ふたりきりの夜に
双子かと思いました、と言われるのが、アリキの何よりの喜びだった。ハレヤカだってまんざらではない顔をする。
顔は、あまり似ていない。しかし身長がまったく同じ二人は、ほとんどの服を共有することができた。同じ服を着て、同じ布団で寝て、同じ洗剤の匂い、体臭は混じりあい、人生は混じりあい、お互いの存在にお互いの存在が分かちがたく入り込むこと。双子みたいと言われるのはその象徴だった。彼が自分の家に帰るたび別の匂いをつけてくるのがさみしくて、ハレヤカの家のシャンプーと洗剤を教えてもらったほどだ。
窓を開けると、清浄な夜の空気が二人の匂いをかき混ぜてさらっていく。アリキは窓から少し乗り出して、肺の中の空気を入れ替えるように大きく息を吸った。居住区ランクDの小さな部屋はすぐ夜の匂いに満ちる。
シャワーを終えたハレヤカが「バイト忙しいの」と短く尋ねる。アリキがほんの少し疲れた様子なのを見逃したりしないのだ。アリキは、うん、まあ、と答えた後、「スイット星系のひとがよく来るから、チューブ型が売れてる。なんか流行ってるみたい、テラ旅行すんのが」と付け加える。ハレヤカははっきりした眉を大げさにゆがめて、「観光客、観光客、観光客さまさまってわけだ」と歌うように言って、ドライヤーをかけないので濡れたままの髪からぽたぽた落ちる雫に気づかない。アリキは内心期待しながら続きを待った。
ハレヤカは期待に応えていつもの演説をぶった。いわく、一度滅びかけたこの惑星が観光でなんとか持ち直したのまではまあいいとしても、そのあと自立する機会を失い続け、ほかに大した資源もなければ能もない、他星人の懐具合に寄りかかりきってよしとする危機感のなさ、この星がもう一度滅ぶのも遠いことではないだろう……ハレヤカの言い分はいつもまあまあの説得力があったが、恋人が──アリキが働いているのがまさにその他星人頼りの蜂蜜ピザ店であるというところを彼がどう思っているのか。べつにアリキにバイトを辞めろとかそんな仕事はくだらないとか言うでもなく、仕事は仕事、自分の意見は自分の意見だということなのだろうが、ただ涼やかに無視しているだけに見える。それともまさかひょっとして思い至っていないのか。そんなふうに考えるたび、アリキはその無邪気さ、振り回す腕の筋肉の盛り上がりや、薄い唇が呪詛を吐くのを思うさま眺めて、心底愛しいという気持ちになるのだった。
男らしい、という死語を、アリキは口の中で飴玉のように転がしてはうっとりする。おおらかで力強く、自分の意見を変えず貫き、弱いものを助け困難に立ち向かう。ハレヤカの健やかさにはその言葉がぴったりだ。とうに死んでしまった言葉だから、アリキの好きにすることができる。ハレヤカ本人に向けたことはない、きょとんとされるか、なにか新鮮な悪口と勘違いされるのが関の山だ。だからアリキの胸の中でだけその言葉は輝く。美しい、男らしい、彼の恋人。ようやく髪が濡れていることに気づいて、やって、と言う。アリキは、いいよと囁いてドライヤーを持つ。男らしい硬い髪。あまり硬いので、ドライヤーをしてやっているとときどき指の皮膚を浅く貫く。男らしい短い髪とそのつむじ。
地球人類はいったん滅びかけた。
いくつもの国が滅亡し、人口は激減し、一時期は地球外生命体と交流が行えるほど高かった文明レベルは著しく下がった。文化が消え、言語が滅び、技術が失われ、飢え、渇き、争い、ますます人口を減らした。それでも旧国連やその関連組織は、なんとか最後の世代の子供たちが最低限の暮らしを営める資源を残そうとしていた。いくつかの取り組みはうまくいき、いくつかの取り組みはますます人類の余命を短くした。苦しい撤退戦のすえに、人類の余命はあと数世代であろうと彼らは結論付けた。
そうこうしているうちに、ミファ人と呼ばれる地球外文明が接触してきた。あなたがたを助けてあげることはできないが、歴史と文化がすべて失われるのはあまりにも惜しい。地球人類史をアーカイブとして残したい。人類史をまとめて渡してくれたら、我々が責任をもってそれを記録しよう、といううような内容だった。旧国連はまあまあ喜んだが、一つ問題があった。地球人類の使う記録媒体は宇宙標準規格のいずれとも合わない。それならむしろ人類史を記憶した人間を寄越してくれれば、その思考と記憶をスキャンできるのだが、とミファ人たちは言った。
乏しい人的資源から、ぴったりな人間が選び出された。エイダ・ナカウチ。一度見たものは消して忘れない、並外れた記憶力を持つその女性は、数年をかけて地球上に残るかぎりの人類史をたたきこまれたあと、滅びゆく地球の生き証人としてミファ人たちのもとに旅立っていった。
……さて、人類はすでに地球外文明と完璧なコミュニケーションをとれるほどの技術力は失っていた。そのためなのか、それともミファ人たちの説明が悪かったのか、地球人類とミファ人の間には認識の相違があった。彼らは親切でアーカイブを取ろうとしたわけではなく、ただ──ミュージックビデオを作りたいだけだったのだ。
宇宙的に有名な音楽家が作成した楽曲に、滅びゆく辺境の惑星の光景や言葉を合わせたなら、感情に訴えかける美しいミュージックビデオができるだろうという企画だった。それを知ったエイダがどう思ったかは分からないが、ともかく彼らはエイダの記憶から美しい映像を作り出した。
人混みの中を歩く気持ち、妹が生まれたときの光、戦争、丸太を滑り落とす祭り、眠れない夜の布団の冷たさ、経血、有名な映画の有名なシーン、蜂蜜ピザの驚き、テロリズムへの怒り、男の言い訳、信仰の場、大統領選とデモ行進、オーロラ、技術革命、野の花を集めて作る花束、広い広い広い海、頬を寄せ合って撮る写真……。
人類史と彼女の個人的な思い出が混ざり合ったミュージックビデオは大変な人気と文化盗用との批判を同時に引き起こして宇宙的に有名になり、地球人類は多額の賠償金を得て訳も分からず生き延びた。そうして今も、観光地として宇宙に門を開いている。
エイダの記憶の中で、合成牛乳から作ったチーズと野生の蜂からぬすんだ蜂蜜のピザは、本当に輝かしくおいしそうに見える。おそらく滅びかけた人類の、信じられないくらいのご馳走だったのだろう。
そういうわけで地球にやってくる宇宙人はみな蜂蜜ピザを注文する。
アリキの専門は宇宙農学だが、奨学金が少ないので週五日蜂蜜ピザ屋で働いている。最近では職業を聞かれたとき、大学院生と答えるかピザ屋と答えるかちょっと迷うくらいだ。
宇宙港のある街なのもあって客の半分は観光の他星人だが、もう半分は近くの学校の生徒たちだ。クリーム色と黄色を基調にした明るい店内は、何時間でもおしゃべりしたい学生たちに居心地がいいらしく、学校が終わる時間には制服姿のティーンエイジャーたちでにぎわう。
しかし、店に入ってきたミヤビは一人だった。まっすぐカウンターのアリキに歩み寄り、「お兄ちゃん来てる?」と尋ねる。まだ学校は終わっていない時間のはずだが、制服のままなのを気にする様子もない。
「ハレヤカ? 来てないよ。そんなにしょっちゅう来ないよ」
「それならよかった。テラスタ、Sサイズでお願いします」
「はいはい」
アリキはストックからテラスタンダードのSサイズを選んでオーブンに入れ、ちょっと迷ってからアイスミルクティーも用意する。
「これはサービス」
「ありがとう、アリキさん」
ミヤビは顎の下で切りそろえた髪を耳にかけて、カウンター席の高いスツールによいしょと飛び乗った。まだ混み始める時間には早い。長期滞在で常連になったマトル人が奥の席に座っているだけだ。」
「ハレヤカに聞かれたくない話?」
「んー、うん」とストローを咥えて曖昧な声を出す。
「僕で役に立てるなら何でも言ってくれればいいけど」
オーブンからピザを出して、蜂蜜をかける。オーナーが質にこだわった合成チーズは、金色の蜂蜜がかかると一層輝いて見える。カットしたクルミを散らしてミヤビの前に置くと、ミヤビは古風に手を合わせて「いただきます」と言ってから食べ始めた。仕草は上品なのにあっという間に食べ物が減っていく不思議な食べ方がハレヤカとそっくりで、アリキは知らず微笑んだ。
「あのね、アリキさんの専攻って生物系だよね」
「広く言えばそう」
「これ読んでほしい」
ミヤビが手首の端末を数回タップすると、アリキの端末に通知が届いた。見ると、テキストファイルが送られてきている。水溶生命体の地球におけるふるまいについて書かれているようだ。アリキは斜めに数十行読んで、目を上げた。ミヤビはやや緊張したような面持ちでこちらを窺っている。
「ミヤビが書いたの?」
「うん」
アリキは改めて文章に目を落とした。水溶生命体は百年ほど前に地球に持ち込まれた生き物で、地球の環境汚染の一因と言われているがはっきりしない。論文は小規模な実験を通してその一種の行動原理を明らかにしようとしているようだ。詳しく読んでみないとわからないが、高校生の論文としてはよくできているように見える。
「すごい。自分ひとりで?」
「ん……実験は、学校の先生にだいぶ手伝ってもらった。先生はこれで大学の推薦行けるって言うんだけど、なんか自信なくて、アリキさんに読んでほしいなって」
「僕でよければ読むけど」
言葉の後に疑問を匂わせると、ミヤビは人差し指の指輪をぐるぐる回しながら何かを言いよどんだ。「なんでも言いなよ」と促すと、彼女は小さな声で「お兄ちゃんには黙っててほしい」と言う。
「いいよ」
「いいの?」
思いのほか強い語調に、アリキは目を瞬いて彼女を見返した。
「あの、このことだけじゃなくて。推薦が本当に決まって入学がはっきりするまで黙っててほしいの」
「僕はいいけど……いずれは話さないといけないでしょう?」
ハレヤカとミヤビの兄妹には親がない。ハレヤカは成人すると同時に妹の保護者として登録していた。
ミヤビは拗ねるように目をそらし、「……うん、分かってる。でもしばらくは」と口の中で言ったきり口をつぐんだ。アイスミルクティーをもう飲み切って、グラスの中で氷がごごごと鳴る。アリキはまだ何か言いたいことがあるのだろうと黙って待った。
「……お兄ちゃんは反対するよ。私が行きたい学校、地球外なの」
言うなり立ち上がって、「ごちそうさまでした」と言いながら耳たぶを二度タップして支払い申請をする。ドアの前でちょっと振り返り、何か言いかけたがすぐ口を閉じて小さく手を振った。アリキも手を振り返す。
地球外ね、とアリキは口の中でつぶやく。まあ、たしかにいくらか拗ねるかもしれない。ハレヤカは妹と地球のことが好きなのだ。
二年前、アリキが大学の食堂でぼんやりしているときに正面に座ったのがハレヤカだった。ただの相席だと思って気に留めず、相手が自分をやけに見つめているのに気が付いたのは何分か経ってからだった。金色がかった瞳が居心地の悪いほどまっすぐにこちらを見ていた。
「身長、何メルク」
声はやや低くぶっきらぼうだった。アリキはまだぼんやりしたまま「ひゃくごじゅう……」と答えた。
「ぴったり?」
「ぴったり」
ハレヤカは少しだけ身を乗り出してアリキの顔を覗き込んだ。その時点でアリキはけっこうどぎまぎしていて、「助けてほしいんだ」と彼が言ったときには、おや寸借詐欺かと思うことで自分を守ろうとしたほどだった。
「奉仕活動で劇をやるんだけど」
「うん?」
「俺と身長が同じ人がいるといいと思うんだ」
彼と彼の妹が育った児童養護施設のイベントで劇をやる。その中で、ある登場人物が客席の間を通って後ろに出て行ったはずが、すぐに舞台袖から出てくる、瞬間移動のシーンをやりたい。はじめは同じ奉仕活動のメンバーとやるつもりだったが、その人が怪我をしたので代役を探している……という話だった。
「相手はちびどもだから、同じくらいの体格で派手な衣装があれば十分目をごまかせる。出番はほんの数分だし、セリフも言わなくていい。なんならバレてもいい。面白い仕掛けをした、っていうのが大事なんだ。説教くさい劇は飽き飽きなんだよ、あいつら」
ハレヤカは同じ大学の夜間学生兼、小さな外来生物駆除会社の社員だった。異星人たちが地球や月に持ちこんで繁栄してしまった動植物の中で、害があるものの駆除をしている。地球環境を守る仕事、と彼はまじめな顔で言ったが、実際はその中でも美味とされる動物を食肉加工会社に卸すのが主な収入源らしい。それをやや苦々しく思っていることも言葉の端々からうかがえた。大学はろくに通っていないようだった。児童養護施設の奉仕活動は主に夜に行われた。
それからの、劇の練習の日々の楽しかったこと。はじめは緊張していたアリキもすぐメンバーになじみ、ふざけあい、ああしたほうがいいこういうセリフはどうかと意見を戦わせ、またふざけあった。
そのメンバーの中にミヤビもいた。ハレヤカの妹だというのが信じられないくらい表情の動かない子供だった。裏方なんだから練習来なくていいじゃん、と言うミヤビをハレヤカは毎回練習場所まで引っ張ってきて、何かあるとすぐ「ミヤビはどう思う?」と尋ねた。
ミヤビがそのころ学校の人間関係で問題を抱えていたことは後から知ったが、ハレヤカが妹を元気づけようとしているのはすぐに分かった。アリキは毎回ミヤビに話しかけ、蜂蜜ピザを差し入れ、一緒に買い出しに行って、だんだんと距離を近づけた。
本番の二日前に、「あの劇はね」とミヤビがそっと教えてくれた。「子供のころ私が好きだったお話なの。魔法使いの瞬間移動は、私が好きなシーンなの。だからあんなどうでもいいシーンなのに削らなかったんだよ、お兄ちゃんは」
ばかだよね、私はもうあんな子供っぽい話好きじゃないのにさ、と言ったミヤビの、少しひそめた眉のあたりがハレヤカに似ていた。
本番一時間前、食べ物が喉が通らず外の空気を吸いに出たアリキをハレヤカが追いかけてきて、「お前、緊張しすぎ」と大笑いしながら背中を叩いた。ハレヤカは全然緊張しないね、と恨みがましく言うと、彼はふいにやわらかい笑顔になって、「お前が失敗したら俺のせいだと思っていいよ」と言った。「俺が巻き込んだんだもん」
「あ、見て」とハレヤカが空を指した。月行きの直行便が昇っていくところだった。アリキの所属ゼミが持っている月面農場に、来月からアリキも泊りがけで行く予定になっていた。顔を上げて空を見ると、胸が開いて呼吸が楽になった。風が強い日で、雲は筋になって流れていた。
「緊張してるの、本番だけじゃなくて」
「ん?」
「これが終わっても、一緒にいてほしいんだけど」
月への直行便はやがて見えなくなった。沈黙に耐えかねてそっと横目でハレヤカを窺うと、彼は口を開けてこちらを凝視していた。
「今の……なしでいい?」とハレヤカは聞いたこともないような小さい声で言った。刺すような痛みで胃がぎゅっと小さくなる。目をそらして「うん」と言う前に、彼はアリキの腕をつかんだ。
「お前……お前っ、俺はなあ、終わってから言おうと……俺から言おうと思ったんだけど!?」
背後の遠くのほうでぽんぽんと花火のはじける音がした。この街では観光客向けに週一回は花火がある。始まりの合図の、音だけの花火だ。
アリキはあっけにとられ、「……え、いいってこと?」と聞き返した。
「いやそうだけど、そうじゃなくて! いいとかじゃなくて、俺から! 言いたかったの!」
アリキの腹の底から、ソーダ水の泡のように笑いが沸き上がって、口まで昇ってきてあふれた。「笑うなよ」と、やはり眉をひそめた笑顔のハレヤカが言って、掴んだままだった腕をぐいぐい振った。花火の音はだんだんと間隔が狭まり、ぽぽぽんぽぽんと間抜けだが胸に響く音になった。
肺いっぱいに新しい空気が入り込んで、生まれ変わったみたいだと思った。
ミヤビの論文に指摘と励ましを返信してから一週間後、ミヤビから通信があった。
「今日お兄ちゃんそっちに泊めて」
「いいけど」とカウンターを拭きながらこっそり答える。常連のマトル人は気にしないが、同僚に見つかると面倒だ。「どうしたの」
「もう、あの人やだ」とミヤビは癇癪を起した子供のように言った。「全然私の話聞いてくれないんだもん。追い出しちゃった」
「大学のこと? バレちゃったの?」
「そう」
「んん……よかったら僕からも話してみるけど」
「ありがと。アリキさんの言うことなら聞くかもしれないしね」言い慣れない皮肉で拗ねたような声になっている。
アリキが通信を切ると同時に、窓際の席のマトル人がこちらに合図をした。近寄ると、アイスコーヒーを注文する。いいなあ、と反射的に思ったか思わないかのうちに、マトル人は「あなたの分も」と言う。アリキはすこし居心地悪く「いいんですか」と尋ねた。本物のコーヒーの実をつかったコーヒーは高級品で、アリキはほとんど飲んだことがない。
「あなたの個人的なことを盗み聞きしてしまったから、そのお詫びだよ」とマトル人は言った。
盗み聞き、とは自虐的だ。マトル人は半径千メルクほどの空間にあるすべて、文字通りすべての現象を知覚できる。ほこりが落ちるのも、だれかの内臓の中でがん細胞が育つのも。彼はここ一か月ほどほとんど毎日この窓際に座って、道行く人の会話や葉擦れの音をずっと聞いている。
「……個人的なというか、恋人の妹の……」
「いや、そうじゃない。それより、あなた自身の恐れを聞いてしまったのがすまなくて」
恐れ、と聞き返すと、マトル人は微笑んでカウンターを指した。促されるままにアイスコーヒーを作り、長いストローを添えて差し出すと、マトル人は優雅に触腕を動かして一口飲んだ。気持ちよさそうに目を細める。
「地球に来て一番の収穫だなあ、コーヒーは。まとめ買いして帰ろうかな」
「人気が出てきて、来年には農場が増えるそうですよ。月で栽培できることがわかったので」
「そりゃあいい。蜂蜜ピザよりコーヒーを売りにするべきだね、地球は」
アリキが何か言おうとしてはやめるのを、マトル人はじっと見ていた。彼らなら、自分が何を言おうとしているのかわかるだろう、とアリキは思った。まだ言葉にならない気持ちがただの電気信号のうちに、彼には理解されているだろう。
「すまなかったね。無神経、と言うんだろう、こういうとき、地球人は」
「いえ……」
「恐れを大事にするといい。この短い滞在の間だけでも、恐れを見なかったことにする地球人がどれほど多いのかがわかったよ」
「僕が何を恐れているというんですか」
アリキが勇気を出して聞くと、マトル人はコーヒーを飲み干して、「ほうら、大事にしろと言ったばかりだろ」と言った。「あなたがたの言葉に該当することわざはないようだが、まつげをつなげれば足は届かない、というやつだ」
カウンターに戻った後、さっきのことわざを翻訳にかけようとして、やめた。コーヒーを作って、なるべくゆっくり、ゆっくり飲み干した。胸の奥がじんとしびれて、指の先や耳たぶまで心地よいしびれが広がるのを待って、大きく息を吐いた。
その日、ハレヤカが寝てしまった後にミヤビから着信があった。アリキはベランダに出てから通話をつなぎ、どうしたの、と囁いた。
ミヤビの声はほとんど泣いているようだった。
「そこにいる?」
「寝てる。聞こえないよ」
「来週出願の期限なの。もう本当に決めないといけないのに」
「ミヤビが本当に出願したいなら、保護者でも止められないよ。無理やりでも出しちゃって、あとで喧嘩すればいいんじゃないかな」
ミヤビは喉の奥を縮こませるように声をこらえ、ため息と一緒に「お兄ちゃんは私のこと好きじゃないんだよ」と囁いた。アリキは微笑みがばれないように真面目な顔で「そんなことないよ」と返した。兄妹喧嘩、という言葉の可愛らしさ。十年後には笑い話だ。
「じゃあどうして私の邪魔するの? なんで本気だって分かってくれないの。私が手の届かないところに行くのが嫌なだけだよ。お兄ちゃんは私を支配したいんだよ」
「支配?」とアリキは驚いて聞き返した。さっきの可愛らしい温かさが胸からさっと立ち去った。「支配ってどういうこと?」
ミヤビは慌てたように声を詰まらせた。しばらく何か言おうとしてはやめるのを、アリキは辛抱強く待った。
「……アリキさんは、お兄ちゃんと付き合っててそう思うことない? お兄ちゃんは、自分だけが正しくて、ほかは全部バカって思ってるって。全部自分の思うとおりにしたいって」
「そういう面は、たしかにあるかもしれない」とアリキは慎重に答えた。実際は、アリキに思い当たるというほどのことはなかった。地球人の情けなさを語っても、地球が一人立ちするという彼の夢を語っても、むしろ彼は自分の無力さをしっかり自覚していて、常に悔しさや虚しさを声のどこかに孕んでいた。語気は強くても、それが他人に──少なくともアリキに向かいすぎることはなかった。
「私のことは一番バカって思ってるんだよ」
「そんなことないよ。いつも、ミヤビは頭がいいから、俺と違って賢いからって言ってるよ」
「皮肉だよ、それは」
「僕に向かってミヤビの皮肉を言ってどうするの。ハレヤカは本当にそう思ってるよ」
ミヤビは、今度は攻撃的なため息をついた。「賢いっていうのはバカって意味だよ。そうじゃない?」
今度はアリキが口ごもる番だった。彼女はすぐ「ごめん」とつぶやいた。「アリキさんに当たってもしょうがないよね」
「……いいよ、当たっても」
「ごめん」
「いいってば。僕からハレヤカに何か言ったほうがいい?」
「……ううん、いい。お兄ちゃんが聞くと思わないし」
ミヤビの声からとげとげしさがなくなるまで、数分の間話をした。アリキの研究室にいる変な先輩の話とか、ミヤビの友達が闇ネイルサロンを開いているらしいとか、そういう話だ。今日は月がきれいだねえとアリキが言うと、ミヤビはこっちの部屋からは見えないよと笑った。
おやすみを言ってベランダへの窓を閉め、ハレヤカの横に滑り込むと、ハレヤカは薄く目を開けてこちらを見た。頭を少し持ち上げるのに応えて首の後ろに腕を差し入れ、頭を軽く抱きしめる。わずかに汗ばんでいる。あたたかくて湿っている生き物。ひとつの違和感もなく合わさった体の隅々に安堵が押し寄せる。
「ミヤビ?」
「そう」
「ご迷惑をおかけします」
アリキは低い声で笑った。少し体を離して、端末で時間を見る。ミヤビと話していたのは十五分くらいだろうか。
「心配なだけなんだよ」
「うん」
「わざわざ地球の外に出て、苦労することないだろ」
ハレヤカの声は穏やかだった。アリキは自分の眠気に気づいて目を閉じる。瞼の裏に星が見える。ミヤビが志望する学校は、地球からワープゲートをひとつ乗り継げば行ける惑星系だ。たしか地球からも恒星が見える。夜空を見上げるたびに彼女のことを考えられるなら、ハレヤカもそうさみしくないだろう。
「……ミヤビもじき分かってくれる」
「ん?」アリキは柔らかく聞き返した。自分の考えに気を取られて聞いていなかった。ハレヤカは少しだけ身をひねり、自分のよいポジションを見つけようと枕を引っ張った。
「進学したら、外に行きたがってたことも忘れるよ。そういうタイプなんだ」
アリキはしばらくその言葉を反芻して、起き上がってハレヤカの横顔を見た。ハレヤカは目を開けない。体の隅々まで安心しきって横たわっている、温かく湿った肉体。ハレヤカ、と囁いた声はわずかにかすれていた。
「本気で反対してるの?」
「そうだって言ってる」
夜は静かで、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえた。布団の温かさから勇気をかき集めて、アリキはなるべく冷静な声で言った。
「僕は、ミヤビのやりたいようにやるのが一番だと思う。縛ったらいけないよ」
そうか、とハレヤカは簡単に答えた。「お前はそう思うだろう」
アリキは言葉が見つけられずに、もう一度横になった。ハレヤカの肩に手を触れると、彼も腕を回してくる。体をくっつけていると、どうしようもない安堵が胸を満たして、たった今の会話はなかったことになった。
眠気のせいだ、とアリキは思った。眠いから、考えられないだけなのだ。夜中だから。朝になったらもう一度考えるから、となにかに言い訳しているうちに、エイダの演奏する音楽の中に落ちていく夢を見た。
アリキの研究室が持つ月面農場は、同じ研究室のメンバーが一か月ごとに交代で泊まり込んでいるのだが、今月の担当が一人、月面肺炎になって入院した。宇宙服の換気フィルターの換えを買えなかったらしい。農場の世話もデータ取りもほとんど自動なのだが、それでも誰かが現地でこまごまとした手当てをしてやる必要がある。誰か行けるものは、と言われたが、誰一人手を挙げようとしない。アリキは少し迷って、じゃあ僕が、と言った。
「お前はちゃんとフィルター買えよ」と同期が背中を叩いて研究室を出ていく。「しばらくバイト入れないのに?」とアリキは恨みがましく言ったが、かといって友人がフィルターや金を融通してくれることはない。端末から預金残高を確認して頭を抱えた。家賃を払ったらほとんど残らない。バイト先のオーナーに通信を投げて、シフトの調整を依頼すると同時に「すみませんが先月分を先に振り込んでいただくことは可能ですか」と言うと、うーん、と唸った後、「まあ、いつもお世話になってるからね。来月はもっと入ってもらうことになってもいい?」と言う。とため息を隠して了承した。
数日前に、何とか出願した、というミヤビからの連絡はあったものの、ハレヤカとは話せていなかった。合格発表は一か月後。向こうの惑星の周期上、入学の時期は星系外からのアクセスがしづらくなるので、すぐに大学の寮に入って、高校の授業は遠隔で受けることになる、とミヤビは言った。
続けてハレヤカに通話をかけると、仕事の休憩中らしかった。ハレヤカは文句を言いながらも地球外来種の駆除会社に勤め続けている。最近はマトル人の同僚が入って、ものすごく仕事がしやすくなったと言っていた。そういうわけだからしばらく会えない、と言うと、ハレヤカはそうか、金は大丈夫か、遠慮とかしないで言え、と立て続けに言った後、少し間をおいて「さみしいよ。頑張ってな」と付け加えた。アリキは思わず口元を緩めてから、すぐ気を取り直して「……ミヤビと話し合ってね」と言った。
「分かってる。ありがとう」
離れて声だけで話していると、ハレヤカの声が好きだ、といつも思う。奥行きのある、胸に響く声で、いつでも心がこもっている。
通話を切った後、しばらく窓から外を眺めていた。いかにも地球らしい──アリキは太陽系の外に出たことがないから話に聞くだけだが──オールドスタイルな高層ビルの三十階からは、街が途切れて荒廃したあたり、おそらくいまハレヤカがいるであろうあたりまでよく見える。エイダ以前、旧人類の遺産。折れたままの赤いタワー、地面にしがみつくように這う線路の跡。有害で大型の地球外来種はおもにそちらの旧市街のほうに住処があって、ハレヤカの会社はそれらが新市街のほうに来ないように防衛線を張っている。時折マナーの悪い観光客が本物の「エイダ以前」を求めてそちらに紛れ込んで野生動物に襲われては、ハレヤカの会社に助けられたりもする。廃墟を取り壊して公共施設でも作ろうという試みは百年に渡って進みが悪い。
ハレヤカはどうしてこの星が好きなのだろう、と思う。観光客頼りは情けないと言うのも、方針にぶつぶつ言いながらも今の仕事を続けているのも、どうやら地球ガ好きだからであるらしい。
ミヤビを地球に押しとどめようとするのも、ミヤビが好きだからだろうか?
アリキは目を閉じて、椅子に大きくもたれかかって天井を見た。とにかく彼女は出願できて、あとは結果次第なのだ。アリキにできることはない。二人が話し合うしかない。
上を向いたまま端末に触って、カレンダーを見る。月に行くのは明後日から一か月、その間にミヤビの合格発表が出る。ひょっとしたら彼女が地球を出るのと入れ違いになるかもしれない。
「そうならいいんだけど」
とつぶやいてから、自分で怪訝に思う。そうならいい? 彼女に別れを言えないのが? 一言、向こうでも頑張ってと、顔を合わせて言えないのが?
窓の外は薄暗くなっていた。バイト先に集う観光客たちは今頃、地球の夕焼けの写真を撮っているだろう。
合格発表の日を過ぎても、ミヤビからの連絡はなかった。二日に一度のハレヤカとの通信でも、その話には二人とも触れることはなく、アリキは半分忘れたような気持ちで農場の世話をし、データを取り、自分の論文を書き、月面都市で単発のバイトをした。
月-地球直行便の、一番安い狭い座席からなんとか立ち上がって、久しぶりの地球重力を感じながら伸びをする。月にだって疑似重力はあるが、やっぱり本物は違う。その足でバイト先に寄って、店長に詫びの月饅頭を手渡し、廃棄寸前の蜂蜜ピザを何枚かもらって家に向かう。
家に入ると、ハレヤカが待っていた。
「え、掃除までしてくれたの?」
「冷蔵庫もだいたい片づけた」
「助かるー!」
抱きついて頭をぐいぐい撫でると、ハレヤカは嬉しそうにアリキの背中を叩く。会いたかったよハニー、と言うと大声で笑って「調子に乗るなバカ」と言った。それからちょっと抱きしめ返して、すぐ離れる。
「なんか食べた?」
「まだ。ハレヤカは?」
「じゃあなんか食べに行こう。俺今日は帰らないと」
「オッケー」
バッグを開けて、洗濯機に着替えを放り込む。月では最低限の洗濯しかしていなかったので、密閉袋を開けるやわずかに嫌なにおいがした。自分も変なにおいかもな、と案じて、着ていたシャツも脱いで入れる。新しいシャツはこの間ハレヤカと一緒に買ったものだ。
「お待たせ」と言って部屋に戻ると、ハレヤカの手のなかに見慣れない端末があった。アイスブルーとピンク。ハレヤカの趣味ではない。
「あれ……端末変えた?」
「ん? いや、これはミヤビの」と言ってポケットにしまう。アリキは瞬いてそれを見た。言われてみればミヤビのものだ。
「……なんでミヤビのがここにあるの」
端末がなければ公共交通機関にも乗れなければ買い物もままならない。ハレヤカは肩をすくめて「うん、こうしないとどうやっても行こうとするんだよ」と簡単に答えた。
「どこに」
「だから、大学に。話さなかったっけ」
アリキの心臓がふいにどくどくと鳴りだした。足や買い物どころではない、端末がなければ生活はままならない。大学どころか隣町に行くこともできない。下手をすれば、家から出ることも。そうやって子供から端末を取り上げる親のことを、そう、何と言うのだったか。それは虐待の一つとして数えられるのではなかったか。
「……合格してたの?」
「そう。で、どうしても行くって聞かないんだ。飛び出していきそうな勢いだから、俺が外出するときはこうやって」
「ハレヤカ」と止める声を、アリキは他人のもののように聞いた。「それは……だめだ。それはだめだよ、ハレヤカ」
ハレヤカはけげんそうな顔をした。その顔があまりにもいつもどおりで、かえって見知らぬ他人のように感じた。
「ミヤビだってもう子供じゃない。せっかく合格したのに、なぜ行かせてあげないの」
「だから、何回も言ってるだろ。心配なんだ。わざわざ苦労させたくない。そんなに遠くにいたら、何かあっても助けてやれない。なんか変なこと言ってるか?」
視界が狭まって、心臓が強く脈打つ。信じられない、という思いの裏に、いや、こうなることは知っていた、という自分の声がする。こういうふうになることを知っていたから、わざわざ月行きを引き受けたのだ。目の当たりにしなくて済むように。彼が折れるか、彼女が折れるか、結果だけをのほほんと受け取って、過程に干渉しなくて済むように。
「ハレヤカ。ハレヤカにその権利はないよ。保護者だからって、なんでもしていいわけじゃない。端末を取り上げるのなんてやりすぎだ」
「取り上げたって、人聞きの悪い──」
ちょっと眉を上げて、口角をゆがめ、冗談に聞こえるように声のトーンを上げるのが、自分のことのようにはっきり分かる。無意識のうちにごまかそうとしているのだ。アリキをというより、ハレヤカ自身を。ハレヤカ自身の──そう、ミヤビが言っていたとおり、支配を。
「ちょっと……ごめん、本当に見過ごせない。そうやって無理やり取り上げるのはほとんど暴力だよ。それに、能力と意欲がある人が学校に行けないのは、僕は本当に嫌なんだ」
アリキが冗談にしないのを見て取って、ハレヤカは顔のパーツのひとつひとつを曲げるようにして、なんでもない表情に戻した。しばらく彼の顔を見つめ返した後、「そうだな」とつぶやいた。「お前はそう思うだろう」
二人はしばらく見つめあっていた。こういう風に見つめあうのは、まだ交際を始めたころ、相手の手に触れるのにもためらうころ以来だった。ハレヤカ、と囁くと、彼の眼差しが揺らいで、眉のあたりに不安と失望が見えた。彼は寂しさや悲しみを隠すことはない。恋人が自分の意見を分かってくれないのを、彼だって分かっていたはずだ。だから何でもないような声を出していたのに、アリキはその殻を無理やり破ってしまった。
「俺が間違ってるのか? 俺が家族のことを心配してるのが? ミヤビ自身より、お前より、ミヤビのことを知ってるし、考えてるよ。それで出した結論がこれなんだ。俺のどこが間違ってるんだよ」
ハレヤカの、奥行きのある、胸に響く声。いつでも心がこもっている。
アリキが手のひらを差し出すと、ハレヤカは素直にミヤビの端末を渡した。その手を握り締めて抱き寄せたくなるのを、アリキは懸命にこらえた。抱きしめて、ごめん、僕が違っていたよと言えればどんなにいいか。
「……ミヤビに返すよ。いいね?」
「お前がそうするのが正しいと思うなら」とハレヤカは疲れたような声で言って、椅子に座った。外からぽんぽんと花火の音がした。もう日が暮れるのだ。
「俺はミヤビは行くべきじゃないと思ってる。お前にも、なんで分かってくれないんだよって思ってる」
彼の指先が机を軽く叩く。そこに触れるとどんな硬さをしているか、アリキは知っている。
「意見が違うのは最初から分かってた。俺はするべきだと思ったことをした。お前もするべきだと思うことをする。お前の意見はお前の意見で、覆すのは無理だ。蜂蜜ピザ屋で働いてるのを、俺が何か言ったことがあったか」
アリキは言葉を失って彼を見た。さっきよりも強く花火が鳴った。この間花火の火が飛んで火事になりかけたらしいな、と場違いに思い出す。その再発防止がどうなったという話は聞こえてこない。ただ有耶無耶になっただけなのだろう、たぶん。
「……ミヤビにはそう思えなかったんだね」
なんとか絞りだした言葉だったが、ハレヤカに届いたとは思われなかった。彼は表情を変えずに「お前と妹は違うだろ」とだけ答えた。アリキの膝から力が流れ出て、床が水浸しになったような気がした。
ミヤビの端末を握り締めたまま外に出ると、観光客の一団とすれ違った。このあたりはただの居住区なのに、最近はよくスイット星系の人たちを見かける。彼らは賑やかに地面を這い、「重力が強いねえ!」とはしゃいでいる。
花火の音に背を向けて、ミヤビの家のほうに歩きだす。
ワープゲートの中継所まで行く船はもうなかった。アリキは宇宙港を駆け回り、なんとか探し出したレンタル宇宙船にミヤビを乗せた。船内のあまりの狭さに少し唇を尖らせる。旧式だから安かったのだとはいえ、アリキの実家にあるものよりさらに古い。ミヤビは無言のまま補助座席に自分の尻と大きな荷物を押し込んだ。シートベルトを締め、座席の角度を調整する。アリキは運転席に座って緊張を押し殺した。なにせ自分で運転するのは五年ぶりだ。
「中継所までで悪いけど、そこなら乗り合いが拾える。向こうとは連絡ついてるね?」
「……うん。抜けた先のワープゲート港で待っててくれるって」
「オッケー」
アリキもシートベルトを締めて、安全装置をいくつか確認し、自動運転モードに切り替えた。あとは射出機の順番が空き次第離陸できる。地球の重力から逃れた先でもだいたい自動運転で行けるはずだが、この古さだとあまり信用しないほうがよさそうだ。
ミヤビは無言のまま端末を見つめていた。ミヤビにもアリキにも、ハレヤカからの連絡はなかった。あの部屋で一人外を見ているハレヤカを想像すると、胸がつぶれるように痛んだ。
やがて射出機の順番が来て、再度安全装置を確認するようメッセージが出る。口に出してそれぞれの機能が動いているのを確認し、ミヤビに「いいね?」と尋ねると、ミヤビは両手を握り締めて頷いた。
離陸の瞬間はいつまでも慣れない。こんなおんぼろで本当に大丈夫なのか、と思っているうちに体中を押さえつけていた圧力がふわりと軽くなり、予定軌道に乗ったことを示すランプが点灯した。大きく息をつく。
「……地球見る?」
「そういうのいいから」
ミヤビはなんとかいつものようなおどけた調子で言った。それから本当に小さな声で「……ありがとう」と囁いた。
「……僕は、僕がしたいようにしただけだよ」
ミヤビは首を振った。
「アリキさんは……お兄ちゃんを取ると思ってた」
アリキは言葉を探した。はるかに背後にいるハレヤカの、頭を撫でたときの感触を思った。美しい、男らしい、愛しい恋人。抱きしめたときの筋肉の動き。
「取るとか取らないとかじゃないよ」
「でも別れることになっちゃったんでしょ」
アリキは反射的に「違う」と言った。「ハレヤカがどう思ってるかは分からないけど、僕はそんなつもりない」
言ってから、そうなのか、と思った。
彼を許せるだろうか? 彼が妹にしたことを、彼が妹を思っていると言いながら自由を奪うのを目の当たりにして、まだ愛せるのか?
「じゃあどうして私のことを助けてくれるの」
「……僕の両親は、僕が大学に行くのに本当に最後の最後まで反対してたんだ。今も反対してる。それだけだよ」
宇宙船がぐんと傾いて、軌道を変える。地球が遠ざかる。アリキはミヤビのほうを見て、彼女の少しだけうるんだ瞳を見て、「……違うな」と言った。
ミヤビの金色がかった瞳。この瞳が欲しかった。ハレヤカと同じ髪の色に、瞳の色に、肌の色になりたかった。生まれてこの方ずっと一緒なんですと言いたかった。だから同じように考えて、同じように感じて、同じように行動するんですと、そう誰かに言いたかった。
「君が邪魔だったからだ」
「え?」
「もし、ミヤビがあきらめて、地球に残って、ときどき一緒に食事をして……そのたびに僕は、ハレヤカが……ハレヤカの嫌いなところを思い出す羽目になる」
自分でも不思議なほど声は静かだった。ミヤビの目が見開かれ、指が震える。彼女を傷つけているとわかったが、口は勝手に言葉を紡いだ。
「君さえいなければ、見なかったふりができる。ずっと好きでいられる。一度の衝突さえ耐えれば済む」
まだ愛せる。いくらでも愛せる。ここにさえ触れなければ。好きな人の嫌いなところを、見ずに済ませられるなら。
何かのランプがちかちか光ったのを潮に、アリキは彼女から目をそらして、何か操作をしなければいけないふりをした。
「鞄に蜂蜜ピザが入ってる。よかったら食べて。ワープゲートから先テラの食べ物はあんまりないよ」
ミヤビは言われるままにのろのろと鞄に手を伸ばした。蜂蜜ピザの袋を開けて、包み紙を破く。蜂蜜のついた紙が漂っていかないよう、アリキは手を伸ばしてそれをつまんだ。ミヤビはピザをくるくる巻いて筒状にしてからかぶりついた。
無重力下で食事をするのはこつがいる。ミヤビは長いこと、本当に長いことかけて蜂蜜ピザを嚙みちぎり、咀嚼し、飲み込んだ。涙は流れずに目の周りにとどまった。
目的地に近づきました、というアナウンスが流れたあと、ミヤビはアリキのほうに手を伸ばした。「それでもありがとう」と彼女は言った。「それでも、本当に、本当にありがとう」
彼女の指先に蜂蜜がついていた。アリキは壊れ物を手にとるように、彼女の手を握り返した。
自分の家に帰ると、生姜と大蒜の匂いが出迎えた。それから肉を焼く匂い。ハレヤカは振り返らずに「おかえり」と言い、フライパンを煽った。ハレヤカは料理がうまい。アリキは「ただいま」と返してから、しばらくその背中を眺めていた。
自分たちはとてもうまくできるだろう、とアリキは思った。何もなかったように過ごせるだろう。時折思い出すことがあっても上手に話をそらして、意見がぶつかりそうになっても体をかわして。
ハレヤカの肩に手を置いて、フライパンをのぞき込む。麻婆豆腐だ。初めてアリキの部屋に来た時、このコンロ火力が足りねえ火力が、と文句を言いながら作ってくれたときと同じ。
「うまそう」
「うまいよ。山椒なかったから買ったよ」
「普通山椒なんてないんだよ、普通の家には」
そうかなあ、とハレヤカは笑う。彼が火を消すのと同時に、アリキは相手の腰に手を回して、肩に額を乗せた。重いよ、とハレヤカが囁く。同じ身長、似た体格、同じシャンプーのにおい。
まだ愛せる。
本当に長いことためらってから、アリキはささやいた。
「ハレヤカ」
「うん?」
「ミヤビは無事にワープゲートを抜けたよ」
見なくても、ハレヤカの顔からすっと表情が抜けたのがわかる。彼の腕から逃れようとして体がこわばる。アリキは顔を上げた。まともに視線がぶつかる。
「もう少し話したいんだ。どうしてこういうふうになったのか」
「なんで」とハレヤカは本当に戸惑ったように言った。「もう終わっただろ。お前はお前の我を通した。俺はそれを受け入れた。それだけじゃないか」
そのとおりだ、と頭の半分では思っていた。彼には彼の意見があり、自分には自分の意見がある。無理やり意見を覆させることはできない。ぶつかったなら、それ以降はそこを避けて通るようにする。
「それも一つのやり方だと思う。正直、本当にさっきまではそのつもりだった。でも、その道はないよ。なかったことにするんだ、今」
そうやって踏んではいけないところが増えるうちに、二人は離れられなくなっているだろう。愛情以外のものをつなぎにして。まだ愛せる、と繰り返して。
空っぽの胃に、絶対においしい麻婆豆腐の匂いがしみわたって、ほとんど吐きそうになりながら、アリキはハレヤカの目を見つめ続けた。
「これから同じようなことで百回喧嘩するか、今すぐ別れるか、どっちかにしよう」
金色がかった瞳が揺れて、さっきの、涙を目の淵にためながら蜂蜜ピザを食べていた彼女とそっくりになる。この人と、本当に一体になれればよかった。スイット星系の人たちのように、あるいは地球の、もう滅びたいくつかの種族のように、決めたつがいがいずれ一つになる体に生まれてくればよかった。抱きしめそうになる自分を、さっきよりもずっと強い力でとどめなければならなかった。
沈黙は長く、麻婆豆腐の表面が曇ったように膜を張るまで、二人はそのままの姿勢でいた。やがて、ハレヤカはアリキの手を取って体から外させ、握手するときのように握りなおした。
「分かった。話そう」
アリキは全身からどっと力が抜けるのを感じて、ほとんど泣きそうだった。でも、ここからなのだ。これはスタートラインで、彼とこれから喧嘩をしなくちゃいけないんだ、と自分に言い聞かせても、膝はぐにゃぐにゃと曲がって、彼にすがりつきそうになっていた。
彼の手もまた油で汚れていた。二人は台所の床に座り込んで、夜が明けるまで手を握りながら話した。
話しても話してもお互いの意見が一致することはほとんどなくて、明け方になってようやく二人は麻婆豆腐のことを思い出し、温めなおして食べた。信じられないくらい山椒が効いていて、アリキが身もだえすると、ハレヤカは「お前が帰ってくるか不安で間違えたんだ」としれっと言って蓮華を口に運んだ。
仕事に行くまでには二人とも少し時間があったが、続きは明日にしよう、とハレヤカは言い、アリキも同意した。仕事中に俺の言い分をもう一回考えておくよ、と言うので、どっちかっていうと僕の意見をもう一回考えてみてほしいんだけど、と返すと、空気はやや険悪に傾いた。それでもとにかく朝は朝だった。
手をつないで外に出ると、朝日がまぶしかった。紫外線除けの巨大な傘をさしたツリーズ星系人がしゃなりしゃなりと歩いていく。アリキの職場の近くまで来ると、街路樹の下でなにやら観光客たちが話している。
たぶんガガガリア人の、たぶんテラ人で言うと未就学児くらいの子供が泣いていて、大人たちがそれをなだめている。子供が持っていた風船が飛んで、街路樹にひっかかったようだ。アリキがそれに気づくのと同時に、ハレヤカはアリキの手を離して駆け寄り、風船に手を伸ばす。すぐに振り返って「肩車ならいけるんじゃない?」と言った。
アリキが近寄って風船を見上げているうちに、ハレヤカはさっさとしゃがんで背を向ける。ほら、と促されて、アリキはその肩に手をかけて、ほんの少しためらってから足を上げて首にまたがった。Tシャツの向こうの汗が感じられる。みっちりと詰まった筋肉の感触。アリキの好きな、男らしい肩。
「行くよ? せーの」
ぐんと視界が高くなって、アリキはちょっと笑ってしまう。「うはは」と笑い声すら漏れる。少しふらついたのは立ち上がるときだけで、ハレヤカはしっかりと立って背中を伸ばした。
「行ける?」
「行ける!」
ハレヤカの頭に左手をついて、右腕をうんと伸ばす。彼の硬い髪。いつもアリキが切っている。風船の糸をつかんで外すと、足の下でわっと嬉しそうな声が上がる。アリキも笑って、ちょっと泣いているのをごまかすために、彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。風船の糸を指に絡めて、汗ばんだ頭を抱きしめるようにする。おい、なんだよ、とハレヤカが嬉しそうに困ったように笑う。
この人の、こういうところだけ見ていたかった。男らしくて、愛情深くて、優しくて力強いところだけを。アリキは恋人で男で同い年でテラ人で、兄弟ではなくて、だから本当は見なくてもすんだかもしれないところを、そのまま見逃しておけばよかった。
ハレヤカがゆっくりしゃがむ。風船を出迎える子供が晴れやかに笑っている。