1:双子の姉は回帰する
深夜のガザード公爵邸。
暗闇が支配するガザード公爵の執務室に、ゆっくりと深紅が広がっていく。
「ごめんなさい、お姉様……もう、こうするしか……」
ガザード公爵の双子の妹コーデリア・ガザードの震える手は、赤く染まっていた。
毛足の長い高価な絨毯に、染みが広がっていく。
それに反比例するかのように、ガザード公爵ディアナ・ガザードの身体からは、急速に熱が失われつつあった。
「お姉様が……ディアナが、悪いのよ……!」
(どうして、コーデリア……)
ディアナの腹を、先ほどまでコーデリアが手にしていた短剣が深々と貫いている。
ドクドクと、傷口から今も血が溢れ続けている。
双子の妹に語りかける言葉も、もはや声にはならぬ。
(私達は、魂を分かつ相手ではなかったの──?)
信じていた妹が、己が命を奪う。
その事実が、痛み以上にディアナの魂を侵蝕していく。
ディアナの血で染まった執務室の絨毯よりも、どす黒い色。
(コーデリア……おのれ、コーデリア……)
遠のいていく意識の中、最後に浮かぶのは自分を殺した双子のことばかり。
(絶対に──許さない!)
こうしてガザード公爵ディアナは、二十五歳という短い生涯に幕を下ろした──はずだった。
レースのカーテン越しに、朝の光が差し込んでくる。
いつもの時間。いつもの景色。
しかし、朝の目覚めは爽快さとはほど遠いものだった。
「コーデリ……ア?」
譫言のように双子の妹の名を呼んで、ふと意識が浮上する。
ディアナが目覚めたのは、王都にあるガザード公爵邸の自室。
慣れ親しんだ部屋。
むくりと上体を起こせば、身体は酷く重く、鈍っていた。
(おかしい、私はコーデリアに刺されて死んだはずでは……?)
どす黒い血で濡れていた腹は、清潔な寝衣に包まれている。
ベッドから立ち上がり、姿見の前へ。
爵位を継承してからというもの、激務と心労で肌は荒れ、目の下には濃い隈が出来ていた。
だが姿見に映るディアナの姿は若々しく、白い肌には触れば弾けるような張りがあった。
「これは……?」
姿見を見つめ、呆然と呟く。
銀色の長い髪、紫色に輝くアメジストのような瞳。
ふっくらと紅が差した頬、艶やかな唇。
双子の妹コーデリアと良く似た面影は、正に若い頃のディアナそのものの姿だ。
「お姉様、まだ眠っていらっしゃるの!?」
勢いよく扉が開いて飛び込んできたのは、姿見に映るディアナと生き写しの姿。
アメジストの瞳がぱっちりと瞬き、その口元には快活な笑顔が浮かんでいる。
──双子の妹、コーデリア。
記憶の中でディアナを刺し殺した人物だ。
「あら、起きているんじゃない。早く朝食にしましょ」
涼しい顔で声を掛けてくるコーデリアもまた、ディアナの記憶よりも若々しい。
呆然と自分を見つめるディアナの視線に気付いて、コーデリアが唇を尖らせた。
「もう、今日は卒業式典の日なんだから。早く食べて、早く準備しないと」
「卒業式典……」
王立アカデミーの卒業時に行われる、卒業式典。
ラトリッジ王国の貴族子弟は十八の春にアカデミーを卒業し、卒業式典で祝われることで、成人として認められるのだ。
その卒業式典が、今日行われるという。
「さ、早く着替えて朝食にしましょう」
コーデリアがディアナに向ける表情は、ディアナの記憶にいつも刻まれていたもの。
濁りのない笑顔。
生まれてから片時も離れることのなかった魂の片割れ。
そのコーデリアがディアナだけに見せる、心からの信頼を込めた笑顔だ。
(あれは、夢だったの……?)
食事を摂りながらも、あの夜の光景がいつまでもディアナの頭から離れない。
刺された痛みも、心が煮えくり返るような感覚も、流した血も、少しずつ失われていく体温も、全てが生々しくこの身体に刻まれている。
あれが夢だとしたら、どれほど空想逞しい世界に羽ばたいていけるだろうか。
生憎、ディアナは現実的で地に足をつけて生きていくタイプだ。
食事を終えれば、紅茶とデザートが食堂に運ばれてくる。
公爵邸の、いつもの光景。
侍女達が紅茶を注ぎ、ケーキ皿を並べる傍らで、コーデリアが誇らしげに微笑んだ。
「久しぶりにパウンドケーキを焼いたのよ」
「──っ!」
パウンドケーキと聞いて、ディアナの身体が震える。
胃の底が縮み上がる感覚。
吐き気がこみ上げてきて、口の中が酸っぱくなるのを、紅茶で流し込む。
「パウンドケーキは、遠慮しておくわ……」
「あら、お姉様の好物ですのに」
「今日は、ほら……ドレスを着るから。少しウエストが不安なのよ」
「あらあらまぁまぁ。お姉様ったら」
コーデリアがころころと笑う。
以前はこの笑顔に癒やされていた。
その裏にどれだけの憎悪が秘められているか、気づきもしないで──。
ディアナの夫マイルズは、幼い頃からの親友だった。
私達双子のことを良く知っていて、ディアナとコーデリアを区別しない数少ない人物でもある。
ガザード家の長女として、ディアナは婿を取りガザード公爵の位を継ぐ必要があった。
マイルズはオドノヒュー侯爵家の次男であり、実家の爵位は継がぬ身。
互いに恋愛感情は無くとも、気心の知れた仲であり、婚姻関係を結ぶのには最適な相手だと思っていた。
オドノヒュー侯爵の夫人は生来病弱で、子を成すことは難しいだろうと言われていた。
それでも良いからと熱烈にアプローチし、夫人を口説き落としたのが、マイルズの兄であるオドノヒュー侯爵だ。
二人の熱愛は、当時社交界を賑わせたものだ。
そんな事情から、ディアナとマイルズの間に生まれた子供は一人目にはガザード公爵家を、二人目はマイルズの兄夫婦の養子となってオドノヒュー侯爵家を継ぐことが約束されていた。
そんな輝かしい将来が待ち受けていたはずの子供は、三度の妊娠を経ても、一人も生まれてくることはなかった。
医師の診断は、過労と心労による流産だった。
だが、当時は認めたくなかった事実。
コーデリアの殺意を知った今となっては、思い当たる節がある。
三度の流産。
そのどれもが、コーデリアから差し入れられた焼き菓子を食べた後に起きていた。
目の前のパウンドケーキが、当時の光景を思い起こさせる。
笑顔でディアナに差し入れをしていたコーデリア。
その裏には、どれほどの憎しみが隠されていたのだろう。
度重なる流産を経て、ディアナとマイルズの関係は悪化した。
元より友人同士による政略結婚で、そこに愛はなかった。
だが、友情は確かに存在していたと思っていたのに。
『子供を産めぬ女と、結婚などするのではなかった』
ガザード公爵邸を出て行く際に、マイルズが吐き捨てた言葉が蘇る。
流産によってオドノヒュー侯爵家との約束が果たされないだけでなく、ディアナとマイルズの夫婦関係も壊れてしまった。
(マイルズは、私と結婚したかった訳ではない。自分の子供を産んでくれる女性が欲しかったのよ……)
生涯添い遂げると誓った夫には見放され、生まれた時からずっと傍に居た双子の妹に殺された。
これほど惨めな一生があるだろうか。
(あれが夢か、それとも現実だったのかは、分からない。分からないけど──)
ただ一つ、言えること。
「お姉様?」
花が咲いたような、コーデリアの笑顔。
以前は、この笑顔を守る為なら、何でも出来ると思っていた。
──愚かで哀れなディアナは、もう居ない。
もう二度と、この笑顔には騙されない。
私は、私の人生を行く。
ディアナ・ガザードは、この日を境に生まれ変わったのだ。