侯爵様は、待ってくれていたみたいです
煌びやかな貴族の社交界。
誰もが自分こそが一番美しいと言わんばかりに着飾り、取り入りたい相手に愛想を振りまく。
あるいは他人の粗を探しながら、中身のない会話を交わす。
そんな、見た目ばかりのつまらない会だ。
その中で、私に関する噂が耳に入る。
「エギン侯爵夫人、まだ子を成さないらしいわよ」
「結婚して十年が経つでしょう?」
「夫人はきっと子を成すことができない体なのよ」
「侯爵様、お気の毒に……側室を取られないのかしら?」
──子を成さないどころか、子を成す行為すら一度もしていないのですけれど。
◇◇◇
十年前、私は公爵家の長女として祖父の遺言により、侯爵子息のレオン様と結婚し、クレア・エギンとなった。
齢十二の時だった。
この国では、初潮を迎えれば結婚が許される。
もっとも、一般的には十六歳から二十歳頃に結婚する者が多いが、政略や家同士の結びつきを優先され、成長しきらぬまま嫁ぐ者も珍しくはなかった。
この国において、子を成すことは女性に課された義務のようなもの。
そのため、未熟な体での出産が命を落とす要因にもなっている。
貴族であれば迅速な医療の処置によって助かることもあるが、平民の場合は……目を覆うような現実がある。
結婚式が終わり、初夜を迎えるために私は念入りに湯殿で清められた。
着せられたのは、薄く、わずかに透けるネグリジェ。
「レオン様にお任せすれば大丈夫ですよ」
侍女たちの言葉に背を押され、震えながら寝室で待った。
だが──。
寝室へ入ってきたレオン様は、私の姿を見て嫌そうに眉を寄せ、はっきりと告げた。
「俺はお前を抱く気はない」
そう言うと、枕元に置かれた短剣を手に取り、指先を傷つける。
滲んだ血が白いシーツを汚した。
それは、初夜を偽装するためのもの。
「これでとりあえず誤魔化せるだろ」
その日、私たちは何事もなかったかのように、同じベッドに並んで眠った。
それ以来、社交の場では自然に腕を組み、仲睦まじい夫婦を演じてきた。
仲が悪いわけではない。
食事を共にし、時には出かけることもある。
ただ、それが夫婦らしいかと言われれば違う。
どちらかというと、兄妹のような関係だった。
十二歳で嫁いだ私が、何の問題もなくここまで過ごせたのは、レオン様が私を異性として見なかったからだろう。
現在、私は二十二歳。
レオン様は二十九歳。
このまま仮面夫婦を続けるものだと、疑いもしなかった。
◇◇◇
退屈な社交界を終え、馬車で侯爵邸へ帰る。
馬車を降りる際、レオン様が手を差し出し、私をエスコートしてくれた。
「ありがとうございます」
すると、彼はふと私を見つめ、静かに言った。
「寝る前に、俺の部屋に来てくれ」
「……はい」
使用人たちの前で、このやりとりを交わすのはいつものこと。
初夜を偽造した後、レオン様は「執務が忙しく寝台に上がる時間が不規則だから」との理由で寝所を分けた。
だからこそ、こうして「閨事をしている」ように見せかける必要がある。
だが、今日はその予定はなかったはず。
使用人の手前、いつも通り湯殿で念入りに清められる。
「クレア様はまだお若いのですから、今日こそきっとお子を授かりますよ」
悩んでもいないことを慰められ、また演技のための準備を整えた。
──トントンッ
整えられた身体で、レオン様の部屋の扉を叩く。
すぐに扉が開き、私は何も考えず、いつものようにベッドへ腰を下ろした。
「今日は閨を偽装する予定がありましたか?」
「いや、ない」
「それなら、何かご用ですか?」
私の問いに、レオン様はしばし沈黙し、それから私の手を取った。
宝石のような瞳が、まっすぐ私を捉える。
「そろそろ、子供を作らないか……?」
「……え?」
耳を疑う。
「レオン様、私の聞き間違いでしょうか?」
「いや、間違えていない。そろそろ子供を作らないかと提案したんだ」
「私のこと、抱く気はなかったのでは?」
「それは、十年前の話だろう……この国では女の子供が結婚できる制度があるが、俺は子供は抱けなかった。無理に子を作っていたら、お前に命だって危険だ……」
……この人は、ちゃんと私のことまで考えてくれていたのね。
確かに、十九歳の男が十二歳の少女を抱くことを強いられるのなら、私も同じ気持ちになるだろう。
「でも、なぜ今なのですか? もっと早くても良かったのでは……?」
私が問いかけると、レオン様は少し頭を掻く、動揺した仕草を見せた。
「俺に勇気が足りなかっただけだ……」
私はレオン様の言葉の意味を考える。
──勇気が足りなかっただけ。
それは、私を女性として見ていなかったから? それとも……
沈黙の中、レオン様は私の手を離した。
「クレア、お前はずっと、このままでいいと思っていたのか?」
「……このまま?」
「仮面夫婦として、子も作らず、互いに深入りせずに過ごしていくことだ」
レオン様は私をまっすぐ見ていた。
私は、思わず視線をそらす。
「……それが一番、平和ではありませんか?」
「本当にそう思うのか?」
問い詰めるような声音ではなかった。ただ、確かめるように、そっと私の心を探るような響きだった。
「私は……」
何も不満はない。仮面夫婦とはいえ、レオン様は優しい。無理強いされたこともないし、表面上だけでも夫婦として扱われることで社交界での立場も守られている。
だけど。
「……子供を望まないといけないのは、私が女だからですか?」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
レオン様の瞳が、僅かに揺れた。
「違う。俺が……お前の夫だからだ」
「……え?」
「最初から俺は、夫としてお前に何もしてやれなかった。お前が社交界で何を言われているかも知っている。十年も、お前をひとりで矢面に立たせて……俺は、夫として、お前を守ってやれていたか?」
レオン様の言葉に、息をのむ。
「俺は、お前に何も聞かず、勝手にこのままでいいと思っていた。けれど……お前は本当にそれでいいのか?」
その言葉が、胸に深く刺さった。
「……今さら、夫らしくなると?」
思わず皮肉めいた言葉がこぼれた。
「今さら、だな」
レオン様は苦笑した。
「けれど、俺はお前に、少しでも幸せになってほしい」
「……子供を作ることが、私の幸せだと?」
「違う。お前が本当に望む未来を、俺は一緒に考えたい」
レオン様は、そっと手を伸ばし、私の髪を指で梳いた。
「俺に、夫としての役目を果たさせてくれないか?」
それは、まるで結婚のやり直しを願うような言葉だった。
私は、静かに目を伏せる。
「……考えさせてください」
レオン様は、ただ静かに「わかった」と頷いた。
その夜、私はひとり、自室のベッドの中で、答えの出ない問いに悩み続けた。
◇◇◇
数日後、私はレオン様と再び向き合った。
「クレア、お前の答えを聞かせてくれ」
彼の眼差しは、いつもより真剣で、少しだけ切羽詰まっているようにも感じた。
私は、胸の奥で沸き起こる不安と混乱を抑え込み、ゆっくりと口を開く。
「私は、今も迷っています」
「迷っている?」
レオン様は驚いたように目を見開く。
「私には、愛が足りないのだと思います」
その言葉が、私の心から出た本音だった。
「レオン様と子供を持つことができるかもしれないけれど、もしそれが愛がないままで進むなら、私は心からの幸せを感じられない」
「クレア……」
「私は、あなたと本当に心から繋がりたいと思っている。でも、愛情なしに義務として子供を作ることはできません」
私の気持ちは、すべて素直に言葉にした。
しばらく沈黙が続いた。
その間、レオン様はただ私をじっと見つめていた。
やがて、彼は静かに立ち上がり、私に一歩近づいてきた。
「クレア、俺は本当にお前を大切に思っている。お前にとって、これが最良の形だと思うなら、俺はお前の決断を尊重する」
その言葉に、私は驚きとともに安堵の感情が込み上げてきた。
「でも……」
レオン様の声は、どこか切なさを含んでいた。
「それでも、お前が望む未来を共に歩みたいと思っている」
「私も……あなたと一緒に歩んでいきたい。でも、私たちにはまだお互いの本当の気持ちが足りていない」
「それなら、今からお前と一緒に、愛を育てることから始めるよ」
その瞬間、私は彼の手を取った。
「レオン様……私も、あなたと愛を育てていきたい」
これが、私たちの新しい始まりだった。
子供を持つことはまだ先の話かもしれない。
だが、私は今、彼と共に歩む未来を少しずつ描いていくことに決めた。
◇◇◇
数ヶ月後、私は再びレオン様との関係を深め、彼とともに過ごす日々が一層穏やかになっていた。
私たちは互いに少しずつ、確かな愛を育て、これからの人生を共に歩む準備をしていた。
そして、私たちの未来には、ただ義務としてではなく、心から望む幸せが待っている。
──愛が足りなかった私たちが、ようやく本当の意味で夫婦になる。
これからは、二人で共に夫婦として歩んでいく。
その時は、自然と新しい一歩を踏み出すことになるだろう。
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