音楽室
――Nに捧げる。すこし気取りすぎたかな。
流行歌をイヤフォンで聴かずとも四季の旋律は流れてゆく。
姦しいヴォリュームを搾らずとも自然に眠りに誘われゆく。
恋愛感情と言う名のメロディのなかで僕は或る種の失語に陥る。
一秒たりとも離れられない、
そんな音楽の華にまみれて、
君の魂と交じりあえた気がして、
だからこそ僕はこの囚われた音楽室の中で、
一種荘厳な音色をピアノで弾く。
失踪した作家のために、
バイクに撥ねられた猫のために、
気分が落ち込む夜のために、
人を愛せないエゴイストのために、
僕はひとつの曲を奏でる。
世の中から忘れらるる一つの歌を。
湖のほとりに佇んでいたあの少女のために、
赤茶けた文庫本の数ページのために、
寒い日になびく街路樹のために、
僕は滅びゆく星のような歌を奏でる。
それはまるで異教の棺桶のように。
それはまるで一粒の睡眠剤のように。
平行線が重なり形を得て、増幅する体積の、
熱量とともに、絡まり合う質量とともに、
言葉の一言一句、無数の傷を負いながら、
際限なく脈打つ心臓が、腫瘍みたいに、
深い悲しみは、滲み出ていくとともに、
溶けだした飴玉の、転がる先に、
子宮の奥に、紡ぎ出して、
清潔なシーツの匂いも、
降り積もってく雪も、
緊張した残り香も、
森から生まれる、
歪んだ音階は、
落下を孕み、
強がりを、
捧げて、
僕は。
疲れて眠ってしまった君の傍らで僕は好きな音楽を弾きながら、
嗚咽混じりの涙声が君の喉から聞こえてくるのを、
目を瞑りながら何度も繰り返し聴いている。
闇と紛うその網膜の、奥に映るは君の横顔。
ここは銀河の空のなか。それともしがない音楽室?
どちらでも構いやしない。君といられるのならば。
僕はピアノを弾いていく。静かで優しい歌の果て。
時は貯水湖の奥底に爛れて。骸を沈めて。
嘘の夢を見続ける君に捧げる曲。
目に見えないオーケストラを。
煌めく星のつぶてが音となる。
光芒が騒いでいる。希望の森で。
そのさなか音楽の漂う一つの声がどこからともなく聞こえてきて、
それは確かに、聴き慣れた声。君の笑い声。
僕はつられて笑ってしまう。
ねえ、君はこの部屋のなかで、
幸せかい?
この時間を大切に味わっておかなくちゃいけないって、
僕は思うんだ。
君が笑ってくれるこの空間を、
ピアノの奏でとともに過ごしていきたい。
流行りの音楽の鳴りやまぬこの国で、
僕だけが奏でる心拍を、
君に贈りたい。
僕はいつまでもピアノを弾いていこう。
それが君といられる証だと思うから。