25:双子の姉は謀を巡らす
「ディアナ……」
ディアナの声が聞こえた気がして、アランが顔を上げる。
夜の闇が漂う中、地上に月が降りてきたかと思うほどに目映い銀糸。
美しく、そして凜とした婚約者の姿が、そこにあった。
その背後には、あの宝飾店の店主も付き従っている。
店主が一緒ということは、既に指輪のことはディアナも知っているのだろうか。
「すまない、俺は……」
「いいえ、謝らないでください、アラン様」
謝罪しようとするアランの声を、ディアナが押し止める。
ベンチに座る長身のアランを、今だけはディアナが見下ろしている。
「謝らなければならないのは、私の方なんです」
「ディアナが? 何故──」
アランが問おうとした時、店主がすっと何かを差し出してきた。
そちらに視線を向けて、アランの瞳が見開かれる。
「これは……」
店主の掌に置かれていたのは、あの日二人が注文した指輪だった。
アメジストとタンザナイト、二種類の宝石が嵌められた二つの指輪が、月の光を受けて小箱の中でキラキラと輝いている。
「あらかじめ、お願いしておいたんです。もしアラン様以外の方が取りに来たとしても、この指輪を渡さず、代わりにダミーの指輪を渡してほしいと」
「なんと……」
ディアナの慧眼に、アランはただ感心するばかりだった。
二人の結婚を妨害したいのは、何もアランに想いを寄せるモニークだけではない。
つい先日まではマイルズもそうだったし、王太子ローレンスもまた、面白くは思っていないだろう。
そして、ローレンスが敵に回るのであれば、必然的にコーデリアのことも信用は出来ない。
一番最悪のケースは、ディアナの振りをしたコーデリアが指輪を取りに行くことだった。
そうなれば、如何に警戒したところで、ほとんどの者は騙されるだろう。
だからこそ、自分自身さえも信用しないようにと──アラン以外の者には渡さぬようにと、あらかじめ頼んでおいたのだ。
ようやくアランに直接指輪を渡すことが出来て、店主が安堵した表情を浮かべ、店に戻っていく。
夜の公園には、アランとディアナの二人きり。
風に揺れる銀糸を、アランはぼんやりと見つめていた。
「モニークがああなることを、ディアナは分かっていたのか?」
「……あそこまで短絡的な行動に出るとは思いませんでしたが、あの方がアラン様に並々ならぬ想いを抱いていること、私との関係を腹に据えかねていることは、気付いておりました」
「そうか……」
ベンチの背もたれに寄っ掛かるようにして、アランが夜空を見上げる。
中空に座す月も、地上の月ほど彼の心を揺さぶりはしない。
「おかげで助かった」
短い言葉は、苦々しさに満ち溢れていた。
ディアナはなんと聡い女性か。
それと比べて、自分はなんと愚かなのだろう。
親しいと一方的に思っていた女性騎士の心中さえ、分かっていなかったのだ。
彼女は正に神々しい月のようだ。
あまりに美しく、聡明で、それでいて──どこか儚い。
それと比べて、自分はどうだ。
美しい月を崇め、ただ見上げることしか出来ないのではないか。
「……人を信じられることは、アラン様の美徳だと思います」
そんなアランの想いを知ってか知らずか、ディアナが小さく呟く。
地上の月に視線を戻せば、美しい面には、どこか悲しげな笑みが浮かんでいた。
「愚かなだけではないのか」
「いいえ」
自嘲気味なアランの声と、それを強く拒むようなディアナの声。
「私はもう……誰かを心の底から信じることが、出来ないので……」
そう言って微かな笑みを浮かべたディアナは、表情とは裏腹に、どこか泣いているようにも見えた。
「だから今回のことにも気付けたと?」
「最悪の事態を想定したまでです」
「流石だな」
「考え過ぎなら良かったのですけれどね」
苦笑を浮かべながら、ディアナがアランの隣に腰を下ろした。
逞しい腕にもたれ掛かるようにして、身を寄せる。
華奢な身体は夜風で冷えたせいか、それとも他の理由か、少し震えているようにアランには感じられた。
「あっ」
アランの逞しい腕が、ディアナを抱きしめる。
冷えた身体が温もりに包まれて、ディアナはアランの胸で、静かに目を閉じた。
「ディアナは……俺のことも信じられないのか?」
「それは──」
アランの問いに、ディアナが息を呑む。
先ほど、彼女は「誰かを心の底から信じることが出来ない」と言った。
ディアナのコーデリアへの態度からして、双子の妹さえ信じていないのは、間違いないのだろう。
ディアナは、暫し言葉を返せずにいた。
どれだけ自分に問うても、答えは出てこない。
アランのことは、信じている。
きっと、誰よりも頼れる人だとも分かっている。
でも、今の自分に人を信じるだけの強さが残されているのか──ディアナには分からなかった。
「……分かりません。信じたいとは思います。でも、もし貴方にまで裏切られてしまったら──」
その時は、自分はどうなってしまうのだろう。
コーデリアに刺された時の記憶が、今もディアナの胸を締め付ける。
あんな想いは、もうしたくない。
誰かに裏切られるのは、ごめんだ。
それなら、もう誰も信じなければ良いのでは?
弱い自分が、心の中でずっとそう囁き続けている。
そんなディアナを、アランは力の限りに抱きしめた。
「すまない、意地の悪い質問をしてしまったな」
「あ──」
思考の坩堝から解放されて、ディアナがほっと息を吐く。
そして甘えるように、自分を抱きしめるアランの胸に頬を寄せる。
「そうですよ……そんな事態は、想像したくもないんですから」
トクン、トクンと、二人の鼓動が重なる。
痛いほどに抱きしめるアランの腕が、今は心地よい。
「ディアナ、こんなことを言うのも何だが……あまり、一人で思い詰めないでくれ」
アランの言葉に、ディアナが顔を上げる。
ブルーグレーの瞳が、真っ直ぐディアナを見下ろしていた。
「さっきの君は、酷く悲しげだった……まるで、実際に手酷い裏切りを受けたことがあるかのように」
「そう……ですね」
無いとは言えない。
アランに対して、嘘を吐く気にはなれない。
だからと言って、本当のことも話せない。
ただ曖昧に、言葉を濁して笑うのみだ。
そんなディアナの表情があまりに痛々しくて、再び、アランは力強く彼女を抱きしめた。
まだアカデミーを卒業したばかりの、成人と呼ぶにも不安定な時期。
そんな年頃の女性が、一体どんな裏切りを受けたら、これほどまでに悲しげな表情を見せるのだろう。
マイルズのことか? とディアナに付き纏う男の姿がアランの脳裏に浮かぶが、あの男とはそこまで踏みこんだ関係ではなかったように見えた。
ならば、他の誰が彼女をここまで傷付けたのだろう。
この細い身体に、一体どれだけの悲しみを抱えているのだろう。
「ディアナ」
そっと、アランの指がディアナの頬を撫でる。
「これからは、夫として……俺が君を守るから」
彼女ほどの機転は利かないし、人心の機微も、ディアナの方が心得ているだろう。
だが、彼女の心はあまりに脆い。
せめて、自分がディアナを守る盾になれれば──アランはそう願わずには居られなかった。
「アラン様……貴方がそんなに優しいから、私は弱くなってしまいそうになるんですよ」
そう言って微笑んだディアナの目尻には、大粒の涙が浮かんでいた。
ディアナの目尻にそっと唇を落とし、その涙を拭う。
「弱いことは、悪いことではない」
剣に秀で、誰よりも強くあろうとしてきたアランだからこそ分かる。
強さも弱さも、画一的なものではない。
弱い心にこそ、誰よりも深い愛情や、優しさが隠れていることもある。
「ディアナは、もうこれ以上傷付きたくないだけなのだろう?」
アランの言葉に、涙に濡れた瞳が大きく瞬いた。
ずっと、強く美しい女性だと──そう思っていた。
幼かったディアナが、いつの間にかこんなにも立派に成長したと、そう感じていた。
だが、違う。
本当の彼女は今も傷付きやすく、泣き虫な少女のままだ。
あまりに臆病なディアナ。
そんな彼女が、それでも誰かを頼ろうと必死に手を差し伸べたのが自分だったのだと思えば、アランの胸にじんわりと熱が広がっていく。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を、アランの指が拭う。
「ディアナ、これだけは覚えておいてほしい」
濡れた瞳が、じっとアランを見つめる。
「何があろうと、俺は君を裏切るようなことはしない。これからの人生を、君と共に過ごすと決めたのだからな」
「……はい」
返す言葉は、再び涙に飲み込まれた。
そんなディアナの嗚咽さえも全て飲み込むかのように、月明かりの下、ゆっくりと唇が合わさった。








