう言いながら私の頭にはあの優しい先輩の輝くような笑顔が浮かんでくる。
「澪、育ててみなさいよ。その花。」
すばらしい愛、っていうのが私に贈られたら、私はあの先輩と両思いになれたりするんだろうか。種の入った封筒をひらひらと裏返したり表にしてみたりしながら私は考えてみた。
「うん、やってみる。」
そして私は意外とあっさりと、そう口にしていた。
次の日の朝、お母さんが冊子を渡してくれた。表紙には律儀なゴシック体でこう書いてあった、
「妖精の花の咲かせ方の手引き」
署名はもちろん、こうだった。
「アルフレッド ボールドウィン、今も妖精に囲まれて暮らしている男」