第三十話 極楽のヒノキ風呂と、神の雫(フルーツ牛乳)
ログハウスの裏手。
ヒノキ風のすだれで囲われた露天風呂スペース。
そこへ足を踏み入れたエルフの長老と四人の若手戦士たちは、極度の緊張状態にあった。
「長老……床が、見慣れぬ滑らかな石で舗装されています。罠でしょうか」
「気をつけろ。人間は狡猾だ。この立ち込める強い木の香りも、我らの嗅覚を麻痺させる幻覚香かもしれん」
全裸にバスタオル一枚という無防備な姿でありながら、彼らはいつでも戦闘に移れるよう、油断なく周囲を睨みつけていた。
いや、全裸にバスタオル一枚で戦闘態勢を取られても困る。
むしろこっちが困る。
風呂場で戦闘とか、足を滑らせた瞬間に事故である。
防災意識の高い現代日本人として、絶対に避けたい。
ログハウス側の簡易モニターで音だけ確認していた俺は、さすがに少し申し訳なくなって、防水インターホンのボタンを押した。
『あー、もしもし。使い方、分かりますか?』
「なっ、なんだ!?」
壁の防水インターホンから俺の声が響いた瞬間、エルフ五人が一斉に全裸ファイティングポーズをとった。
やめろ。
絵面が強すぎる。
『落ち着いてください。ただの連絡用の道具です。その銀色のレバーを上げると温かいお湯が出ます。赤いボトルが髪用、青いボトルが体用の石鹸です。自由に使ってください』
「監視しているのか、人間め!」
『男の裸を見ても何も嬉しくないので監視してません。音声だけです。あと、風呂場では走らないでください。滑ります』
「どこまでも我らを子ども扱いする気か!」
『事故防止です。じゃあ、ごゆっくり』
プツッ。
通信を切る。
向こう側ではしばらく沈黙が流れた。
「……人間め。どこまでも我らを愚弄するか」
長老はわなわなと震えながら、恐る恐るシャワーのレバーを上げた。
シャーッ!
「ひっ!?」
温かいお湯の束に、長老は短い悲鳴を上げて飛び退いた。
「長老! ご無事ですか!」
「大事ない……ただのお湯だ」
長老は恥ずかしそうに咳払いし、改めて手のひらで水流を受け止めた。
「しかし、なんという水圧……森の滝行でも、これほど均一な勢いでは降ってこぬぞ。それに、この温度……」
彼はしばらく手のひらに湯を受け、口をへの字に曲げながら唸った。
「……絶妙だ」
若手エルフたちも恐る恐る自分たちのシャワーを出し、その水圧と温度に思わず「ほう……」と声を漏らした。
「長老。青いボトルから、白い液体が出ました」
若手の一人が、ボディソープの匂いを嗅ぐ。
「……花々を濃縮したような芳醇な香りです……」
「馬鹿者! 迂闊に肌につけるな! 劇薬だったらどうする!」
だが、その戦士はすでにポンプを押し、白い泡を腕にこすりつけ始めていた。
「……長老」
「なんだ」
「溶けません」
「何?」
「溶けるどころか……数日分の泥と汗と、魔物の返り血が、撫でるだけでスルッと落ちていきます……」
若手エルフは、自分の腕を信じられないものを見るように凝視した。
「それに、この泡……きめ細かく、なんとも言えない心地よさが……」
「なんだと!?」
長老もたまらずボディソープを手に取り、自分の腕で試した。
そして、驚愕した。
森の泉でいくら水浴びをしても落ちなかった頑固な汚れが、豊潤な泡の前に為す術もなく流れ落ちていく。
肌の上をすべる泡は、きめ細かく、やわらかい。
香りは強すぎず、しかし確かに残る。
森の花と果実を、清潔という概念に練り込んだみたいな匂いだった。
「こ、これは……なんという恐ろしい魔薬だ……! 我が身が、まるで生まれたての赤子のように浄化されていく……!」
「長老! 赤いボトルもすごいです!」
別の若手が叫んだ。
「髪が……髪が、指の間を流れていきます! 枝も枯れ葉も絡まらない!」
「なんだと!?」
長老は赤いボトル――シャンプーを手に取った。
白髭に少量をなじませ、泡立てる。
すると、木の枝や枯れ葉が絡まり、ギシギシだった長い白髭が、魔法のように指通り滑らかなものへ変わっていった。
「おおお……」
長老は震える声を漏らした。
「我が髭が……風になびく……」
「長老! 私の髪も、弓弦のように張り詰めていたものが、風のように軽く!」
「この香り……森の妖精の吐息よりも芳醇だ……!」
洗い場から、討ち入りに来たはずのエルフ戦士団の歓喜の叫びが次々と響き渡る。
もはや尋問団ではない。
完全に初めて高級シャンプーを使った山育ちの集団である。
「……長老」
若手の一人が、泡を流し終えた身体を拭いながら、湯気の立つ浴槽を見つめた。
「そろそろ、あの巨大な湯船に……」
声にはもう、罠への警戒などほとんど感じられなかった。
あるのは、未知の快楽に対する期待と恐れ。
コォォォ、というボイラーの低い音とともに、豊かなヒノキの香りを含んだ湯気が絶え間なく立ち昇っている。
長老はごくりと喉を鳴らした。
「……う、うむ。罠である可能性は、まだ消えておらぬ」
そう言いながら、目は完全に湯船へ吸い寄せられている。
「だが、森の民たるもの、己の身体で真実を確かめねばならん。いくぞ」
長老が先頭に立ち、湯船の縁に足をかけた。
ゆっくりと、その身をお湯の中へ沈めていく。
足先。
ふくらはぎ。
腰。
胸。
そして肩。
四十一度のお湯が、長年の戦闘と警戒で強張りきった筋肉を、じわじわと容赦なく包み込んだ。
「……あ」
一言だけ漏れた。
「……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……」
エルフの長老の口から、威厳も誇りも何もかもが溶け出したような、ひどく情けない声が響いた。
彼はそのまま、ヒノキ風の縁に後頭部を乗せ、ずるずるとだらしなく沈み込んでいく。
「ちょ、長老! しっかりしてください! 毒で意識が!?」
「違う……」
目を閉じたまま、長老がかすれた声で言う。
「お前たちも……入れ……」
「しかし……!」
「この温かさ……恐ろしい……骨の髄まで、溶かされる……」
若手エルフたちも、意を決して湯船に入った。
数秒後。
「「「ふはぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」」」
屈強な戦士たちから、長老とまったく同じ、魂が抜けたような声が合唱のように響き渡った。
「な、なんという極楽……! 森の泉の水浴びとは、根本的に次元が違います!」
「弓を引き絞り続けた右腕の痛みが、嘘のように……!」
「この木の香りが、精神を直接撫で回してくるような……!」
「湯が……湯が、背骨の隙間に入ってくる……!」
「入ってはいない。たぶん」
戦士としての警戒心など、とっくに湯気と共に霧散していた。
全員が肩まで湯に沈み、ぼんやりと空を見上げている。
露天風呂の上には、初夏の青空。
揺れる木漏れ日。
湯気。
ヒノキの香り。
そして、森の精鋭たちの魂の抜けた顔。
人間が堕落する条件が、あまりにも整いすぎていた。
「……長老」
若手の一人が、ぽやっとした顔で空を見上げながら呟いた。
「我々は、完全に罠に落ちてしまったのではないでしょうか」
「……うむ」
長老は、いつの間にか手ぬぐいを頭に乗せていた。
目を閉じたまま、深く、深く頷く。
「これは、人間の仕掛けた恐るべき快楽の呪いだ……」
「やはり……」
「しかし、敵の魔術の底を知るためには……あと少し、この呪いを体験せねばならん……」
「はい、長老……。我らも命がけで、この呪いを享受いたします……」
言い訳だけは一人前だったが、全員の顔は完全に温泉を満喫するおっさんのそれだった。
*
一方、その頃。
ログハウスの前の空き地では、俺たちがキャンプチェアに座りながら、すだれの向こうの様子を聞いていた。
「……静かになったねぇ」
ガランが退屈そうに大斧の刃を布で拭きながら言う。
「さっきまで『なんという香りだ!』とか『骨が溶ける!』とか騒いでたのに。坊や、まさか本当に毒でも仕込んだんじゃないだろうね?」
「そんなわけないだろ」
俺は呆れて麦茶を飲んだ。
「ただ風呂の温度がちょうど良すぎて、完全に溶けかけてるだけだよ。日本の入浴文化の破壊力を舐めちゃいけない」
「……エルフは、本来警戒心の強い種族だ」
ロエンが少し不思議そうに耳を動かした。
「それが、あそこまで無防備に声を上げるとは……お前の用意するものは、本当に理屈に合わん」
「理屈はあるぞ。温熱効果と清潔感と開放感だ」
「分からん」
「入れば分かる」
「それは知っている」
ロエンも、もう風呂経験者である。
語彙は少ないが、気に入っているのは分かっている。
「わたし、あのあわあわ好き!」
ミリィが俺の膝に寄りかかりながら、尻尾を揺らす。
「あのいいにおいのエルフたち、もっといいにおいになってでてくるね!」
「まあ、そうなるな」
「シルフィも、あわあわしたらいいにおい」
「本人に言うなよ」
「なんで?」
「たぶん照れる」
「シルフィ、てれる?」
「たぶん」
そんな俺たちの会話を他所に、ログハウスの裏手のハンモックでは、シルフィが未だに漫画を読み続けていた。
ポテチの袋を膝に置き、氷入りコーラを傍らに置き、完全に我関せずといった態度である。
「おいシルフィ。お前の里の長老たち、風呂で完全に骨抜きになってるぞ。止めに行かなくていいのか」
シルフィはポテチを齧る手を止めず、ふっと鼻で笑った。
「放っておけ。森の民は清潔を尊ぶ。あの風呂に入って無事で済むエルフなどいない。私がそうだったようにな」
「お前も最初はかなり長風呂だったもんな」
「うるさい」
シルフィは漫画から目を離さずに言った。
「……それより、この五巻だが」
「急に本題変えるな」
「なぜこの場面で二人はすれ違わねばならない。あと一言、言葉を足せば済むことだろう」
「それが物語の醍醐味なんだってば。全部効率よく進んだら一巻で終わるだろ」
「納得いかん。早く六巻を出せ。このモヤモヤをどうにかしたい」
「はいはい、今持ってくるよ……」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
ガラッ。
風呂場のすだれが開き、エルフの戦士団が姿を現した。
俺たちは思わず目を丸くした。
殺気を放ち、森の威厳を体現していた彼らの面影は、微塵もなかった。
肌は風呂上がり特有の薄い赤みに染まり、髪はシャンプーの効果で光り輝くほどにつやつやになっている。
革鎧はちゃんと着ているものの、足取りはどこかふわふわとしており、目元は完全に緩みきっていた。
五人全員が、さっきまでと同じ顔なのに、完全に別人に見えた。
「……お帰りなさいませ、長老殿。ご立派な偵察だったようで」
ガランがにやにやしながら声をかけると、長老はハッとして慌てて咳払いをした。
「ご、ゴホン! 誤解するな! 私はただ、あの囲いの中に我ら森の民を脅かす邪悪な魔力がないか、徹底的に調査をしていただけだ!」
「で、調査の結果は?」
「……き、極めて遺憾ながら、危険な魔力は感知できなかった。むしろその……森の泉よりも、ほんの少しだけ……心地よい気がしないでも、なかったが!」
長老が必死に威厳を取り繕おうとしている。
だが、後ろにいる若手戦士たちが「あぁ……まだ身体がぽかぽかする……」「髪が軽い……」「極楽でしたね……」とぽやぽやしているため、まったく説得力がなかった。
「まあ、何事もなくてよかったよ」
俺は立ち上がり、クーラーボックスの元へ向かった。
「日本の風呂文化には、もう一つ絶対に外せない儀式がある」
「儀式だと……?」
長老がびくっと身構える。
「まだ我らに何かするつもりか、人間!」
「呪いじゃない。ただのご褒美だ」
取り出したのは、ガラス瓶に入ったフルーツ牛乳とコーヒー牛乳だ。
氷水でしっかり冷やしておいたやつである。
風呂の熱気で火照った身体は、今、極限まで水分と糖分を欲しているはずだ。
そこに、キンキンに冷えたこれを叩き込む。
インドア派が長年かけて辿り着いた、完璧な“整い”の導線である。
「ほら。腰に手を当てて、一気に喉へ流し込むのがコツだ」
長老は訝しげに瓶を見つめ、匂いを嗅いだ。
「……甘い、果実の香りがする。しかし乳のような匂いも……。ええい、ここまで来たら毒でも食らってやる!」
長老は意を決し、左手を腰に当てて瓶を傾けた。
ゴクリ。
その瞬間。
長老の全身が、雷に打たれたようにびくんと跳ねた。
「……っ!!??」
火照った身体に、氷のように冷たい液体が染み渡る。
果実の爽やかな酸味。
ミルクの暴力的なまでのコク。
そして、子どもの頃の夏休みを圧縮したような甘み。
乾いた細胞の隅々にまで、幸福が浸透していく。
「な、な……っ!!」
長老は瓶を口から離し、震える手でそれを見つめた。
「なんという冷たさと甘さだ……! 森の奥深くに数百年眠るという幻の甘露すら、これほどの衝撃はなかったぞ!?」
「だろ?」
俺がドヤ顔で頷くと、長老は再び瓶を口に当て、今度は躊躇なく一気に飲み干した。
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
森の長老らしからぬ、完璧なぷはぁが炸裂した。
後ろでは、コーヒー牛乳を飲んだ若手エルフたちも次々と崩れ落ちている。
「あまぁぁぁい! 苦味の奥から押し寄せる甘さとは何なんですかこれは!!」
「ダメです長老! 我々の魂が、この瓶の中に吸い込まれていきます……っ!」
「湯の後に、これは卑怯です……!」
「森の掟に、この飲み物を禁じる条項はありませんか!?」
「今すぐ作らねば危険です……しかし作られる前にもう一本……!」
五人のエルフたちは、空になった瓶を胸に抱きしめ、完全に放心状態で空き地にへたり込んだ。
もう怒りも警戒心もない。
ただひたすらに、幸福感だけが漂っている。
俺は空になった瓶を回収しながら、長老を見下ろした。
「どうだ、長老さん。俺の村の設備は」
長老はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
その目には、敗北を認めた者の、静かな光が宿っていた。
「……負けた」
ぽつりと呟いた。
「えっ」
「我ら森の民の誇りは……ヒノキの湯と、恐るべきフルーツ牛乳の前に、完全に敗北した……」
長老は膝をつき、深く頭を垂れた。
「シルフィアが森に帰らなくなるのも無理はない。このような極楽を知ってしまえば、もはや冷たい泉での水浴びなど考えられん……。人間よ、貴様は武力ではなく、圧倒的な快楽によって我らを支配するつもりなのだな……!」
「だから支配する気はないって。ただの風呂と牛乳だよ」
俺が苦笑すると、長老はばっと顔を上げた。
「では……このフルーツ牛乳とやらは、もう一杯もらえるのか!?」
「要求が早い!?」
「我慢できるわけがなかろう! この火照った身体が、もっと寄越せと叫んでいるのだ!」
「長老! 私もコーヒー牛乳のおかわりを要求します!」
「さっきまで弓を向けてた連中が!?」
ガランが腹を抱えて大笑いし、ロエンが「……やはりここの食い物と飲み物は暴力だな」と感心したように呟いている。
俺は呆れながらも、追加の瓶を出してやった。
二本目は、一本目より静かに飲まれた。
全員が味を逃すまいと、真剣に、丁寧に、ありがたそうに飲んでいる。
いや、牛乳瓶でここまで神妙な顔をされると、逆にこっちが困る。
「……人間」
長老が空き瓶を大事そうに抱えたまま、低く言った。
「なんですか」
「我らは、これほどのものを知らずに生きてきたのか」
「まあ、世界が違いますからね」
「恐ろしいことだ」
「そんな大げさな」
「大げさではない。湯と牛乳は、戦争を止める」
「今の状況だけ見ると、否定しづらいな……」
こうして、エルフの尋問団による恐るべき討ち入りは、ヒノキ風呂とフルーツ牛乳のコンボによって、極めて平和的に――かつ、致命的に堕落的に――幕を閉じた。
……かに見えた。
だが、俺はこの時まだ気づいていなかった。
彼らがこの村にやってきた真の目的が、森の調査でも、シルフィの奪還でも、俺の尋問でもなく、もっと別の、ひどく個人的で、そしてオタク特有の切実な理由であったことに。
その本音が爆発するのは、全員が牛乳を飲み干し、ようやく落ち着きを取り戻した、数分後のことだった。




