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第十一話 匂いにつられた来訪者

 引きこもり生活五日目。


 俺は玄関の前で、しばらく固まっていた。


 見覚えのない大きな足跡。


 きれいに空っぽになった果実籠。


 端に寄せられた種。


 そして、地面にぽつんと落ちている、銀灰色の毛。


「……いや、怖い怖い怖い」


 しゃがみ込んで、それをつまみ上げる。


 細いが、獣の毛に近い手触りだ。昨日見つけた小さな足跡とは違う。あれは、果実をつまみ食いした小動物か、せいぜい小柄な何かのものだと思っていた。


 だが、今朝のこれは違う。


 足跡が明らかに大きい。しかも、妙に整っている。獣のようでもあり、人に近いようでもある。


 つまり、昨日の夜、俺の家の前まで何か大きいのが来て、果実を食い、種だけ律儀に端へ寄せ、毛まで残して帰った、ということになる。


 めちゃくちゃ嫌なんだが。


「これはさすがに、シルフィ案件だよな……」


 俺は毛を布に包み、足跡の周囲をなるべく崩さないようにして家へ戻った。


 朝飯を作る気力は少し削がれた。だが、腹は減る。こういう時でも腹は減る。人体のそういう図太さ、嫌いじゃない。


 とりあえず湯を沸かす。


 今日の朝飯は、前の世界から持ち込める文明の代表にすることにした。


 カップ麺である。


「こういう時、結局これに戻ってくるんだよな……」


 蓋を開け、粉末スープを入れ、湯を注ぐ。


 異世界のログハウスでカップ麺。考えるほど意味が分からないが、湯気と一緒に立ち上る匂いは、どうしようもなく安心感があった。


 しょうゆ。油。乾燥具材。そして、化学の力で作られた幸福。


 強い。


 三分を待ちながら、何となく窓の外を見る。


 木々の向こうは静かだ。鳥の声もしているし、風もいつも通りだ。なのに今日は、少しだけ森全体が俺の家を見ている気がする。


 気のせいだといい。


 いや、最近の流れ的に、たぶん気のせいじゃない。


 ちょうどその時、外から何かを踏みしめるような重い音がした。


 ざりっ。


 俺の背筋が固まる。


 来た?


 このタイミングで?


 次の瞬間、窓の外を灰色の影が横切った。


「うわっ!?」


 反射的に後ずさる。


 だが、影は家の中へ突っ込んではこなかった。代わりに、窓の向こう、少し離れた木陰で止まる。


 低い姿勢。


 鋭い目。


 銀灰色の耳。


 ふさりと揺れる大きな尻尾。


「……狼?」


 いや、違う。


 狼獣人だ。


 長身の青年だった。日に焼けた肌。引き締まった身体。少し乱れた銀灰色の髪。旅装のような服は薄汚れ、腕や脚には浅い擦り傷がある。


 精悍というか、普通に強そうだ。


 初見で「近づきたくない」と思わせるには十分な迫力がある。


 だが、そのくせ。


 視線がめちゃくちゃ、こっちのカップ麺へ向いていた。


「……え」


 青年は何も言わない。


 ただ、窓から漏れる匂いをじっと見ている。


 いや、違う。


 見ているんじゃない。嗅いでいる。完全に嗅いでいる。


 その証拠に、耳がぴくりと動き、尻尾がわずかに揺れた。


 なんだこれ。


 怖いのか可愛いのか分からん。


 俺が固まっていると、相手の腹が鳴った。


 ぐうううううう。


 森に響くレベルのやつだった。


 沈黙。


 俺と狼獣人の青年は、数秒、互いに微妙な顔で見つめ合った。


 先に視線を逸らしたのは、向こうだった。


「……聞こえなかったことにしろ」

「無理だろ、今のは」

「しろ」

「圧が強いな」


 青年は不機嫌そうな顔をした。


 だが、そのぶん尻尾が気まずそうに揺れている。


 あ、これ感情が出るタイプだ。


「昨日の足跡、お前か?」

「……だったら何だ」

「いや、どうしたのかと思って」

「匂いに釣られた」

「正直だな!?」


 そこはもう少し取り繕うだろ、普通。


 青年は舌打ちしたが、否定はしなかった。


「変な家から、変な匂いがした」

「変なって言うな」

「食い物の匂いだった」

「まあそうだな」

「我慢するつもりだった」

「できなかったんだな」

「……できなかった」


 思ったより素直だな。


 見た目だけなら森の主か賞金首みたいなのに、中身がちょっと正直すぎる。


 俺は少しだけ警戒を解き、窓越しにカップ麺を持ち上げた。


「食うか?」


 狼獣人の青年は、ぴたりと動きを止めた。


 耳が立つ。


 尻尾も止まる。


「……いいのか」

「腹減ってるんだろ」

「減っていない」

「さっき森に響く勢いで鳴ってたぞ」

「……あれは事故だ」

「腹の事故ってなんだよ」


 青年はものすごく不本意そうな顔をした。


 だが、カップ麺から立ちのぼる湯気を見た瞬間、その理性が半分くらい負けているのが分かった。


「毒見しろ」

「俺が食ってるの見えてるだろ」

「それとこれとは別だ」

「警戒心はあるんだな」

「当然だ」


 そこはまともだった。


 俺は一口すすってから、窓辺に寄る。


「ほら。問題ない」

「……匂いが強い」

「いい匂いだろ」

「腹が立つ匂いだ」

「知らんがな」


 青年はしばらく迷っていた。


 森の中で、見知らぬ人間の妙な家。そこから漂ってくる得体の知れない食い物の匂い。普通なら近寄らないほうが正しい。


 だが、空腹は理性を裏切る。


「……半分でいい」

「素直じゃないな」

「一杯いらん」

「まだ食う前から見栄を張るな」


 結局、俺は予備の器を出し、半分だけ移してやることにした。いきなり家に入れるのもどうかと思うので、とりあえず玄関先で様子見だ。


「ほら」

「……」

「取れよ」

「お前が近い」

「めんどくせえな!」


 俺が器を少し離れた場所に置くと、青年はようやく木陰から出てきた。


 近くで見ると、なおさらでかい。肩幅もあるし、腕も太い。森で遭遇したくないタイプの筆頭だろう。


 ただ、その見た目に反して、器を受け取る手つきは思ったより丁寧だった。


「熱いぞ」

「分かっている」

「分かってなさそうな勢いでいったな、今」

「……っ」


 案の定、最初の一口でちょっとだけ目を見開いた。


 だが、吐き出さない。


 むしろ、そのまま咀嚼して、飲み込んで――沈黙した。


 またこのパターンか。


 異世界人が現代文明の味に殴られた時のやつだ。


「どうだ」

「……妙だ」

「妙」

「柔らかいのに歯ごたえがある。汁が濃い。塩気も強い。香りも変だ」

「だいぶボロクソだな」

「だが」


 そこで青年は、器を持つ手に少しだけ力をこめた。


「止まらん」


 その一言で十分だった。


 こいつ、完全に落ちたな。


 次の瞬間には、さっきまでの警戒が嘘みたいな勢いで麺をすすり始める。耳が立ち、尻尾が大きく揺れる。


 感情が全部そっちに出るタイプだとは思ったが、ここまでとは。


「……うまい」

「聞こえてるぞ」

「別に隠してない」

「そうかよ」


 俺は思わず笑った。


 青年は無言で食べ進め、あっという間に器を空にした。それでもまだ名残惜しそうに汁まで見ているあたり、本当に気に入ったらしい。


「ごちそうさま、くらい言えよ」

「……ごちそうさま」

「素直か」


 言ってから、青年は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「借りは返す」

「律儀なんだな」

「借りを放置するのは嫌いだ」


 すると青年は、少しだけ眉を寄せた。


「ロエン」

「え?」

「名前だ」

「ああ」


 俺も少しだけ肩の力を抜いた。


「俺はコウタ」


 ロエンは黙って頷いた。


 それで自己紹介は終わりらしい。


 短いな。


 まあ、森の中で腹ぺこの狼獣人とカップ麺越しに知り合う場面に、丁寧な名刺交換は要らないかもしれない。


「それで、借りを返すって言ってたけど」

「言った」

「何するつもりなんだ」

「働く」

「ざっくりしてるな」

「力仕事ならできる。狩りも、運搬も、穴掘りも、木を倒すのも」

「最後のやつ、俺の家ごと倒さない?」

「倒さん」


 不服そうに言いながらも、ロエンは器を返してきた。


 見た目に反して、やっぱり手つきが丁寧だ。


「……お前」

「ん?」

「一人で住んでいるのか」

「今のところはな」

「妙な家だな」

「よく言われる」

「妙な匂いもする」

「それもよく言われる」


 ロエンはそこで、ちらりと玄関脇を見た。


 空っぽになっていた果実籠のあたりだ。


「ここ、夜に誰か来ているだろ」

「やっぱり分かるのか」

「匂いが混ざっている」

「便利だな、獣人」

「雑にまとめるな」


 怒られた。


 だが、その怒り方もどこか本気ではない。カップ麺を食べたことで、だいぶ警戒が削れたらしい。


 食は偉大だな。


「で、お前は何してたんだ、こんな森で」


 俺が聞くと、ロエンは少しだけ黙った。


 耳がわずかに伏せられる。


「あてもなく歩いていた」

「行き倒れ予備軍じゃねえか」

「否定はしない」

「そこは否定しろよ」

「腹が減っている時に見栄を張っても意味はない」


 さっきから妙にそこだけ現実的だ。


 俺は空になった器を受け取りながら、ロエンを見た。


 服はくたびれ、腕や脚には浅い擦り傷がある。土もついているし、草の切れ端も引っかかっていた。たしかに、長く森を歩いていた感じはする。


「街には行かないのか?」

「人が多い場所は嫌いだ」

「急に親近感」

「お前と一緒にするな」

「でも今ちょっと似た匂いしたぞ」


 ロエンは眉をひそめたが、否定はしなかった。


 あ、こいつ案外、一人でいたいタイプかもしれない。


 見た目はワイルドなのに、中身がちょっと内向きなの、だいぶ面白い。


 その時、ロエンの視線が家の脇で止まった。


 ログハウスの横には、小さく囲っただけの空き地がある。今はまだ何もしていない。薪や水桶を仮置きしているくらいだ。


「……あれは」

「空き地だけど」

「何も育てていないのか」

「育てる?」


 聞き返すと、ロエンの耳がわずかに動いた。


「土は悪くない」

「分かるのか」

「見れば分かる」

「シルフィと同じこと言うじゃん」


 ロエンは気にせず、少しだけ身を乗り出すように空き地を見る。


 その目つきは、さっきまでカップ麺を見ていた時とは違った。


 真剣だ。


「水の流れも悪くない。日当たりも、森の中ではまだましだ。少し起こせば使える」


 なるほど。


 戦えそうな見た目のくせに、急に畑の話が始まった。


「……お前、そういうの好きなのか?」


 何気なく聞くと、ロエンはほんの少しだけ視線を逸らした。


「悪いか」

「いや、全然」

「土を触るのは落ち着く」

「うわ、めちゃくちゃいいやつじゃん」

「だからお前は雑だ」


 怒られた。


 でも、尻尾はちょっとだけ揺れていた。


 褒められて悪い気はしていないらしい。


 俺は腕を組んで、その空き地を見る。


 たしかに、将来的には何か植えられたらいいなと思っていた。食料を少しでも自前で確保できるなら助かる。ジャガイモとか、サツマイモとか、そういう雑に腹にたまるやつは偉い。


「……もし畑ができたら、ちょっと嬉しいな」


 ぽつりと漏らすと、ロエンの耳がぴくりと動いた。


「やるのか」

「え」

「起こすならやる」

「いや、そんな急に」

「借りは返すと言った」


 真顔だった。


 そして尻尾だけが、期待したみたいに少し揺れている。


 なんだこいつ。


 カップ麺半分で畑を耕す気か?


「待て待て。今日はもういい」

「なぜだ」

「こっちの心の準備がある」

「畑に心の準備が要るのか」

「要るよ。俺、インドア派だから」

「意味が分からん」


 そりゃそうだろうな。


 だが俺にとっては重要だ。


 家の横に突然“本格的な生活感”が追加されるのは、それはそれで覚悟が要る。ログハウスだけでもだいぶ人生が変わったのに、そこへ家庭菜園まで付くと、もう本当に異世界スローライフが始まってしまう。


 いや、もう始まってるんだけど。


「……じゃあまた来る」


 ロエンが言った。


「え、来るの?」

「来る」

「即答だな」

「借りが残っている」

「その理屈強いな……」


 ロエンはそう言って一歩下がり、それからふと家のほうを見た。


「次は、あれじゃないやつも食わせろ」

「完全に味をしめてるな?」

「違う。確認だ」

「何の」

「お前の家からする匂いは、全部こうなのか」

「どういう確認だよ」


 でも、少しだけ笑ってしまった。


 カップ麺を食って真顔で続きを要求する狼獣人。


 思っていたより、だいぶ平和な方向でイベントが進んでいる。


「まあ、気が向いたらな」

「向け」

「命令すんな」


 ロエンは鼻を鳴らしたあと、くるりと身を翻した。


 その動きは軽い。


 大きな体なのに、森の中へ入ると気配が一気に薄くなる。やっぱり普通の人間じゃないんだな、と改めて実感した。


 だが、木々の向こうへ消える直前。


 ロエンは一度だけ振り返った。


「コウタ」

「ん?」

「……あれ、うまかった」


 それだけ言って、今度こそ森の中へ消える。


 尻尾だけが、最後にちょっとだけ大きく揺れた。


 なんだあいつ。


 怖そうな見た目で、最後だけ妙に律儀なの反則だろ。


 俺はしばらくその場に立ち尽くし、それから空き地を見た。


 家の横の、まだ何もない土。


 昨日までは、ただの空きスペースだった。でも今は、そこに畑の気配が見える。


 漫画を読みたがるエルフがいて、カップ麺に釣られる狼獣人がいて、俺のログハウスは少しずつ“ただの引きこもりの家”ではなくなってきていた。


「……いや、待てよ」


 俺は小さくつぶやく。


「人が増えるの、困るんだけどな?」


 困る。


 困るんだけど。


 家の横に畑ができて、採れた野菜で少しまともな飯が食えるようになる未来を想像すると、それはそれでかなり魅力的だった。


 引きこもり失格かもしれない。


 だが、生活の質が上がる誘惑には抗いがたい。


 そんなことを考えながら、俺は空になったカップ麺の容器を見下ろす。


 ――その日の夕方。


 シルフィがやって来て、家の前に残っていた足跡を見た瞬間、真顔でこう言った。


「お前、狼獣人まで釣ったのか」


 俺はそっと目を逸らした。

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