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第八話 引きこもりと本棚の野望

 引きこもり生活というものは、もっと優雅に始まるものだと思っていた。


 朝は自然に目覚め、窓の外の森を眺めながら温かい飲み物を飲む。昼は気が向いたら軽く掃除をして、あとは好きなことだけして過ごす。夜は静かな家でひとり、心穏やかに眠る。


 そういう、理想の暮らし。


 なのに現実の俺は、朝から薪を割っていた。


「なんでだよ……」


 薪割り台の上で、木の枝がぱかんと真っ二つになる。そこそこ気持ちいい音ではある。だが、だからといって肉体労働が好きになるわけではない。


 俺は本来、斧を振り下ろす側の人間ではない。ベッドの上で漫画を読み、動画を流し見し、気が向いたらゲームをする側の人間だ。


 だが、現実は薪を要求してきた。


 簡易コンロにも限界がある。温かいものを安定して使うなら、こっちの世界の燃料事情にも慣れなければならない。便利なものは《快適生活お取り寄せ》で買える。買えるが、毎回頼りきるとMP――マーケット・ポイントが地味に痛い。


 つまり、節約のための薪割りである。


「……俺、異世界に来てまで、なんで生活力を試されてるんだろうな」


 呟いても返事はない。


 今日はシルフィも来ていない。最近は様子を見に来る頻度が少し増えたが、さすがに毎日ではない。エルフだって暇ではないのだろう。むしろ毎日来られても困る。俺の引きこもり生活に支障が出る。


 ログハウスの前には、集めた枝と、適当に積んだ薪の山。その横には昨日洗っておいた鍋と木桶。戸口の脇には、まだ片づけきれていない段ボールがいくつか積まれている。


 異世界サバイバルのはずなのに、だいぶ田舎の一人暮らしになってきた。


「スローライフって、もしかして“ゆっくり全部自分でやる生活”って意味なのか……?」


 気づきたくない真実に触れてしまった気がした。


 ようやくひと区切りついたところで、斧を置く。腕がじんじんする。腰も少し怪しい。手のひらも妙に熱い。だが、積み上がった薪を見ると、それなりに達成感はあった。


「……よし」


 こういうの、嫌いじゃないかもしれない。


 いや、好きとは言わない。そこまで素直になるつもりはない。だが、自分の暮らしのためにやった作業が、目に見える形で残るのは悪くなかった。


 家に戻り、手を洗い、湯を沸かす。


 今日の昼飯は乾麺と、昨日の残りのスープ。それから、ちょっとだけ贅沢して缶詰の肉を足した。


 異世界の森の中で缶詰を開けていると、文明の匂いがして安心する。プルタブを引く音。金属の蓋がぱこっと開く感触。中から出てくる、味の濃そうな肉。


 この一連の動作だけで、俺の心は少しだけ現代日本へ帰った。


「うん。悪くない」


 窓を少し開けて、森の風を入れる。テーブルの上には昼飯。壁際には収納箱。窓際にはベッド。棚の配置も微妙だし、荷物も全部片づいたわけではない。それでも、ようやく“暮らしている部屋”になってきた。


 誰にも邪魔されず、好きなものを食べて、好きなように過ごす。


 外に出れば薪もいるし、水も運ばなきゃいけない。掃除も片づけもある。それでも、ここには自分のペースがある。


 そのことが、とてもありがたかった。


 食後、俺はテーブルに肘をついて考える。


 生活の最低限は、少しずつ整ってきた。寝る場所はある。食う手段もある。水も何とかしている。薪も一応ある。


 では、次に必要なものは何か。


 答えは簡単だ。


「娯楽だな……」


 生活に潤いは必要である。異世界だからといって、毎日ただ薪を割って飯を食って寝るだけでは心が死ぬ。文明人には、文明的な栄養が要る。


 具体的に言うと、漫画とゲームと動画である。


 俺は《快適生活お取り寄せ》のウィンドウを開いた。


『本棚 小型』

『漫画 まとめ買い』

『ブックカバー』

『ゲーム機』

『モニター』

『クッション』

『読書灯』

『座椅子』


 ずらりと並ぶ検索結果。


 その瞬間、俺の心は少しだけ仕事帰りのオタクになった。


「……やっぱ本棚いるな」


 漫画は積むと部屋が終わる。前世で嫌というほど学んだ。床に置き始めた瞬間から、部屋の支配権は本に移る。気づけば通路が消え、机が埋まり、ベッドの脇にまで単行本の塔が生まれる。


 あれはよくない。


 俺は過ちを繰り返さない男だ。たぶん。


「まず本棚。話はそれからだ」


 だが問題は、やはりMPだった。ログハウス建築と家具の導入で、ごっそり減っている。生活必需品ならともかく、娯楽に全振りするのは少し怖い。


 いや、娯楽も精神衛生上は生活必需品と言えなくもない。


 結局、俺は折衷案を選んだ。小さめの本棚ひとつ。クッションひとつ。読書灯ひとつ。それから漫画を何冊か。ゲーム関係は、今ある手持ちで我慢する。


 ぽん、ぽん、と室内に段ボールが現れる。


 ログハウスの中に通販の段ボールが積まれる光景は、何度見てもシュールだ。異世界感と現代感が殴り合っている。


 だが今の俺は、そんなことを気にしていられない。


「来た……!」


 漫画である。


 紙の束だ。インクの匂いがする。表紙に色がついている。それだけで、心が少し元気になる。


 漫画というものはすごい。まだ読んでいない段階ですでに効能がある。


 待て。落ち着け、俺。


 まずは本棚を組み立てろ。漫画を読むのは、そのあとだ。部屋を整えてから楽しむ。それが大人の引きこもりだ。


 そう思って説明書を広げた、その時だった。


 こんこん、と扉が鳴る。


「……ん?」


 この森でノック文化あったのか。


 扉を開けると、シルフィが立っていた。


「いるか」

「いるけど」

「妙な顔だな」

「幸せな顔と言ってくれ」


 シルフィは俺の返事もそこそこに中へ入り、すぐに室内の異変に気づいた。


「……箱が増えている」

「増えた」

「また何か出したのか」

「文化をな」

「嫌な予感しかしない言い方だな」


 シルフィの視線が、テーブルの上に置いたばかりの漫画へ向く。


 色付きの表紙。きれいに並んだ背表紙。この世界の本とは、紙質も印刷も装丁の感覚もまるで違うはずだ。


 シルフィは警戒したように眉を寄せた。


「それは何だ」

「本」

「見れば分かる。中身だ」

「……漫画、っていう」

「まんが?」

「絵と文字で話を読む本だ」

「絵本か?」

「子ども向けとも限らない」

「なお悪いな」

「なんでだよ」


 俺は一冊を手に取り、適当なページを開いて見せた。


 人物の絵。吹き出しの台詞。背景。擬音。コマ割り。漫画を見慣れている日本人にとっては当たり前の情報量だが、この世界の人間から見たら、だいぶ奇妙なはずだ。


 シルフィは無言でそれを覗き込んだ。


「……多いな」

「何が」

「情報が」

「まあ、そうかも」

「文字だけではないのに、絵だけでもない」

「そういう読み物だからな」


 しばらく沈黙が落ちた。


 これで「不気味だ」とか言われたら、俺の文化布教第一歩はだいぶ悲しいことになる。


 だが、次の瞬間。


「続きを見せろ」

「えっ」

「今の場面の前後が気になる」

「お、おう……」


 思ったより食いつきが早かった。


 俺は内心ちょっとだけガッツポーズをしながら、最初から説明してやろうとする。


「これはな、主人公が――」

「待て」

「ん?」

「先に自分で読む」

「お前、意外とそういう派なんだな」


 シルフィは本を受け取ると、椅子にも座らず、そのまま立ったまま読み始めた。


 ページをめくる。止まる。戻る。また進む。表情は薄い。だが、耳がわずかに動いている。


 あ、これ集中している時のやつだな。


 俺は少し離れて、その様子を観察した。


 森の奥のログハウス。木の壁に囲まれた小さな部屋。そこでエルフが、日本の漫画を読んでいる。


 絵面の情報量がすごい。


 だが、悪くない。


 ――と、そこで俺は、ふと違和感に気づいた。


「あれ?」


 シルフィは普通にページを追っている。絵だけを見ているわけではない。明らかに吹き出しの台詞を読んでいる。擬音も拾っている。コマの流れも理解している。


 いや、待て。


「……シルフィ」

「なんだ。今いいところだ」

「お前、それ読めるのか?」

「読めるが」

「文字、読めるのか?」

「エルフが文字を読めるのが変か?」

「いや、そうじゃなくて」


 この漫画に書かれているのは、日本語のはずだ。少なくとも、俺の目には日本語に見えている。縦書きの台詞も、効果音も、背表紙のタイトルも、全部だ。


 なのにシルフィは、それを当然のように読んでいる。


「これ、俺のいた国の文字なんだよ」

「そうなのか」

「そうなのかって……読めてるじゃん」

「読めているな」

「なんで?」

「私に聞かれても困る」


 シルフィは本から顔を上げ、少しだけ眉をひそめた。


「私には、普通に読める文字に見えている。この世界で使われている文字とは少し形が違う気もするが、意味は分かる」

「意味は分かる……」


 俺は別の漫画を開いた。やっぱり日本語だ。どう見ても日本語。でもシルフィには、彼女が理解できる文字として認識されているらしい。


 その瞬間、いくつかの点が繋がった。


 そういえば、俺はこの世界に来た時から、シルフィと普通に会話できている。エルフ語がどうとか、翻訳魔法がどうとか、そんな説明は一度もなかった。


 通販ウィンドウは日本語に見える。商品名も説明書も日本語。ログハウスの組み立て説明も、俺から見れば普通に日本語だった。


 でも、シルフィも説明書の図や注意書きをある程度理解していた。


 あの時は、こいつが勘で読んでいるのかと思っていた。


 でも違う。


 たぶん、読めていたのだ。


「……なるほど」


 俺は小さく呟いた。


「この世界に持ち込まれたものの文字は、異世界人にも理解できるように変換されるのか」

「変換?」

「俺からは日本語に見えてる。でも、お前には読める形で見えてる。たぶん、そういう補正がかかってるんだ」


 異世界に来た人間が、いきなり言葉で詰まないように。通販で買ったものの説明が、現地人にもある程度分かるように。そういう仕組みが、最初から組み込まれているのだろう。


 考えてみれば、かなり重要な仕様だ。食品の注意書き、薬品の使い方、工具の説明書、家電の警告表示。それらが俺にしか読めなかったら、便利さはかなり落ちる。むしろ危ない。


「……すごいな、《快適生活お取り寄せ》」


 俺が感心していると、シルフィは呆れたような顔をした。


「お前は、自分の力のことを知らなすぎる」

「俺も今そう思った」

「そして説明が長い」

「大事な発見なんだよ」

「分かった。なら後でまとめろ。今は続きを読む」

「漫画優先かよ」


 だが、ある意味で正しい。


 シルフィはもう一度ページへ視線を落とした。完全に読者の顔である。


「……おい」

「どうした」

「この女は、なぜここで素直に言わない」

「あー……それはまあ、そういうもんだから」

「何がだ」

「恋愛ものの人間関係」

「面倒だな」

「人間関係ってそういうもんなんだよ」

「エルフでも面倒だ」

「種族を超えた普遍性だな」


 シルフィは納得していない顔だった。だがページを閉じることはない。つまり、続きは気になっているらしい。


 よし。勝ったな。


「貸してやろうか?」


 俺がさりげなく言うと、シルフィの手がぴたりと止まった。


「……いいのか」

「読みたいんだろ?」

「別に、そこまでは」

「耳が動いてるぞ」

「見るな」


 図星らしい。


 俺は笑いながら、別の巻もまとめて差し出した。


「その代わり、折るなよ。濡らすなよ。あと火の近くに置くな」

「子ども扱いするな」

「お前、森で読むつもりだろ」

「……否定はしない」

「するんだ」


 木の上かどこかで、真顔で漫画を読んでいるエルフ。


 ちょっと見てみたいが、口にすると怒られそうなのでやめておく。


 シルフィは本を抱えたまま、まだ少しだけ室内を見回した。


「お前、こういうものをどれだけ持っている」

「言いたくない」

「多いのだな」

「まあ、多少は」

「多少で済む顔じゃない」

「エルフの観察眼、たまに厄介だな」


 鋭い。


 オタクの資産は、最初から全部開示しない方がいい。


 たぶん。


 シルフィは小さく息を吐いてから、扉へ向かった。


「返す」

「急がなくていいぞ」

「気になるところまでは読む」

「すっかり読む気じゃねえか」


 するとシルフィは一瞬だけ振り返り、珍しく少しだけ口元を緩めた。


「……お前の家、前より妙な場所になったな」

「褒めてる?」

「半分くらいは」


 悪くない評価だった。


 俺は扉のところまで見送り、シルフィが森へ帰っていくのを見送った。その腕には、漫画がしっかり抱えられている。


 異世界に来て、家を建てて、引きこもり生活を始めて。


 今のところ、人付き合いは最小限にしたい。基本的には静かに暮らしたい。そこは変わらない。


 でも、こうして自分の好きなものを少しだけ他人に渡して、その反応を見られるのは、思っていたほど悪くなかった。


 まあ、毎日は嫌だけど。


 毎日は疲れるし。


 適度な距離感、大事。


 扉を閉めると、部屋の中はまた静かになった。テーブルの上には残った漫画が数冊。組み立て途中の本棚。そして、誰にも邪魔されない午後の時間。


「……さて」


 俺は改めて床に座り込み、本棚の部品を並べ直した。


 先に片づける。それが終わったら、一冊読む。たぶん一冊では済まないけど、そこは見ないふりだ。


 窓の外では、森の葉が揺れている。壁の内側には、木の匂いと、紙の匂いと、少しだけ暮らしの気配。


 理想の引きこもり生活は、まだ始まったばかりだ。


 だけど今日、俺のログハウスには、はじめて“本棚を置く意味”ができた気がした。


 そして同時に、もうひとつ分かったことがある。


 俺のスキルは、単に物を出すだけじゃない。この世界で、それを使えるようにする。読めるようにする。伝わるようにする。


「……快適生活って、思ったより範囲が広いな」


 快適に引きこもるためには、壁もいる。食料もいる。水もいる。そして、読める本もいる。


 だったら本棚は、やはり必要だ。


 これは贅沢ではない。生活基盤である。


 たぶん。


 俺は本棚を組み立てながら、さっきの発見についてもう少し考えた。


 この世界は俺を受け入れているというより、《快適生活お取り寄せ》が俺とこの世界の間に、見えない翻訳フィルターを挟んでいるのだろう。


 俺が持ち込むものは、俺にとっては日本のもののまま。だが、この世界の住人にも最低限理解できるように調整される。


 食べ物は食べ物として。


 道具は道具として。


 本は本として。


 そして、漫画は漫画として。


「……いや、漫画まで翻訳してくれるのは、かなりサービス精神あるな」


 思わず笑ってしまった。


 これなら、シルフィだけでなく、他の異世界人にも漫画が読める。つまり俺のログハウスは、将来的に異世界初の漫画貸し出し所になる可能性がある。


 ……いや、だめだ。


 それは危険だ。


 俺は引きこもりたいのであって、貸本屋を開業したいわけではない。人が集まったら困る。静かな生活が壊れる。


 でも、誰かが夢中で読んでいる姿を見るのは、ちょっと楽しい。


 この矛盾。


 引きこもり心は複雑である。


 そしてその夜。


 俺は一人で静かに過ごすつもりだった。夕飯を食べて、少しだけ漫画を読んで、早めに寝る。そういう完璧な引きこもり計画だった。


 だが、日が落ちる少し前。


 こんこん。


 扉が鳴った。


「……まさか」


 開けると、そこには無表情のシルフィが立っていた。


 片手には、きっちり返却された一巻。もう片方の手は、わずかにこちらへ差し出されている。


「二巻」

「早いな!?」

「続きを」

「いや、せめて感想とかないのか」

「続きが感想だ」


 強い。


 読者として、あまりにも強い。


 俺は無言で二巻を差し出した。シルフィはそれを受け取り、満足そうにほんの少しだけ頷く。


「また返す」

「……おう」


 そして彼女は、来た時と同じように音もなく森へ消えていった。


 扉を閉めたあと、俺はしばらくその場に立ち尽くした。


「……布教、成功したな」


 異世界ログハウス暮らし。


 引きこもり生活三日目。


 俺の本棚には、早くも貸出管理という新しい役割が生まれようとしていた。

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