39:双子の姉は漂流する
海面に叩き付けられた衝撃で、ディアナの意識は遠のきかけた。
押し寄せる海水。
目に、口に、鼻に、一気に侵蝕してくる。
ああ、二度目の死はこんなにも呆気ないものなんだ……なんて、覚悟を決める余裕さえない。
暗い世界に沈み込んでいくその最中──ディアナの身体を抱えて、引き上げられる感覚があった。
深い海の底に誘われているディアナを、強引に攫う力強さ。
逞しい腕に抱かれて、ディアナの意識は今度こそ深淵に飲み込まれていった──。
ディアナが重い瞼を開けると、眼前に星空が広がっていた。
天井も、建物さえもない空間。
ただ無防備な大自然が広がっている。
傍らからは、パチパチと火の粉が爆ぜる音が聞こえてくる。
重い身体をのそりと起こせば、焚き火の側で暖をとる男──カーティスの姿が目に飛び込んできた。
「え──」
「目が覚めたか」
ディアナに目を向けることもなく呟いたカーティスは、下穿きこそ身につけてはいるものの、上半身裸の状態だった。
咄嗟に視線を逸らしたものの、自らもまた肌着同然の姿と気づき、呆然とする。
「別に下心があって脱がした訳じゃない。冷え切ってたからな、海水を拭いて体を温める方が先だ」
カーティスのぶっきらぼうな言葉で、ディアナは全てを悟った。
クラーケンによる襲来、それにより船から落ちた自分を助けてくれたのは──この男なのだと。
「……御礼を申し上げるべきでしょうか」
「くれるなら、貰っておくが」
ディアナの言葉に、カーティスが小さく笑う。
焚き火に照らし出された、屈強な肉体。
海の男らしく日焼けした肌は、剣士のアランほどではないが、引き締まった筋肉を纏っていた。
「ここは?」
「さぁな。どうやら人が住んでいる島ではないようだ」
「無人島に漂着したということですか……」
状況は、絶望的だった。
帰る手段──大海原に漕ぎ出す術はなく、水も食料もない。
「俺がここに居る以上、部下達が全力で捜索にあたるはずだ」
「そうね」
ディアナの応えは、短い。
気落ちしているのかと視線を送るカーティスだが、じっと一点を見つめるディアナの瞳は、強い光を湛えていた。
「お前もこっちに来て火にあたれ。冷えているだろう」
「大丈夫よ」
そう言いながらも、濡れた肌着に包まれていたディアナの身体は、体温を奪われていた。
のそりと身を起こし、カーティスとは距離をとって、焚き火に近付く。
警戒するようなディアナの態度に、カーティスの表情が僅かに綻んだ。
「別に取って食いやしない。襲うなら、とっくに襲っている」
「だからといって、こんな格好だもの……」
膝に顔を埋めるようなディアナの仕草に、カーティスが軽く肩を竦めた。
「もうじきに乾く。それにしても……」
何か言いたげなカーティスの言葉に、ディアナが顔を上げる。
視線を向けた先で、男の緑色の瞳と交差した。
「そう露骨に警戒されると、傷付くな。こう見えても、寄ってくる女は多いのだが」
「寄るつもりはありませんもの」
ふいと視線を逸らすディアナに、カーティスが声を上げずに笑みを零す。
「怯えているかと思ったが、そうではないようで、何よりだ」
カーティスにとって、女とは弱く、守るべき者だ。
中には強く自立した女性も居るが、海の上では、等しくその力を失う。
ましてや大海原に放り出され、男と二人で漂着した状態。
どんな女性でも、いや、性別を問わずに恐怖を感じて取り乱してもおかしくはない。
だというのに、目の前の女はどうだ。
自分に泣きつくことも、音を上げることもせずに、静かに焚き火にあたっている。
まるで、そうすることが最善とでも言うように。
「随分と余裕な態度だな」
「あら、ご自分で部下が捜索していると仰ったくせに」
さらりと躱す様は、やはり怯えているようには見えない。
「俺の言ったことを、そこまで信じているのか?」
「貴方を──ではありませんが」
ディアナの表情が一瞬和らいだのを、カーティスの目は見逃さなかった。
自分のことではないが、他の誰かを信じている──そう言いたげな、ディアナの言葉。
それが誰かなど、考えずとも分かる。
ディアナの夫──王弟アラン・ラトリッジ。
今は婿入りしてガザードの姓を名乗ってはいるが、王弟という立場以上に、ディアナはアランに心酔しているように見えた。
確かに、優れた剣士であった。
クラーケンとの斬り合いを見れば、嫌でも理解してしまう。
船を沈めようと海面から姿を現したクラーケンに勇猛に斬りかかり、最後には致命傷となるほどに深々と剣を突き立てていた。
正に英雄。
世が乱世ならば、剣を手に戦場を駆けて、次々に諸国を併合していったに違いない。
だが、カーティスとて一角の男。
ディアナほどの女が他の男のことばかり信用し心を寄せる様は、どうにも腹の奥底が沸々と湧き上がるのを感じてしまう。
(俺は、あの男に嫉妬しているのか──?)
今までにない感覚だった。
言い寄る女など、いくらでも居る。見目の良い女も。
だが、自分が興味を持った相手がこれほどまでに他の男だけを見つめ、自分には見向きもしない──そんな状況は、カーティスにとって初めてだった。
「お前が、フィーラン王国に生まれていれば……」
「え?」
自然と、思ったことがカーティスの唇から零れ出ていた。
慌てて口元を覆うが、時既に遅し。
ディアナは顔を上げ、瞳を瞬かせている。
「いや、お前がもしフィーラン王国に生まれていたなら、強引にでも俺の元で雇い入れたのにと思ってな」
「たらればの話ですね。私は生まれ変わっても、ラトリッジ王国に生まれていたと思いますよ」
実際に一度死んで二度目の人生を歩んでいるなど、カーティスは知るべくもない。
「そして、もう一度あの男と結婚するとでも?」
「……そうですね。そうありたいと願っています」
一度目の人生で、叶えられなかった想い。
その想いを、ディアナは二度目の人生でようやく成就させたのだ。
ディアナの言葉の重みを、カーティスが知ることはない。
だが、アランに対する気持ちの強さだけは、十分に伝わっていた。
カーティスの眉間に深い皺が寄り、唇が引き結ばれる。
「……チャンスさえ、俺に寄越す気はないのか」
カーティスの唇から零れた、ため息交じりの声。
その言葉の意味を図りかねて、ディアナがじっとカーティスを見つめる。
暫し、無言のまま。
パチパチと火の粉が爆ぜる音だけが、耳を擽った。
先に動いたのは、カーティスだった。
焚き火の近くに刺した枯れ枝に手を伸ばし、そこに掛けておいた服をディアナへと放る。
「もう乾いたから、着ておけ。目に毒だ」
「あ……」
自身が肌着同然の格好だったことを思い出し、ディアナの頬が赤く染まる。
ディアナがそそくさと衣服を身に纏う間、視線を背けたままで、カーティスが低く呟いた。
「それほど迄に、信じているのか……あの男を」
落水前と同じ衣服を身に纏ったディアナが、真っ直ぐにカーティスを見上げる。
「ええ、勿論。何かあれば助けてくださると、約束しましたから」
その瞳には、眩しいほどの光が宿っていた。
ディアナの言葉が真実となったのは、それから半刻後のことだった。
「アラン様!!」
「ディアナ──!」
真っ直ぐに夫の胸に飛び込むディアナの姿を視界から隠すように、カーティスはゆっくりと目を閉じた。
外洋に巣食っていたクラーケンは、アランの剣により退治された。
軍船は少なからず被害は受けたものの、十分に航行が可能な状態だ。
喜ぶべき戦果のはずだが、港町アンガスへと戻る間、カーティスの表情が晴れることはなかった。
それが何を意味するのか──当の本人だけが、認めようとしなかった。









