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第十三話 畑を耕す狼と、おにぎりの力

 朝飯を二人分に増やす。


 そう決めた瞬間、俺はとても大事な問題に気づいた。


「……あ」

「どうした」


 外からロエンの声がする。


 相変わらず家の横の空き地にしゃがみ込み、土を指で崩しているらしい。見た目だけなら今すぐ獲物を狩りに行きそうな狼獣人なのに、やっていることは完全に畑の下見である。


 ギャップがすごい。


「いや、ちょっと文明の在庫確認を」

「意味がわからん」


 だろうな。


 カップ麺なら、《快適生活お取り寄せ》で追加注文できる。できるのだが、昨日も食ったばかりだ。しかも相手は、あの匂いに完全敗北した狼獣人である。ここでまた出したら、「この家では毎朝あれが出る」と勘違いされかねない。


 それはまずい。


 精神安定剤としてのカップ麺は、切り札であるべきだ。毎日出すものではない。


 何より、今は収納箱にパックご飯がある。前に「これがあれば米に困らないな」と思って、少し多めに買っておいたやつだ。買ったからには使わなければならない。通販で何でも出せるからといって、手元の食料を放置するのはよくない。


 異世界生活において、在庫管理は地味に大事である。


 たぶん。


 俺は収納箱をがさごそ漁った。


 パンでもいい。


 スープでもいい。


 前にこの世界へ来たばかりの頃、《快適生活お取り寄せ》でコンビニおにぎりを買ったこともある。包装を剥がせばすぐ食えるし、具も入っているし、海苔もぱりっとしている。文明の完成度としてはかなり高い。


 だが、今は少し事情が違う。


 畑仕事の前だ。しかも朝の森で土を触っていたやつに出すなら、冷たいコンビニおにぎりより、炊きたて――とまではいかなくても、せめて温かい飯のほうがいい気がする。


「……これにするか」


 俺が取り出したのは、パックご飯と海苔、それから鮭フレークだった。


 おにぎりである。


 文明の手抜きと伝統の知恵が合体した、偉大なる携行食。作るのも簡単。食うのも簡単。しかもそこそこ腹にたまる。畑作業の前に出す飯としては、わりと理にかなっている。


 問題は、パックご飯の温め方だった。


 前の世界なら電子レンジで二分。


 以上。


 だが、今のログハウスに電気はない。つまりレンジは使えない。


 文明はある。


 しかし電源がない。


 この微妙な不自由さが、異世界生活の現実である。


「まあ、湯煎だな」


 俺は簡易ガスコンロを出し、小鍋に水を張った。


 火をつけると、青い炎が鍋底を舐める。


 ガスコンロ、偉い。


 電気がなくても湯が沸く。温かいものが食える。こういう道具こそ、引きこもり異世界生活の生命線である。


 沸いた湯にパックご飯を沈め、しばらく温める。その間に海苔と鮭フレーク、塩を用意した。


 ログハウスの狭い台所で、朝から真面目におにぎりを握る自分の姿がちょっと面白い。


 異世界で畑を始める朝に、おにぎり。


 方向性がだいぶ定まってきたな、この生活。


 少しして、ふわりと米の匂いが立ちのぼる。


 それを察したのか、外からロエンの声がした。


「また変な匂いがする」

「変なって言うな。いい匂いだろ」

「判断はまだだ」

「慎重だな」

「食い物に慎重で悪いか」

「昨日、五分で落ちてたやつの台詞とは思えないな」


 外から小さく鼻を鳴らす音がした。


 図星らしい。


 温まったパックご飯を取り出し、蓋を剥がす。湯気がふわっと上がった。炊きたてとは違う。違うが、十分に温かい。


 俺は手を軽く濡らし、塩をつけて、少し熱いのを我慢しながら飯を握った。


「熱っ……でも、これくらいのほうがうまいんだよな」


 鮭入りと塩むすびをいくつか作り、ついでに簡単な味噌汁も用意する。


 こういう朝飯、なんか妙に落ち着く。


 前の世界にいた頃は、逆にこういうのを面倒くさがっていた気がする。コンビニで買うか、適当に済ませるか。自分で握るなんて、よほど気が向いた時くらいだった。


 けれど、異世界の森の中で米の匂いを嗅いでいると、それだけで少し安心する。


 文明はカップ麺だけではない。


 米もまた、立派な文明である。


 たぶん。


 盆の代わりに木の板へ乗せて外へ出ると、ロエンがゆっくり立ち上がった。


「それは?」

「朝飯」

「丸いな」

「三角だ」

「だいたい丸い」

「細かいなお前」


 ロエンは差し出したおにぎりをじっと見た。


 警戒している。


 というより、観察している。


 カップ麺の時も思ったが、こいつは食い意地が張っているくせに、口に入れる前の見極めはわりと慎重だ。獣人だからなのか、それとも単に性格なのかは分からない。


「これはどう食う」

「そのまま」

「焼かないのか」

「焼かない」

「煮ないのか」

「煮ない」

「……変な食い物だな」

「まだ変って言うか」


 だが、ロエンは結局おにぎりを受け取った。


 手がでかいせいで、おにぎりが妙に小さく見える。


 見た目の圧に対して、食べ物が可愛い。


「熱いぞ」

「またか」

「まただ」

「お前、昨日から学ばないな」

「匂いが悪い」


 その言い方、ほんと便利だな。


 ロエンは少しだけ息を吹きかけてから、一口かじった。


 もぐもぐと噛む。


 止まる。


 耳が立つ。


 尻尾が揺れる。


 ……あ、これもう答え出てるな。


「どうだ?」

「……薄い」

「おにぎりに何を期待してた」

「昨日の麺ほど暴力的じゃない」

「カップ麺を暴力って言うな」

「だが、悪くない」


 そこから、もう一口。


 次は鮭の部分に当たったらしく、ロエンの目が少しだけ見開かれた。


「中に何かいる」

「言い方」

「魚か?」

「そう」

「隠す必要があるのか」

「味が均一だと飽きるだろ」

「……なるほど」


 妙に納得していた。


 料理に対する価値観がまっすぐすぎるな、こいつ。


 結局ロエンは、塩むすびと鮭おにぎりをひとつずつ食い、味噌汁まできれいに飲んだ。


「どうだ」

「腹に優しい」

「おお、珍しくまともな感想」

「だが、昨日の麺も必要だ」

「欲望に素直すぎるだろ」


 するとロエンは、ほんの少しだけ目を逸らした。


「力仕事の前は、こういうほうが向いてる」

「お」

「終わったあとは、濃い味がほしい」

「食の計画性あるじゃん」

「当然だ」


 なんかもう、住み着く気満々では?


 俺は一抹の不安を覚えつつ、だがそれ以上に「畑担当として優秀そうだな」という期待のほうが勝っている自分に気づいた。


 だめだな。


 俺、生活の質が上がる提案に弱すぎる。


「じゃあ、やるか」


 俺が言うと、ロエンは無言で立ち上がった。


 さっきまで朝飯を食っていた時とは空気が違う。耳は前を向き、尻尾の揺れも落ち着いている。戦う時がどんな顔なのかは知らないが、少なくとも“土を触る時の本気の顔”はこういうものらしい。


「まず、石をどける」

「おう」

「次に根を抜く」

「うん」

「そのあと土を返す」

「うん?」

「裏返して空気を入れる」

「おお……」


 なんか急に先生っぽくなったな。


 ロエンは空き地の端を踏みしめ、どこからどこまでを畑にするか大まかに線を引いた。棒切れで地面に印をつけるだけなのに、妙に手慣れている。見ているこっちまで「もう畑になるんだな」という気にさせられた。


 対して俺は、鍬を持った時点で不安しかなかった。


「これ、腰に来るやつでは?」

「来る」

「先に言って!?」

「見ればわかる」

「見ても希望を持ちたかったんだよ」


 言い返したものの、現実は厳しかった。


 鍬を振り下ろす。


 土に刺さる。


 持ち上げる。


 重い。


 思ったより、ずっと重い。


 薪割りとはまた違うタイプのきつさだった。薪割りは一撃の重さが腕に来るが、畑仕事はじわじわ腰と背中に来る。しかも地味だ。とても地味なのに、確実に体力を削ってくる。


 これが土か。


 土、強いな。


 俺がぎこちなく土を掘り返している横で、ロエンは俺の三倍くらいの速さで地面を整えていった。


 向こうは明らかに体幹が強いし、動きに無駄がない。力任せではなく、土の固い場所と柔らかい場所を見分けて、根の流れに沿って鍬を入れている。


「……お前、ほんとに慣れてるんだな」

「土は素直だ」

「人間関係より?」

「比べるまでもない」


 即答だった。


 ちょっと親近感が増した。


 しばらく無心で作業を続けるうちに、空き地は少しずつ“ただの空き地”ではなくなっていった。


 石が脇に積まれる。


 細い根が取り除かれる。


 雑草が消えていく。


 最初は乾いて固そうに見えた土も、掘り返すと下から少し湿った、濃い色をのぞかせる。


 匂いも変わった。


 森の葉や木の匂いの中に、掘り起こされたばかりの土の匂いが混ざる。これは、外でしか分からない匂いだ。そして、たぶん、何かを育てる匂いでもある。


「なんか……それっぽくなってきたな」

「それっぽくでは困る」

「厳しいな!?」

「畑になるなら、ちゃんと畑になる」


 その言葉に、俺は思わず少し笑った。


 変なやつだ。


 森を一人で歩いて、カップ麺の匂いに負けて、今は真顔で畑を作っている。見た目は怖いのに、やっていることが妙に地に足ついている。


 ロエンはしばらく黙々と作業を続けていたが、やがて俺の手元を見て眉をひそめた。


「そこ、浅い」

「え」

「根が残る」

「お、おう」

「鍬を寝かせるな。立てろ」

「こう?」

「違う」

「厳しいな、先生」

「畑は甘くない」

「名言っぽく言うな」


 だが、ロエンの指示は的確だった。


 言われた通りにすると、さっきより土が返しやすい。変なところに力を入れずに済む。俺は内心ちょっと感心した。


 こいつ、本当に畑が分かっている。


 昼前には、俺はすでにへろへろだった。


「……休憩」

「早い」

「インドア派を舐めるな」

「威張るな」


 木陰に座り込み、水を飲む。


 汗がじわじわ引いていく感じが気持ちいい。体はきついが、外でこういうふうに疲れるのは、前の世界ではあまりなかった。


 意味のある疲れ、ってやつかもしれない。


 いや、疲れるものは疲れるけど。


 ロエンはそんな俺を見下ろし、少し考えるように黙ってから言った。


「悪くない」

「何が」

「お前」

「急にどうした」

「逃げない」


 その言い方は、褒めているのかそうじゃないのか微妙だった。


 だが、ロエンなりに評価しているのは伝わってきた。


「まあ……家の横に畑ができるのは普通に嬉しいしな」

「食い物は裏切らない」

「人間関係で何があったんだよ」


 ロエンは答えず、代わりに空き地のほうを見る。


「ここに芋を植える」

「うん」

「こっちは豆でもいい」

「おお」

「向こうは、あとで考える」

「急に夢が広がるな……」


 畑の話をしている時だけ、ロエンの言葉は少し増える。


 好きなんだろうな、本当に。


 それが分かるから、こっちも聞いていて悪い気がしない。


「前にも、こういうことをしてたのか?」


 俺が聞くと、ロエンの耳が少しだけ伏せた。


「……少しな」

「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 踏み込まれたくない話というのは、誰にでもある。俺だって、前の世界で何をしていたのか、なぜ一人でいるほうが楽なのか、根掘り葉掘り聞かれたら嫌だ。


 だから、今はそれでいい。


 ロエンは少ししてから、ぽつりと言った。


「土を触っていると、静かだ」

「静か?」

「余計なことを考えなくていい」

「……ああ」


 なんとなく分かる気がした。


 俺にとっての漫画やゲームが、ロエンにとっては土なのかもしれない。


 集中している間だけ、余計なものから離れられる。人付き合いとか、過去とか、面倒なあれこれとか。


 そう考えると、ロエンが畑に向かう時だけ少し柔らかくなる理由も、少しだけ分かる気がした。


 昼は簡単にパンとスープで済ませ、その後もう少し作業を続けた。


 俺の体力はとっくに限界だったが、ロエンはまだ動けそうだった。


 というか、楽しそうですらある。


「……お前、今日ずっと働いてるけど、腹減らないのか」

「減る」

「即答だな」

「だが、先に形にしたい」

「職人気質すぎる……」


 結局、その日の夕方までに、空き地の半分くらいはちゃんと畑らしい見た目になっていた。


 きれいに起こされた土。


 端に積まれた石。


 抜かれた雑草の山。


 朝までただの空きスペースだった場所が、今はもう次の作業を待っている。


「……すごいな。ほんとに畑になった」


 ロエンは土で汚れた手を見下ろし、それから小さく頷く。


「まだ途中だ」

「それでもすごいよ」

「……そうか」


 ぶっきらぼうな返事だったが、尻尾がわずかに揺れた。


 わかりやすい。


 夕方の風が吹く。


 畑になりかけた土の匂いと、森の匂いが混ざって、家の前の空気が朝とは少し変わっていた。


 生活が、また一歩進んだ感じがする。


「今日はここまでだな」


 俺が言うと、ロエンは空を見て、それから家を見た。


「……水、使っていいか」

「え?」

「手と足を洗いたい」

「ああ、もちろん」

「あと」

「あと?」

「腹が減った」


 そこで言うのか。


 俺は思わず吹き出した。


「だろうと思ったよ」

「笑うな」

「だってその流れ、完全にそうじゃん」

「働いた」

「うん」

「腹が減る」

「うん」

「だから食う」

「理屈は正しいな」


 ロエンは真顔のままだったが、尻尾だけが少し落ち着かなく揺れていた。


 たぶん、自分から飯をねだるのは少しだけ気まずいんだろう。


 だが、そこを妙に取り繕わないのは嫌いじゃない。


 俺は立ち上がり、ログハウスの扉を開けた。


「まあ入れよ。今日は働いたし、その分は出す」

「……いいのか」

「その代わり、明日も続き手伝え」

「手伝う」

「即答か」

「途中で終えるのは気持ち悪い」

「畑に対してだけ妙に几帳面だな、お前」


 ロエンは一瞬だけ家の中を見た。


 木の壁。


 小さな棚。


 本が並んだ本棚。


 窓際のベッド。


 まだ生活感はあるが、狭いなりに整い始めた空間。


 その光景を前に、ロエンはぼそっと呟いた。


「……やっぱり妙な家だ」

「褒めてる?」

「半分くらいは」


 その言い回し、いつの間にか広まってないか?


 俺は苦笑しながら鍋を取り出した。


 外では、今日作ったばかりの畑が夕暮れの中に静かに横たわっている。


 ログハウスの中には、腹を空かせた狼獣人が一人。


 引きこもりの家のはずなんだけどなあ、と心の中でぼやきながら、俺は二人分の夕飯の支度を始めた。


 土の匂いが、まだ服に残っている。


 それは少しだけ疲れる匂いで、少しだけ頼もしい匂いだった。


 たぶん明日も、俺は腰を痛めながら畑を耕すことになる。


 そしてロエンは、当然のような顔で続きをやりに来るのだろう。


 ……まあ。


 芋が採れるなら、悪くないか。


 引きこもり生活七日目。


 俺のログハウスには、畑担当の狼獣人が増えつつあった。

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