38:双子の姉は、海の魔物の恐ろしさを知る
「なんだ、あれは……」
船員の一人が、ゴクリと唾を飲み込む。
目の前で繰り広げられる光景に、誰もが魅入られていた。
海面に張った氷によって、航行不能になった海賊船。
その薄氷を突き破って、いくつもの白い柱が立ち上る。
高く聳えた白柱は、柔らかく弧を描いて船の舳先に、マストに、船体にと絡み付いていく。
バリスタや旧式砲台の射程からは外れた距離。
でありながら、バキリ、バキリ……と船体が押し潰される音が聞こえてくるようだった。
それほどまでにリアルで、異様な光景。
「化け物だ……」
誰かの震える声が、皆の意識を呼び覚ました。
「そうだ、あれは……」
「クラーケンだ!!」
海の魔物、クラーケン。
大王烏賊に似た生物だが、その大きさは比べるべくもない。
あまりに巨大、あまりに異質。
クラーケンに襲われて、無事に逃げ延びた船は居ないと言われている。
仲間の船を生け贄にして、かろうじて生き延びた船員達の口を通じて、恐怖が語り継がれている。
彼等曰く、あれは海の王者だ。
空の王者が伝説のドラゴンであるならば、海の支配者は、紛れもなくクラーケン。
ちっぽけな船を作り、大海原へと漕ぎ出した人間達を嘲笑うかのように、容赦なく蹂躙する。
海賊船を押し潰す白い柱の一つ一つが、陸を我が物顔で闊歩する灰色熊以上の大きさを誇示している。
水面に隠れたその本体の大きさは、如何ばかりか──その恐ろしさに、誰もが背筋を震わせた。
「舵を切れ、すぐさまこの場を離れるぞ!!」
いつもは冷静沈着な海軍提督カーティス・マクブライドの声にも、僅かな焦りが滲んでいた。
「海の魔物、クラーケン……まさか、本当にこの目で見る日が来るなんて……」
ミリアムが震える声で呟く。
海に纏わる者ならば、誰もが耳にしたことのある、伝説の存在。
恐怖の象徴──それがクラーケンだ。
「出くわしたら、逃げる他はないのか?」
怯えた船員達を他所に、アランがカーティスへと問いかける。
「所詮はでかいだけのイカだ、切って切れないことはない。ただ……問題は、あまりにデカすぎるってのと、足の一本二本を切り落としたところで、どうにもならないってことだな」
「ふむ……」
クラーケンはイカと同じく、一際長い触腕を合わせて、十本の足を持つ。
足を切り落としても、残りの足が次から次へと襲い来る。
海の王者と恐れられている所以である。
「この船はクラーケンが相手だろうが、簡単に沈められはしないだろうが……真っ正面から相手をするには、面倒過ぎる」
カーティスが指揮するフィーラン王国の軍船は、大型の鉄船だ。
巨大なクラーケンといえど、数本の足で容易く沈めることは出来ないだろう。
ならば今はさっさと離れるべしとばかりに、海賊船に背を向けて距離を取る。
異変は、静寂が伝えてきた。
波の音が、消えた。
海は、巨大な獣が息を潜めた時のように静まり返っていた。
「なんか……静か過ぎないか?」
甲板に立つ航海士の一人が、声を震わせる。
彼の視線が、不安げに後方の海賊船群に向けられる。
クラーケンに襲われていたはずの海賊船は、変わらずそこにあった。
──おかしい。
あの怪物に捕えられていたはずの船が、一隻も沈んではいない。
「──全速前進!!」
それに気付いた瞬間、船上に航海士の悲鳴が迸った。
同時に、水音が飛沫を上げる。
甲板に立つ船員達の目が、一点に集中した。
イカに似た、白い触腕。
その先端には、グロテスクな吸盤がひしめいている。
一本だけでも、大型船のマスト以上に太い。
そんな触腕が、上空から甲板めがけて振り下ろされる。
「わあああぁぁぁ!!」
「ひぃぃっ」
巨大船は大きく揺れて、数名の航海士が海へと投げ出された。
船から落ちた船員を救うどころではない、海面からは新たな白い柱が立ち上る。
もう一本の触腕が、今度は船体に巻き付いた。
「もう、終わりだぁ……」
「やっぱり、海を越えて交易なんて無理なんだ……」
信心深い船乗りから、恐れの声が上がる。
彼等にとって、クラーケンが棲まう海域は不可侵の印。
その領域を侵したのだから、天罰が下るのは当然とばかりに、既に戦意は失われつつあった。
「ふざけたことを抜かすな! まだ何も終わっちゃいねぇ! この距離では大砲は使えんが──バリスタを用意しろ!!」
そんな中、叱咤の声を上げたのは、海軍提督のカーティス・マクブライドだ。
揺れる甲板を危なげなく歩き、船員達に次々と指示を飛ばす。
「お嬢さん方は、船室に引っ込んでな。万が一にも沈むようなことでもなけりゃ、そこが一番安全だ」
カーティスの鋭い視線が、ディアナとミリアムに向けられた。
戦闘能力を持たぬミリアムは勿論のこと、海賊との戦闘で相当な魔力を消費したディアナも下がらせた方が良いとの判断だ。
ましてや、ここは揺れる甲板。
船に不慣れなディアナでは、万が一にも落水の恐れがある。
それを理解しているからこそ、ディアナとミリアムは大人しく頷くのみだった。
「おっと、クラーケンに剣は通用するんだろう?」
アランの太い指が、腰に提げた剣の柄を叩く。
挑発的な視線が、真っ直ぐカーティスを見据えていた。
「足元は悪いが、いけるか?」
「ああ」
船の上であっても、ここは戦場。
言葉少ないながらに、通じるものがあったのだろう。
アランの返答を聞いたカーティスは小さく頷き、再び指揮を執る為に踵を返した。
「悪いが、ディアナを頼む」
ディアナのことをミリアムに託し、アランもまた、船の舳先へと向かう。
「アラン様……」
その背を、ディアナはじっと見守ることしか出来なかった。
船室に降りる階段に向かうディアナとミリアムだが、甲板はクラーケン襲来に対応する船員達が激しく行き交っていた。
彼等の間をすり抜け、真っ直ぐに船室を目指す。
そんな二人を嘲笑うように、船体が一際大きく傾いた。
「なんだぁ!?」
船乗り達が驚愕した視線を向ける、その先。
船の舳先にしがみ付くようにして、巨大な“何か”が居た。
足を絡めただけでは鉄船を沈められぬと知って、自ら水面に顔を覗かせた、船よりも遙かに巨大なもの。
イカのような胴体に、濁った巨大な眼。
ギョロリと見据えたその先には、剣を構えたアランの姿があった。
「──きゃあぁ!」
「ミリアム!?」
一方、船尾では傾いた船体に足を取られ、ミリアムが斜面を滑り落ちていた。
そのまま斜面を転がればいずれ海に投げ出されただろうミリアムは、ディアナが差し出した手によって、かろうじて落水を免れた。
右手でミリアムの手を掴み、左手で舷牆にしがみ付くディアナの身体は、引き裂かれそうなほどに悲鳴を上げていた。
「おい、大丈夫か!」
そこに、船員の一人が声を掛けてきた。
彼がミリアムを助け起こしに向かったことを確認して、ようやくにディアナが息を吐く。
船の前方では、夫が先陣を切ってクラーケンに斬りかかっていた。
その頼もしい姿に安堵しつつ、船の惨状を見遣る。
(酷い有様ね……)
あまりに巨大で、あまりに理不尽な侵略者。
海賊などとはスケールが違う上に、こちらは話も通じないと来た。
フィーラン王国との交易を軌道に乗せる為には、避けては通れない障害──だが、前世でもクラーケン討伐でカーティスは多くの部下を失ったはずだ。
それでも、アランなら──と、ディアナは願わずには居られない。
現に、水面から姿を表したクラーケンは、アランの刃から逃れようとがむしゃらに触腕を振り回している。
海の王者が、ただの獣のように藻掻いていた。
(アラン様なら、きっと大丈夫……)
そうディアナが確信した瞬間、白く太い足の一本が、船尾をなぎ払った。
「あ──」
掴まっていた舷牆が粉微塵に破壊され、ディアナの身体が宙に浮き上がる。
船体は大きく傾いて、見下ろす真下には海面が揺らいでいる。
アランの手にした刃が、クラーケンの眉間に深々と突き刺さった瞬間──ディアナの身体は、海面へと急降下していた。
「──ディアナ!!」
ミリアムの悲痛な声も、船の舳先までは届かない。
だが、中央で指揮を執っていた男の耳には、確かに届いた。
「くそっ」
声に気付いたカーティスが視線を巡らせた先で見たもの──それは、海に投げ出されたディアナの姿。
誰もが息を呑む中、素早く動く影があった。
投げ出されたディアナの後を追うように、カーティスは迷うことなく海面へと飛び込んだ。









