13:双子の姉は裏通りに足を踏み入れる
ノックの音が聞こえ、ディアナが自室の扉を振り返る。
「どうぞ」
扉が開いた瞬間、目に飛び込んできたのは大輪の花々。
差し出された花束から、ふわりと柔らかな香りが漂う。
「え……?」
「その、随分と順番がおかしくなってしまった気がしてな」
花束を差し出した当人──アランは、もう一方の手で恥ずかしそうに頬を掻いた。
「今度、揃いの指輪も作りに行こう」
「はい……!」
花束を受け取り、笑顔を浮かべるディアナの頬を、アランの指がそっと撫でる。
「ディアナ殿……いや、ディアナ」
ディアナの鼓動が、どくんと跳ねる。
甘い声に、身体が蕩けそうなほどに熱い。
今にも心臓が爆発するのではないかと思うほどだ。
受け取った花束をテーブルに置くと、二人の距離はさらに近くなった。
気付けば、ディアナの身体はアランの逞しい腕に抱かれている。
とくん、とくん……と聞こえてくる鼓動は、果たしてどちらのものなのか。
重なり合う心地よい音に、ディアナが静かに目を閉じる。
アランの掌が、ディアナの頬を包み込んで──、
唇が、しっとりと触れ合った。
二度目の口付けは、互いの体温も、唇の感触も、しっかりと伝わっている。
唇が離れてすぐ、恥ずかしさで頬を染めたディアナが俯き、アランの胸に顔を埋めた。
そんなディアナの髪を、アランの手が優しく撫でる。
想いを通い合わせた二人の、優しく甘やかな時間。
しかし、そんな穏やかな時間は、長くは続かなかった。
「流行り病の兆候──ですか?」
「ああ、王都で一部確認されたらしくてな。今はまだ、そこまで広がってはいないんだが……念のため、騎士団でも警戒を強めることにした」
何気ない世間話のつもりだったのだろうアランの言葉に、ディアナの心臓が鷲掴みにされる。
(お父様が亡くなる切っ掛けになった、あの恐ろしい疫病がついに──)
いまだディアナの魂を震わせる、前世の記憶。
ただの夢ならばとうに忘れて、ここまで鮮明に覚えてはいないだろう。
その生々しいほどの記憶が、流行り病と聞いただけで、ディアナの肩を震わせる。
前世の流行り病は、王都のスラム街で発生した。
貧しい者達の間で広がる病だとして、王宮の対応は後手に回ってしまった。
稀少な治癒魔法の使い手は全て貴族達が囲い、市井には治療術士も医師もほとんどおらず、病人達は野放しとなった。
当然、病の流行は拡大するばかり。
最終的に王宮が下した判断は、スラム街の封鎖──病の発生源を隔離することで、事態の沈静化を図ったのだ。
スラム街を隔離したところで、病は一向に収まる気配を見せなかった。
王宮が民を見捨てた中、立ち上がったのがガザード公爵ウェズリーだ。
ガザード公爵は自ら指揮を執って病の根本的な発生原因を調査すると同時に、病人達の治療にあたった。
調査の甲斐あって、病の感染原因が王都の下水道に巣食う鼠であると突き止めた頃には、ガザード公爵自身もまた死病に冒されていた。
(私やコーデリア、屋敷の者達に感染することを恐れて、お父様は看病さえ拒んでいた……)
死の間際、最後まで病の究明にあたっていた父の姿を思い出す。
アカデミー卒業まで時間が巻き戻って、元気な父と一緒の時間を過ごすうちに、嫌な記憶は片隅に追いやっていた。
でも、もう目を背けている訳にはいかないのだ。
「ディアナ殿……?」
「あ……」
事情を知らぬアランが、心配そうにディアナの顔を見つめる。
そんなアランに、ディアナは力無く微笑んだ。
「すみません、あまりに恐ろしい話だったものですから、つい」
「そうだな、病が相手では我等には対処のしようがない」
アランの顔にも、苦い表情が浮かんでいる。
前世で流行り病が発生したのは、既にアランが亡くなった後のことだった。
アランが生きていたなら、医師も治療術士も派遣せずにただスラム街を封鎖した王家の決定を、止めてくれただろうか。
今世はアランが居て、現に彼が所属する第三騎士団では警戒を強めてくれているという。
(前世では、お父様を手伝うことさえ出来なかった。でも、今は違う──)
死病に感染しなければ、ガザード公爵は命を落とすことはなかった。
今からなら、死病の大流行を防げるのではないか。
(私に何が出来るかは分からないけど……)
何もせずに、後悔したくはない。
静かな決意を漲らせるディアナを、傍らのアランは心配そうに見つめていた。
「なぁなぁ、お嬢。なんでスラム街なんかに向かうんだ?」
「言ったでしょ、流行り病の広まり具合を確認しに行くのよ」
翌日、ディアナは護衛のイアンを伴い、王都の裏通りを歩いていた。
向かう場所が向かう場所だけに、護衛を断り一人で訪れたかったのだが、公爵令嬢という立場がそれを許さなかった。
悪漢に拐かされかけた幼い頃とは違う。
今はもう、護衛なんて必要ないのに──ディアナとしてはもどかしいが、彼等の仕事を奪う訳にもいかない。
それならせめてと、気心の知れたかつての護衛騎士、現ガザード公爵騎士団副団長のイアンを伴ってやって来たのだ。
「スラムに行く公爵令嬢なんて、聞いたことないって」
「何においても、先駆けは居るものよ」
「名誉のない先駆けだなぁ」
軽口を叩きあいながらも、イアンの視線は油断なく周囲を警戒している。
「相変わらず、しけた場所だな……」
イアンの呟きに、ディアナが顔を上げる。
フードで隠していた銀色の髪が、はらりと舞った。
「そういえば……イアンはこの辺りの出身だったっけ?」
「ああ、一応な」
今では名門公爵家の騎士団副団長を任されているイアンだが、かつては孤児として、王都の裏通りに屯していた。
スラム街出身の悪ガキ達が目を付けたのが、世間知らずなお貴族様──ガザード公爵の懐だった。
そう、今でこそ副団長を務めているイアンだが、かつて掏摸として公爵の財布を狙って捕らえられた過去を持つ。
悪ガキ達を引っ捕らえて説教し、騎士団に入れて更生させたのが今の彼等の雇い主、ディアナの父であるガザード公爵ウェズリーだった。
言葉遣いが荒く、主家の令嬢にも軽い態度で接するイアンだが、ガザード家に対する忠誠心は厚い。
いや、それは何もイアンに始まったことではない。
孤児だったイアンを更生させ、騎士としての仕事を教えただけでなく、副団長に登用するようなウェズリーだからこそ、騎士達が慕い、忠誠を誓ってくれているのだ。
ウェズリーもまた、彼等の生まれた場所であるスラム街が医師の派遣もなく隔離されたことが、許せなかったのだろう。
「もうどうせ、知った奴もほとんどいないけどさ」
そう言いながらも、イアンはどこか懐かしげに目を細めている。
ディアナにとってはただの薄汚れた街並みでも、イアンにとっては懐かしい場所なのだ。
そんな当たり前のことを、今更ながらに実感した。
「それにしても……」
ディアナもまた、フードの下から周囲の様子を窺う。
貴族令嬢然とした容姿を隠す為にフードを目深に被って歩いているが、フードはディアナの表情をも隠してくれていた。
(あまりに酷い……)
フードの下で、ディアナは小さく息を吐いた。
王都の街を歩いたことは何度もあるが、スラム街に立ち入ったことはない。
淀んだ空気。
薄汚れた街並み。
路地の脇には、煤だらけの顔をした子供達が地面に座り込んでいる。
建物の壁は汚れ、中には落書きをされている所もある。
商店らしい商店はなく、路上に茣蓙を敷いて商品を並べている。
多少土が付いたところで、誰も気にしないのだろう。
あまりに不衛生な環境に、ディアナの表情が翳る。
そんなスラム街のあちこちから、咳き込むような音が絶えず聞こえていた。
中には道端に倒れ、横たわっている者も見える。
誰かが倒れていても、誰も気にしない。
明日は我が身かもしれないのだ。
人の生き死にが、あまりに軽い場所。
それがスラム街なのだと、ディアナは今正に実感していた。
「ぐっっ」
道端に倒れた男が、苦しげなうめき声を上げる。
噎せるように上体を起こした男の首元には、薄黒い斑点が浮き上がっていた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ろうとするディアナの前に、イアンが立ち塞がる。
「やめろよ、お嬢。本当に流行り病だったら、お嬢だって感染するかもしれないんだぜ!?」
「でも──」
なおも言葉を続けようとするディアナの身体が、不意に傾ぐ。
突然右腕を掴まれて、ディアナが驚き後方に立つ男を見上げた。