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いつかあの日の僕に、笑顔で顔向け出来るように

作者: 迦麗羅

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


【いつかあの日の僕に、笑顔で顔向け出来るように】


※この物語は中学生の頃の迦麗羅の過去の記憶を元にして創られた短編小説です※

※あらかじめご了承ください※


ドラゴンに憧れた少年迦麗羅と美術担当の担任とのお話。



――――いじめが続いていた日々の中で、迦麗羅はある日、中学校で唯一好きな美術の授業で、ステンドグラスアートを創ることになった。

初夏の陽気が美術室を包み込む。春の忙しなさが抜け、みんなが落ち着きとけだるさを感じ始めたゴールデンウィーク明けの五月の中旬、黒板の前で一人の若い女性教師が、授業開始のチャイムの後に口を開く。


「はい、それでは今回からみなさんには、ステンドグラスで作品を作ってもらいま~す!」


 美術授業の担当であり、自分のクラス担任でもある【町田(まちだ)】先生は笑顔でそう言った。他の先生と比較して、町田先生は若い。そして美人であるため、男子生徒からの評判が良かった。

 それだけではなく、性格も困っている人は放っておけないような世話焼きな性格も兼ね備えており、女子からの評判もいい。文句の一つない「理想的な先生」だ。

「ええ~でもセンセー。いきなりそう言われても何作ればいいか俺らわかんないすよ!」

 クラスの〝陽キャ″の男子生徒の一人が、先生をからかうようにそう言った。

「はーい、そう言うと思って初回はどのテーマにするか決める時間にします!今からプリントを配るので、そこにみんなの好きなものや、今ハマっているものなどを書いてみて決めてね~」

「はーい」

 先生の指示により各自にプリントが配られる。

「お前何にすんだよ!」

「私はこれかなあ~」

 みんながどのテーマにするか、話す声がそこらに聞こえる中、僕は既に迷いのない顔をして、そして多少じれったかった。

――――自分の思い描く、理想のドラゴンを創る。

 当時ドラゴンに憧れていた僕【迦麗羅(かれら)】は、早く創作に取り掛かりたかった。頭の中には既に、そのドラゴンが鮮明に映し出されている。赤い瞳に白銀の鱗。見たものを戦慄させるほど巨大な赤い翼を持ったその姿は、どんな人間にも敗れることのない、最強のドラゴンだった。


「おい、【ザコ】。何腑抜けた顔してんだよ。そんな顔してないでさっさとプリント何か書けよ。真っ白なまんまじゃねえか」


 そんな誰にも侵害されたくない夢想中に、いつものあいつのへたへらした声が響く。

 聞きたくもない、【前原(まえばら)】の声だ。

「そんなバカみたいな顔でいつも誰よりも鈍いからお前はいつまで経っても【ザコ】なんだよ」

(うるさい、こっちはもう既にテーマ決まってんだよ。お前も口動かしてないで手を動かせよ)

 そう言ってやりたかったが、そんな勇気も気概も持ち合わせてなかった。

「今考えてる途中なだけだよ、放っておいてよ…」

 そう言って精一杯の抵抗の意を含めて嫌そうな顔を彼に向けたのだが、それを見た途端彼は口角を上げ、

「こっちはわざわざ心配して声かけてやったのに、お前は人の気持ちにも鈍感なのな」

 と、なんの心配するような素振りを見せることなく言ってきた。

 ただからかいたかっただけのくせに。こいつは小学校の頃からいつも僕を頻りにいじめてくる奴だった。小学校の頃から自分は周りに比べ背が低く、持病により顔が不格好だった僕は、多分、あいつからしたら恰好の的だったのかもしれない。


 現実は理不尽だ。周りと少し違うだけで、こうも学校生活が苦しくなるものなのか。人は教室という社会の縮図の中で、代り映えのない日々を過ごすにはとても退屈で、“娯楽”が必要だった。その娯楽の一環として、「いじめ」は存在する。

 人の心は成長していくものだと誰かから教えてもらい、中学校からそんなものはなくなると思っていたが、そんな甘い考えは中学の入学式の翌日から、いとも容易く崩れ落ちたのだ。

「おいみんな!!こいつ小学校の時からいじめられてたんだぜ!!遊んでやってくれよな!!」

 中学校生活初めての休み時間。前原は僕の肩を馴れ馴れしく組みながら、みんなに声高らかに言う。

――――その日から、小学校の時と同じような灰色の日々が始まったのだった。


 またこいつのせいで、あの日のことを思い出してしまった。「こいつさえいなければ」と、そう何度思ったことか。

 とりあえず、あいつの言う通り白紙の状態のままではよくないので、「理想のドラゴン」とだけ書いて提出した。




 四時間目終わりのチャイムが鳴る。昼食の時間だ。午前中の授業を終え、みんなの肩の力が抜ける。弁当組はのんびり机を友達同士で囲い、優雅な昼食タイムに入る。

 僕は給食組だった。両親は共働きで、忙しく弁当を作る時間はなかった為、必然的にこの組になった。

「お前、今日ハンバーグ入ってんじゃねえか!!!俺にも分けろよ!」

「でねー!この前見たドラマが本当に面白くてさ~」

クラスのみんなが友達と楽しく談笑する声が周囲から聞こえる。


――――とても羨ましかった。


 自分も本当は、みんなと楽しくお昼ご飯を食べたかった。でも、そんな何気ない青春を送ることは許されなかった。周囲を見渡してみると、自分の机だけ隔離されたような距離感を感じる。まるでベルリンの壁でも築かれたようだ。

 今日も一人で給食のご飯を、せわしなく口いっぱいにかきこむ。好奇の視線を感じる。あまり給食の味がしない。

 みるな、そんな目でみるな。

 やめろ。こっちをみるな。お願いだから見ないで欲しい。


――――もっと早く、早く食べないと。


 僕はこの孤立を感じることが本当に嫌だった。

 加えてここまで早く食べるにはもう一つ理由があった。

「おい、雑魚!!お前まだ飯食ってんのか!!何するにもお前はやっぱ遅いんだな!!笑」

 嫌な声が耳に入る。前原の声だ。顔を見なくてもわかる。

「ご、ごめん。もう少しで食べ終わるから…」

「はあ~…ったくしょうがねえな。じゃあ俺ら校庭で“鬼ご”してくるからいつも通り、お前も必ず来いよ!!!」

――――いかない。行く気はない。前原たちとは、もう遊ばない。今日こそ言おう。自分を不幸にさせる奴らともう遊びたくなかった。

 息を吸って、口を開いt

「来ないと分かってるよなあ。」

 そう思った出鼻を、前原の一言でくじかれた。

「え……ぁ、」

 恐怖した。先ほどの勇気は跡形もなく崩れ落ちた。今日も言えなかった。いや、言う勇気がどうしても出なかった。言った後の怖さの方が優に勝る。

 意識が暗い闇へと沈んでいくような気持ちになった。

「分かってる」

 その言葉を聞いた途端、前原は愉悦の笑みを浮かべて、いつもの男子グループと教室をぞろぞろと出ていく。

「じゃ、お前も下降りるついでに、俺らの給食の容器、代わりに配膳室に頼むわ!」

 僕の机に、彼らが食べていった給食の食器を積み上げて。

 クラスの周囲から憐憫の眼差しが、一斉にこちらに向けられるのを肌で感じた。

挿絵(By みてみん)

 前原君の言う鬼ごっこの時間は僕にとって、苦痛の時間だった。

「なんで、、なんで僕がずっと鬼じゃないといけないんだよ!!ハアッ、、ハアッ、、おかしいよっ!!こんなの!!」

 僕だけ、この鬼ごっこは“鬼になりやすい”ルールだった。僕の時だけ、他の人にタッチした際、即座にタッチし返すことが許容されていたのだ。他の人は、鬼からある程度距離を離すまではタッチされても鬼になることはない。

 自分だけ永遠に鳥かごの中、檻の外のみんなから弄ばれる存在だった。

「ほらほらっ、早くこっちこいよ!」

「お前の足が遅いから、いつまで経っても鬼なんだよ!」

「こいつやっぱ雑魚だわ!」

 うるさい。うるさいうるさいうるさい。

 こんな理不尽なことはない。若干の過呼吸になりながら、太陽の照り付ける中、みんなのことをただひたすらに追いかけ続ける。

 額から汗がどんどん落ちてくる。周囲から僕の笑う声や馬鹿にする声が、だんだんとエコーのかかったように聞こえた。

「ハア……ハア……ハア……」

 苦しい。しんどい。辛い。

――――早く、休み時間が終わって欲しい。

 心の中でそう願い続けた。




 五時間目開始のチャイムが鳴る。苦痛の時間からひとまず開放された。

 美術の授業は本当に自分とっては癒しだった。一週間に二日しかない授業だったが、普段の嫌な気持ちを忘れて、自分の世界に没頭できるからだ。それにみんな自分の作品を仕上げることに集中しており、授業中にいじられることもなかったのだ。

 みんなもしかしたら、国語や数学とかの授業よりもこっちの方がやっぱり楽しいのかもしれない。


 今日もまた理想のドラゴンを完成させるべく、プッシュカラーをステンドをひたすら貼り付けていく。その時だった。

「お前、小学校の時からずっと見てたんだけど、お前の作るもの全部ドラゴンいるよな。なんでそんなにもドラゴンにこだわってるんだ??」

「……え?」

 声のした方へ咄嗟に振り向く。

 そこにいたのは、隣の席の、僕に校内で唯一まともに話してくれる【谷山(たにやま)】君だった。彼はどんな人にも平等に接する人だった。平等というか…どうやら彼は人に対する執着がそこまで無いといったような素振りを見せる時が多く、みんなからは「塩対応の谷山」と呼ばれ、あまり好かれてはいなかった。

 しかし、そんなフラットな感じが自分にとってはとても心地良く、彼に対しては嫌な気持ちを感じたことはなかった。

「僕、小学生の時からさ…父さんの影響で携帯ゲームにハマってさ、特にRPGゲームで強い敵に挑むのがとても好きだったんだ。その当時ハマってたゲームに出てきた強敵でさ、ドラゴンがいたんだよ。ゲーム内ではそいつ、自分の大切な財産や子供たちを守ってたんだけど、その財産目当てに来る人間たちを悉く葬っていったんだ。そのドラゴンにクエストで挑むことになってたんだけどさ、全然倒せなくてさ。結局長時間レベル上げしまくって、作戦も練ってようやく倒せたんだ」

「…それで?」

 素っ気ない感じもするが、珍しく、谷山君はちゃんと人の話を興味深く聞いているようだった。

「そのドラゴンと戦ってる中で、僕はドラゴンって存在に対して憧れを抱くようになったんだ。どんな邪魔な存在をも退いて、自分の大切なものを必死に守り続ける、そんな気高くて強いドラゴンに。……あと単純に見た目がカッコ良くて好き」

「…だから、そん時からお前の作るもの全部にドラゴンが登場するようになったんだな」

「うん」

 谷山君が若干口を噤んでから話す。

「…ドラゴン好きなやつってさ、なんかガキくさくてお前のこと正直そんな目で見てたけどさ、ちょっとだけ見直したわ。見た目だけじゃなかったんだな、好きな理由」

「ありがとう。」

 あまり自分の思ってること口にすることが正直怖かったけど、勇気出して言ってみて良かった。

「まっ、頑張れよ」

 その後、谷山君の顔を何度か見ようとするとそっぽをしばらく向かれてしまったのだが、理由はわからなかった。




――――出来た!!


 二週間後、迦麗羅の作品はみんなの進捗と比較して早くに完成したのだった。

「おっ、迦麗羅君、その顔はついに完成した感じかな?」

 完成に思わず笑みがこぼれた顔を、見回りに来ていた町田先生に拾われたみたいだ。

「は、はい。やっと自分の中で満足する形になったと思います。」

 自分の作品に没頭する所を不意に声をかけられたので、返事に少し遅れが出てしまった。

「どれどれ…うん……素晴らしいわ!まるで本当に生きているかのような躍動感あるドラゴンになったわね!」

 町田先生は笑顔でそう言った。わが子の誕生を祝う母のような顔だった。

「ありがとう…ございます」

 自分の作品をここまで褒めてくれると思ってなかったので、言われた瞬間は少し戸惑ったが、時間が経つにつれ自然と嬉しさがこみ上げニヤけてしまう。

「すごいね!良かったら、どうしてドラゴンをテーマにしようとしたのか聞いてみてもいい?」

「え!?ええっと…」

 どう伝えるか少し迷った。しかし、正直に話す以外の選択肢は思いつかなかった。

「僕RPGゲームをするのが好きで…最近よく遊んでいるんですが、そのゲームに出てくるボスのドラゴンがとても強かったんです。そんなドラゴンを今の自分を比べて…自分もそのドラゴンみたいに強くなれたらなって思って…」

 谷山君以外にこの事を話したことがなかったので、どういうを反応されるか不安だった。


「……そっか、迦麗羅君にとって、そのドラゴンは“憧れ”なんだね。その気持ちは、絶対に忘れないで。憧れはきっとあなたを強くさせるから。」


 町田先生は真剣に、そして優しい眼差しでそう言った。

「は、はい」

 そう言って、先生は他の生徒の作品の見回りに行った。

 どうしてそんな真剣に答えてくれたのかは迦麗羅には分からなかったが、それよりも褒められたことの方が彼の脳裏を占めていた。

 やった…褒められた!!

 そんな僕の様子を隣で見ていた谷山君は、呆れ顔でこう言った。

「…お前、そんなにあの先生に言われて嬉しかったのか??顔がずっとふにゃけてるぞ」

「う、うるさい!いいじゃん別に!!!」

 そんな形相を谷山君に指摘され、途端に恥ずかしさが込み上げてきてしまった。それでも、本当に嬉しかった。いじめられて気が滅入るような日常の中で、自分の努力が報われるような感じがした。


「…………」

 そんな迦麗羅と谷山の会話を、遠くから気に食わない顔で前原は聞いていた。




 そして、そして一週間後、他のみんなも各々の作品を仕上げた。そんなステンドグラスアートの最終授業の回の冒頭、町田先生がみんなにこう言った。

「今からみなさんには完成した自分の作品を他のみんなに“批評”してもらいます! 批評とは、その物の良いと思った点・悪いと思った点を考えて、その価値はどれくらいかを決めることです。」

「……これだけ伝えると、難しいと思うので、今日は互いの作品の良いと思った点だけを今から配るプリントに書いてもらいます。」

 そう言って、先生は各自にプリントを配り終え、付け加えてこう言った。

「そして、もう一つお願いがあって、みんなの作品の中で一番良いと思った作品を自分で決めて、一番下の欄に書いて下さい! 最終的に集計して、上位三位までの人の作品を構内に飾ろうと思います!」


――――おおおおおおお!!!


突然の発表に教室内に歓声が上がる。

「ただし!!不正投票を避けるためにこれから皆さんにはおしゃべり禁止とします」


――――えええええええええええ!!!


 なんだこの歓声と嘆声のジェットコースターは。

「グループで誰に入れるか決めたり出来ますからね。みんなそれぞれ本当に良いと思った作品に投票してください。……いいですね?」

 そう町田先生は言って、即席展覧会が間もなく始まった。


 あんまりみんな先生の言うことを聞くことなく、うるさいままなのはそこまで変わらないんじゃないかと思った迦麗羅の考えとは裏腹に、みんな意外と真剣にそれぞれ作品を見回っていた。中には、小声でなにか話す子もいたが、どうやら「うるさくしてはいけない空気」がこの美術室全体を覆っているみたいだった。

 それよりも多いのが、自分の作品の場所を定期的にチラチラと確認する子だ。やっぱりみんな自分の作品がどう“批評”されるのかが気になっているらしい。

 そして迦麗羅自身もその内の一人だった。

(…結構みんな僕の作品を見てくれているみたいだ!)

 とても嬉しかった。どんなことを見て書いているのか、内心気になってしょうがなかったがその気持ちをグッと堪えて他の人の作品を批評することに努めた。

「はい、それでは皆さんそろそろ席に戻って下さい、皆さんしっかりと書けましたか?一番後ろの席の人からプリントを裏向きで前に回して下さ~い!」

 全員のプリントを先生が回収した所で、授業終わりのチャイムが鳴った。

「はいそれでは、皆さん今回でステンドグラスアートの授業は終わりになります。今回回収したプリントを後で先生がゆっくり見させてもらいます! 作品の展示については来週から一階生徒玄関口前の掲示板に掲示します。楽しみにしててくださいね」

 そう言って、町田先生はニコッと笑った。

「はい、それでは今日はここまで!」


「きり~つ、礼~」


 挨拶が終わり、途端にいつもの喧騒がもどる。

 次の授業へと移動しないと……。

 そう思い、席を立とうとした時、

「お前の作品、選ばれるといいな」

 谷山君がそう僕の肩に手を置いて耳元で呟き、「じゃ」と先に美術室からそそくさと出ていった。

 優しいなと若干呆気にとられながらも迦麗羅はそう思った。




 その日はいつもより迦麗羅の目覚めは早かった。小学校の頃から使っていた目覚まし時計を今朝はアラームが鳴る前に目が覚めたのだ。

 6月の中旬、梅雨にもう少しで差し掛かろうとしていた今日、部屋のカーテンを開けるといつになく太陽が眩しく感じられた。父さんと母さんはまだ休日気分でいるのか今日はまだ寝ていた。

 僕の家では、朝食は適当食べて行ってくれというスタイルだ。キッチン置いてある買い置きの菓子パンを適当に二つとり、袋をすぐ開け頬張った。

 いつもなら学校に行く足取りが重く、HR(ホームルーム)に間に合うギリギリに家を出ていた迦麗羅だったが、その日は、いつになく早く家を出た。

 今日は先週制作したステンドグラスアートが構内に飾られる日。自分の作品が飾られると決まったわけではないが、早く確認しておきたかった。自分のドラゴンが、果たしてみんなに見られることになるのかを。


 登校途中、学校近くの通りで谷山君と会った。「お、お前珍しいな……こんな時間から」と少し驚かれたが、一緒に登校することを許してくれた。

 二人で登校中、普段一人で登校していた迦麗羅は、この状況に少し困っていた。

 一緒にいつも誰かと登校している人たちは、どんな会話をしているんだろうと、隣で歩いている谷山に何を話せばいいか言葉に窮していた。そんな彼を見兼ねたのか、谷山が口を先に開いた。

「この際だから言うんだがお前、このままでいいのかよ」

「え?」

「こんな毎日ずっとあいつからいじめられて。まあ俺は面倒ごとに巻き込まれるのは嫌だから、首は突っ込まないがな。クラスの一部の奴らはお前と前原たちがいない時、お前のこと心配していたぞ。このまま学校に来なくなるんじゃないかとかな」

 意外だった。谷山君は周りを結構見てる人だったんだ。いつも、他人には関心のないと言わんばかりに小説ばかり読んでいるように見えていたけど、少し考えを改めた。本当は表に出さないだけで、他人と距離を近づきたいと考えてるのかもしれない。

「……僕だってこの状況から変わりたいと思ってるよ。でも……今の僕は身体も心もとても弱くて、どうしても反抗さえ出来ないんだ。」

 自然と拳に力が入る。しかし僕の拳は震えていた。

 その姿を横で見ていた谷山君は不憫そうに目を細めた。

「いじめのことは親や先生には相談する気はないのか?」

「うん……親には絶対にその件で心配かけたくないし、先生に言えばあいつら更にいじめてくるかもしれないから。」

 あいつらのいじめが周りの大人たちにバレることで、エスカレートすることが最も怖いことだった。

「そうか。でもこのままだとお前の身が持たないだろう。よくこんな状況でも毎日学校に来れるよな」

「学校には絶対に通い続けるよ。そうしないと親や先生に何かあったんじゃないかって気づかれる、それに」

「……それに?」

 少し言葉を詰まらせた。「怖いだけだろ」ってバカにされるかもしれない。それでも彼になら言っていいかもしれない。

「それが、それだけが、今の僕に出来る、唯一のあいつらへの抵抗なんだ。どんなに辛くて嫌な日常が続いたとしても、めげずに学校に普段通り通い続ける。これだけは何となくだけど、やめちゃいけないって思ったんだ」

 僕が今まで考えていた本心を、初めて誰かに打ち明けた。こんなの正直、「抵抗」といえることでもないのだが、今の僕にできることは、本当にこれだけだった。

 恐る恐る彼の顔を伺う。どう反応されるのだろうか。怖い。

 しかしそんな僕の意に反して、谷山君は少し微笑んでこう言った。

「お前、きっと心はそんなに弱くないよ。むしろ強いと思う。お前のこと直接は助けてやれないけど、陰で応援はしとくよ」

「……ありがとう」

 谷山君に言ってよかった。彼はやっぱり優しい人なんだきっと。

「さ、見に行こうぜ。誰の作品が飾られているのかを確認しに、な」

「もしかして谷山君もそのことが気になって早く登校してたの?」

「うるさい、早く行くぞ」

 そう言って、急に早足になり、そっぽ向かれてしまった。

「ちょ、ちょっと待ってよ!!」

 そう言う迦麗羅の足取りは軽かった。

 自然と笑みがこぼれた。




『一年生:ステンドグラスアート優秀作品』


 そう言う題目で、選ばれたいくつかのステンドグラスアートが玄関口入ってすぐの掲示板に飾られていた。

 誰が一位とか、そんな優劣は記載されてなさそうだった。

 既に来ていた一年生で若干視界が遮られ見えにくい。

「おい、迦麗羅見てみろ。お前の作品もあるみたいだぞ」

「え!?どこどこ!?」

 自分よりも背が十五センチ程高い谷山君が先に見つけた。

 もしかして、彼が前原たちから目を付けられない理由って身長にあるのか??と一瞬感じた。

「ほら、一番右端から一個左」

「ええっと……あっ!!!ホントだ!!!!あった!!」

 思わず、大きな声を出してしまった。しかし、それほど嬉しかった。

 自分の作品の前に多少の人だかりをごめんなさいと割って入る。

 ホントウだ。自分の作品のドラゴンが本当に飾られていた。

「これから中間テストが終わるくらいの二、三週間くらいまでは飾られるそうだ」

「え、知ってたの?谷山君」

「そこらへんのやつらが言ってたぞ、それも聞こえないくらい自分の作品が飾られたことが嬉しかったのか」

「う、うん」

「……良かったな。お前でも秀でてることがあるの、何するにしても雑魚って言うあいつらに証明出来るんじゃないか」

「かもしれない。でもそんなことするつもりはないよ。今はこの理想のドラゴンをみんなに見てもらえることだけで嬉しいんだ」

 目の前の僕の作品を眺める。いつになくドラゴンが輝いて見える。目を瞑って今までの日常を回顧する。

 今この瞬間だけは、今までの辛い日常がどうでもいいように感じた。

 代り映えのない灰色の現実が、少しでも報われた気がしたのだ。

「……それだけでいいんだよ」

「そうか」

 そう言った谷山君は穏やかな顔をしていた。

「ほら、あまり長居するのもアレだ。教室上がるぞ」

「うん!」

 僕らはそうして四階の一年生の教室へと上がった。




 その日は梅雨の雨が連日続く、みんなが嫌がるようなジメジメとした日だった。今朝は昨日、前原たちから強制参加の肩パンじゃんけんのせいで、痛みにうねりながら起きた。

 ズキズキとして不快だ。どんよりとした天気も相まって余計にテンションが下がる。だけど、今日も学校に行くことに変わりはない。

 お気に入りの白パーカーを着る。うちの中学校はなぜか私服登校だった。みんなの個性を尊重してらしい。正直、制服のほうが僕は良かった。毎朝服選びが面倒くさい。

 適当に菓子パンを頬張ってから、家を出た。

 テスト勉強週間ももう終わり、来週からいよいよ中間テストだ。成績をあいつらよりも良くすれば、少しでも見返せるかもしれない。

――――今日も頑張ろう。そう強く思った。

 いつも通りの道を歩く、傘に打ち付ける雨音が自分には心地良く聞こえた。ふと道端に目を向けると、軒下から黒猫がこっちを見ている。

 かわいいなと思い、近づこうとすると途端に僕を横切って、反対側の住宅の隙間へと消えて行ってしまった。

(なんだよ。いいじゃん少しぐらい)

 雨脚は弱まることなく地面に脚音を鳴らす。水溜りがあちこちに広がり、とても歩きずらい。傘へ打ち付ける雨音もより一層強まった。

――まるで僕が学校へ行くことを拒むように。

 ようやく学校に辿り着き、玄関口で上履きに履き替える。丁度HRの予鈴が鳴り、自分以外の生徒はもう教室へと行っているようだった。

(やばいな……ゆっくりしすぎた)

 そう思い、教室へ駆けあがる矢先、ふと自分の作品へと目をやった。


 自分の作品がない…………?


 どうして?

 一瞬頭の中が真っ白になる。

 他の作品はいつも通りそこに飾られているのに。自分の作品の場所だけ、ぽっかりと穴が開いていた。

 何かがおかしい。作品を外したというには不自然だった。四隅の留め具の部分は張り付いたままだし、作品名の札も残ったままだ。

 しかし、その疑問は視線を下げた瞬間直ぐに分かった。

「……どうして……どうしてなの……?」

 自分のドラゴンがバラバラに切られ、廊下に広がっている。あの時のゲームで見た、多くの兵士に切られ、血塗れのまま伏せるドラゴンの最期のように。

 無残な光景がそこには広がっていた。

 じぶんのドラゴンが。初めてちゃんと誰かに褒めて貰えたじぶんのさくひんが。

 どうしてこんなことになっているんだろう。

 もう教室へ上がることなど頭になかった。

 なんで。どうして。気付けば涙が溢れていた。

 視界が霞む。悲しみと同時に怒りも込み上げて来た。

「どうしてみんな、この状況を見て何もしようとしないんだよ……」

 自分にとってはかけがえのないものでも、他人からしたらただの視界に写る情報だけなのかもしれない。

 例えそうだったとしても、僕はこの世界の無情さに嘆いた。

「どうして、なんで自分だけがこんな目に合わなきゃいけないんだよ……」

 だんだん感情を抑えきれなくなってきた。

「なんで……くっっ、ひどすぎるよ……ううっ…こんなのっ」

 そんな状況の最中、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。

「ふう~!!梅雨の時期はこれだから嫌だねっ遅刻しないように早く上がらないと!!」

 前原の声だ。

「ってあれ??雑魚じゃん!! どうした~?? そんな泣いちゃって!!」

「……あ~~~~、自分の作品が誰かに壊されちゃったんだね!!!かわいそ~~~!!!それじゃ俺はもう行くから!!お前も早く来いよな!!!」

 そう言って彼は満面の笑みで、颯爽と階段を駆け上がっていった。


――――僕のなかで、パチンと何かが切れる音がした。


 足の力がスッと抜け、思わず膝を立てて落ちる。

「かれらくん……?かれら君!!!! どうしたの!!!??」

 それと同時に、また聞き覚えのある声がした気がした。

 誰かが僕の方へと駆け寄る。

「えっ…嘘……?誰がこんなことを!!」

「……ちょっと待ってて! いい!?」

 傍で声がはっきり聞こえて、初めて担任の町田先生だと気づいた。でもそんなこといまはどうでもよかった。

 僕のドラゴンを直してあげないといけない。

 でも涙のせいで視界がぼやけて、はっきりと見えなかった。

「室田先生!!今日うちのクラスはHR無しだと伝えて下さい!!私はこの子を美術室へ連れて行きますので!お願いします!!!!!」

 まわりのおとなたちがうるさい。いまはこのどらごんをなおすことにしゅうちゅうしないといけないのに。

 僕の涙で、ぽたぽたとドラゴンが濡れていく。僕と一緒に、ドラゴンも泣いてるみたいだった。

「かれら君!!先生のことがわかる!?かれら君!?」

 先生が何度も僕の声を呼んでいるような気がする。でもいまは、いい。

 がんばってどらごんをなおそうとしているのに、だれかに肩を強く揺すられて、またやりなおす。

「かれら君!!!!かれらくん!!!!!」

 でもどれだけ寄せ集めてなおそうとしても、ぼくのどらごんのきずは、なおりそうになかった。

「うぅ……」

 全ての音が、雨音に吸い込まれていく。

「うわあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


――――僕はその場に泣き崩れた。

挿絵(By みてみん)



ザーーーー————————————


静寂とした美術室に雨音だけが絶えることなく聞こえている。

ようやく気持ちが落ち着きを取り戻し、呼吸も普段通りになってきた。

どれだけ泣いていたか覚えていない。

「大丈夫??少しは落ち着いた?」

その声のした方向へ視線を上げた。

「町田せんせー……」

先生は目を細め、温かな表情をしていた。

あれから僕は、どうやらここに連れてこられたらしい。

「今1時間目がもうすぐ終わるところよ。2時間目が終わるまでは今日は私、授業ないからまだここでゆっくりしても大丈夫よ、安心して」

「……先生、ごめんなさい。その……スカート濡らしてしまって。」

あれから先生の膝でずっと泣いてしまっていた。せっかくの洋服を汚してしまって申し訳ないと思った。

「そんなこといいのよ、すぐ乾くわ」

 そう言って先生は少し笑う。

「それより、温かい飲み物用意したんだけど飲む??ポッカレモン」

先生からそれを渡される。全然熱くない、おそらく買ってから結構時間が経ったんだろう。

それだけの時間中学生にもなって、面倒見られていたと思うと申し訳なさと同時に恥ずかしさが多少込み上げて来た。

「いえ…とても嬉しいんですがもらえません。大丈夫です。」

「そう、分かったわ。……辛かったわね、朝学校きたばっかりであんな光景を目の当たりにしちゃって」

「今日はもう学校お休みする??これから授業いつも通り受ける気にはなれないでしょう」

先生に言われ、今朝の記憶がフラッシュバックした。

「先生……俺のドラゴンは今、どこにありますか?」

「向こうの準備室の机においてあるけど……いいの? また、見たら辛くなっちゃうわよ」

 先生は悲しそうな表情になった。それでも、自分の作品の現状をもう一度しっかりと確認しておきたくなった。

「いいんです。よければ見せていただけませんか?」

 先生が数秒、視線を落とし考え込んだが、その後少し溜息をしてから口を開いた。

「……分かったわ、来て」

 先生はそう言うと立ち上がり、僕を美術準備室へと連れていく。

 初めて入るところだ。先生が扉を開けると、狭い空間の中に授業で使うであろう様々な画材や生徒の作品を保管する棚、白い彫刻の像などが置かれていた。少し埃っぽさを感じる。先生はここでいつも授業の用意をしているんだ。

「ここにあるわ」

 先生の言うところに視線を落とす。多少散らかった大きな机の中心の開けたところに、自分の“理想のドラゴンだったもの”があった。

 ステンドグラスは破ることは材質的に難しい。明らかに人為的に切られたものだとは中学生の僕でも分かった。

「おそらく誰かにカッターかハサミで切られたと思うの。飾っていた掲示版にもいくつか酷く傷が付いていたから。それにしても悪質ね。みんなに目の付く場所で見せびらかすようにあんな風に犯行の後放置して」

 思いつく顔は脳裏に既に浮かんでいた。でも証拠がないから言えなかった。

「これは……僕にとって、ただの作品じゃなくて、大切な思い出の詰まったものだったんです」

 怒りや悲しみなどが胸の内で混同し、形容しがたい感情が今にもマグマのように噴火しそうだった。自分の憧れや理想、谷山君や先生との思い出。そして初めて人からちゃんと褒めてもらった時の嬉しかった感情全てが、目に見える形で壊されてしまったように感じた。

「それを……その大切なものをっ!! どうしてっっ!!」

「かれら君……」

 気づいたら、また涙を流していた。わかりきっていた展開なのに。また泣いてしまった。


「先生から褒めてもらった思い出のこのドラゴンは……もう二度と元に戻らないんだ……」


 涙をすする。これ以上先生に迷惑かけてはいけないのに。

 頭の中で、今までこの中学校生活の中で唯一楽しかったステンドグラス制作の思い出が、バラバラに引き裂かれていくのが見えた。

 大切なものが失われていく喪失感に、みるみるうちに心にヒビが入り、あと少しの衝撃で音を立てて崩れ落ちるようなガラスの見た目をしていた。

 どうして僕は、こんなにも、脆くて弱いんだろうか。

「かれら君…もう泣かないで……」

 先生が近づいてくる。

「……」

 自分が泣いている背後から手を回し、温かく抱きしめられた。

 その温かさが身に染みて、涙腺が更に緩んでしまった。

「……先生、ごめん、なさい。見たらまた悲しくなるってわかりきってっ、いたのにっ」

「いいのよ。大丈夫。だから……今は落ち着いて、ね?」

「はい」

 少しの間、準備室内に再び静寂の時が流れる。

 それから町田先生は、意を決したように話を切り出した。

「大丈夫だよ」

「………………」

「また褒めてあげる。これからあなたが新しく創っていくものに。何度でも」

「え」

「確かにこのドラゴンはもう元には戻らない。でも私は、あなたのこれから創る作品をまた何度でも褒めてあげる。かれら君には素敵な作品を創る力がきっとある。先生はそれをこれからもっと見てみたい」

「うん」

 先生の言うことに更に耳を傾ける。

「だからね、かれら君にはこれからもっと強く生きて欲しいの。あなたが生み出す、その逞しいドラゴンのように」

「……あなたも強くなるの」

「うん」

 真っ暗な闇の先に、一縷の光が差し込み始めた気がする。

「そしていつか……あなたに酷いことをしてくる人たちを、あなただけの方法で見返すの」

「……あなただけにしかできないことで、ね」

 先生の言葉に、自然と勇気が湧いてくる。心の中で炎が再び点火したような、そんな感覚だった。

 僕もいつまでも弱いままでいてはいけない。そう背中を押された気がした。

「町田先生」

「ん?」

「ありがとうございます。僕……もっと強くなります」

 胸が熱かった。いつもならよく言葉に迷いがあったが、今は真っ直ぐに自分の想いを言葉に出来た。

「その意気よ」

「……これからどんな困難が起きても、どんな辛い目にあっても、どうか現実から目を背けないで。今はまだ難しくても、いつか強く立ち向かっていける存在になれるように」

 先生のその言葉に一瞬、これからの僕の未来を想像した。きっと今朝の出来事よりも辛いことが、これから生きていく上で、たくさん起こるんだろう。

 その度に僕は傷ついて、この現実に打ちひしがれるんだろう。先生はきっと、そんな僕の未来を考えて、この言葉を言ってくれたのかもしれない。

 僕は強くならなきゃいけない。そうしないと、きっとこの先、生きていけないから。

「はい、頑張ります」

 そう言い、さっきまで流していた涙を思いっきり拭う。それを見た先生は、少し硬い表情を和らげた。

「……この後の授業行けそう?」

「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました。」

 先生の方に向き直って「ありがとうございますっ」と今できる精一杯の笑顔で深くお辞儀をした。

 そうすると、先生は笑って、「うん!頑張ってねっ」と返してくれた。

 先生にこれ以上心配をかけないように、元気よく準備室の扉を開け、廊下へと出ていく。

「先生、本当にありがとうございました!失礼します!」

 そしてもう一度お礼を言って、扉を閉めて教室へ向かった。

 閉める寸前も、先生は表情を変えず笑顔で、手を振りながら見送ってくれた。



【タンタンタンタンタンタンタンタン……】



 あの子が廊下を元気に駆けていく足音が、徐々に遠のいていく。

 その音とは打って変るように、雨音は強まり、

 美術準備室に取り残された私の孤独感を更に引き立てたように感じた。

「良かった……元気になってくれて」

 いつもの調子を取り戻した生徒を見送り、部屋で一人安堵の息をつく。

 ふと視線を下ろし、膝元が濡れていることを思い出した。

「帰ったら洗濯しないとな~」

 そう呟きながらも、自然と嫌な気持ちにはならなかった。

 目を瞑り一瞬、かつて教育実習生だった時のことを回顧する。あの日から私は、少しは変われたのだろうか。

 雨音響く中、そう回想していた矢先、

 【キーンコーンカーンコーン】

 二時間目開始のチャイムが鳴ると同時に、意識が現在に戻された。

 ここで終わるわけにはいかない。むしろここからが、大変なんだ。

「……さて」

「やりますか……犯人探し。」

 彼女はそう言い、今まで誰にも見せたことの無いような、冷酷な眼差しを迦麗羅の作品だったモノへと向けた。




 日中降り続けていた雨が止み、曇天の隙間から陽射しが差し込み、空を徐々に茜色に染めていく。

 その日の帰りのHRの時間はクラスの全員が、いつもとは違うピリピリとした緊張感のある空気を感じていた。


「おい、何があったんだよ……これ」

「誰か何かやらかしたの?」

「もしかして、今朝の……」


 周囲からそんなヒソヒソ声が聞こえる。

 この場にいる全員が、こんな状況になる理由は前を向けば察せられた。

 いつも穏やかな顔がデフォの町田先生から一切の笑顔が消えている。

 先生をいじるいつもの陽キャラグループも先生の目を見た途端萎縮して、声をかけるのを躊躇った。

 この空気を作り出した張本人である先生がその重たい口を開いた。

「はい、それでは今からHRを始めます」

 声のトーンがいつもと比較して明らかに低い。

「みんなごめんね、こんな空気にさせてしまって」

「本当はこんなこと状況にしたくなかったんだけど、今日先生、とても悲しいことがあってそれをみんなにどうしても聞いてもらいたかったの」

 先生は努めて優しい声で話そうとしているが、言葉の節々に怒りが込められているような感があった。

「みんな必ず通る場所だから大体の人はもう知ってると思うけど、今日学校玄関口に飾ってあった、かれら君のステンドグラスが、誰かの手によって壊されてしまいました。」

「……壊されたのはかれら君の作品だけです。愉快犯ではなく、誰かが【彼だけに】何か思うところがあって、犯行に及んだ可能性がかなり高いです。この件について真相を誰か知ってる人がいたら、先生に教えて欲しいの」


 先生の発言に辺りがざわめきだす。小声で隣の席の子と何かを話す人、誰が犯人か怪しい挙動をしていないか辺りを見回す人、そして

 自分に憐れみの目を向ける人。

 その視線を感じた瞬間、怖くて下を向くしかなかった。僕のことを見ないで欲しい。今すぐこの場から抜け出したかった。

 いじめられるようになってから、どうやら人の視線に敏感になってしまったらしい。見られると、より自分が惨めに感じてしまうのだ。

「……もちろん、この場で言いにくいって人もいるでしょうから。今から皆さんに一枚の封筒を渡します、その中に入っている紙に、この件について書いていただきたいです。この件についてもし何も分からなければ、【私は知りません】とだけ書いて下さい。」

「もし何か知っているのであれば、ほんの些細なことでもいいから知ってることを書いて下さい。今日必ずお家に帰ってから書いて下さい。今からは書かないで下さい。明日の朝のHRに回収しようと思います」

 先生はそう言って、先ほどまでのクラスのざわついた空気を変えた。ああなることを最初から想定していたみたいだった。このような方法をとれば、みんな誰かの視線を感じることなく、思っていることを正直に書くことができる。

 先生その後、PTA向けに渡すときと同じような長形の茶封筒をみんなに配り終え、険しい顔から悲哀の表情へと変えた。


「みんなのことを疑いたくはないんだけどね…この件について、私はどうしても看過出来ません。人の心を壊すような行為は、人としてやってはいけないことです。」

「私は、私のクラスの生徒が悲しむ姿をもう見たくありません。だからみんなお願い……協力して欲しいの。」


 先生の声は、少し震えていた気がした。

「話が長くなりましたが、今日の帰りのHRは以上になります。みんな、気を付けて帰ってね。」


「きり~つ、礼」


 ガラガラと皆の椅子を後ろへ引く音が一斉に鳴る。

 クラスがいつもの放課後の空気へと変わる。だが、HRの話を聞いたみんなの表情は様々だった。

 先生がいつもは見せない形相をみんな目の当たりにし、半分はそのことを真に受け、少し真剣な表情になる子が多いようだった。

 それ以外はいつもより長めのHRから解放され、自分は関与していないと言わんばかりにさっさと帰り支度をする人。そして、先生の策に動揺を隠せない人。

――これ以上この場のこの空気を感じたくない。さっさと帰ろう。

 そうして、教室からみんなより先に出ようとした刹那、

「おい、どうすんだよ……これじゃあいずれああしてもバレるんじゃねえか?」

「バカ、お前今言うんじゃねえ……さっさとここから出るぞ」

 そんな声が聞こえた気がした。




 その日の帰り道。空が茜色に染まり、いつもの景色が少し、非日常的を醸し出す。まだ地面に残っている水たまりが茜空を映し出し、更にその雰囲気を演出する。

 木々や草木に残った水滴がビー玉のように輝き、とても綺麗だった。

 早々と帰ろうとした帰路の途中、僕は谷山君に引き留められ一緒に帰ることになった。

 谷山君からそう誘われたのは初めてだったので、少し驚いたが、話そうとする内容は聞かなくても想像出来た。

 彼の顔は、真剣だった。

「お前……今日は辛かったな。二時間目まで、それで来れなかったろ」

「………………」

 その時の記憶が脳裏に過り、途端に何も話せなくなってしまった。思わず視線が落ちる。強くなろうとあの時決めたのにこれだ。まだまだ僕はダメなんだなと、自己嫌悪に陥る。

 谷山君が話を続けた。

「お前に前言ったこと………覚えているか? 俺、やっぱりお前は………強いやつだと思う。普通あんな目に遭って、その後授業をいつも通り受けようなんて思うやつなんかいねえよ。そんな中、お前はいつも通り授業を受けたんだ」

「……そんな姿を見て俺は思ったんだ。お前はきっと自分の日常を、必死にあいつらから守ろうとしてたんじゃないかってな」

「え?」

 思わず、谷山君の顔へ視線を向ける。

「お前が志した、あのドラゴンのようになっ!」

 谷山君はそう言って、あまり人に見せない笑顔を僕に向けた。オレンジ色に染まる彼の髪の毛が風に揺れる。

 その彼の言葉に目頭が熱くなり、また泣きそうになってしまった。

「俺は………お前のそんな必死に生きる様をここ最近見てさ、自分も変わろうと思ったんだ。今まであまり人に干渉するってことをしなかったんだが、もう少し近づいて見ようってな。だから」


「今からお前を助ける」


「え」

 また驚いてしまった。

「俺、もう証拠持ってんだ。実は」

「証拠って………犯行現場でも見てたの??」

「いいや、そんなことしてたらあいつらからマーク絶対にされるだろ。それにあいつらはずる賢いから、ちゃんと見張りとかその時付けてただろうしな」

「じゃ、じゃあどうやって………」

「ボイスレコーダーって知ってるか?」

「………あの刑事もののドラマとかでよく出てくるやつ??」

「そ、俺探偵ものの小説読むの好きでさ。憧れで買ってからずっと持ってて、特に使う機会今まであまりなかったんだけどさ」

「……使う機会、つい先日出来ちゃったんだよな」

「まさか」

「そういうことだ。俺聞いてたんだよ、あいつらが犯行する時間帯いつにするか話してるとこ。俺は遠くで小説読んで聞いてないフリしてたんだけどさ。詰めが甘いよなあ、あいつら。それで、好奇心で自分の下駄箱の中にそのボイスレコーダーずっと入れてたら、面白いことに撮れてたんだよ、これが」

「ガチの探偵のそれじゃん………」

「ほら」

 そう言った谷山君は、少し得意げな顔をして、ボイスレコーダーの一部を再生し始めた。前原たちの声が聞こえてくる。


「……………お前はその角を、お前は玄関口で誰も来ないか見ててくれ。いいなっ!!」

「分かってる、来たらすぐに言えばいいんだろ」

「そういうことだ、わかってるじゃないか………いつも雑魚だったあいつが、こんな時だけ日の目を浴びやがって………」

「あいつがいつまでも、俺たちのおもちゃだってことをわからせてやるっっ!!!」

「あはははははははははははははははははhっ!!!!!!!」


 あいつが悪びれる様子無く、心底楽しそうにカッターで切り刻む姿が見ていなくても分かった。どうして人は、こんなにも惨いのだろうか。どうして現実はこんなにも残酷なんだろうか。

「もう止めようか」

「いや、もう少し続けて、ごめん、大丈夫」

 谷山君が自分のしたことに対して、ばつの悪そうな顔をしていたが、僕は不思議とこの録音をまだ聞くことに、何故か意識が向いていた。

 この世の理不尽さを忘れないようにしておきたくなったのだろうか。録音の続きに耳を傾ける。

「………でもいいのか前原、このままにしておいて。掲示版にも切った跡が付いちまってるぞ」

「いいんだよっ どうせ誰も見てねえし、俺もこれから後に登校したフリをしてアリバイを作るし、誰もわかりゃあしねえ。俺よりも上に上がろうとしたらどうなるのかを、皆に見せつけてやるんだ。お前らもよく覚えておけ、いいな」

「………………」

 あいつは、なんでここまで“上”であることに固執したいんだろう。僕には上と下の概念も、その意味でさえも、理解出来なかった。ただ、人の大切なものをこんなにもいとも容易く壊せる人間がいるこの現実に、嫌気がさした。

「…………もういいか、迦麗羅」

「うん、ありがと、もういいよ」

 そうして谷山君はボイスレコーダーを切って鞄の中にしまった。

「俺はこれを、明日町田先生に提出する」

 茜空を見上げながら、谷山君は意を決したように言った。

「本当にいいの。僕は谷山君まで……できれば巻き込みたくない」

「言ったろ、お前を助けるって。もう他人と干渉しない人生はやめにしたんだ。一人で抱え込むな。相手は複数だぞ、一人には限界がある」

「……この状況を、一緒に、変えるんだ。いいな」

「谷山君……ありがとう」

 そういう彼の背中は、とても頼もしかった。

――二人でこの状況を変える。

「状況を変える」なんてこと、今まで実現なんてこの先しないと内心諦めてかけていた自分がいた。

 現実なんてそう変わらない。その固定観念を、前原たちから押し付けられたからだ。

 本当に変わったとしても、その先が自分の思い通りの結果になるのかもわからない。


 たとえそうだったとしても。


 それで少しでも変われる明日があるとしたら。


 なんて素敵なことなんだろうと僕は思った。


――彼と二人なら、その未来に賭けてみてもいい。そう思えた。

 彼の目は、ただまっすぐと、僕たちの明るい明日を見据えているように、沈みゆく太陽を眺めていた。




――――次の日の昼休みの職員室。職員たちのそれぞれの日常が垣間見える。

 ほんのひと時の休み時間を、昼食を囲いながら楽しむ人たちや次の授業の準備で机が散らかってる人がいる。コーヒーのほのかな香りどこからか漂う。

 そんな中、私は今朝のHRで回収した生徒たちのプリントを、昼食の片手間に眺めていた。

――事件の決定打となる証拠が見つからない。

 あの子を助けてあげようとした策が、そう簡単にうまくいかない現実に多少の苛立ちを感じる。思わず力んでしまい、プリントがクシャっとなってしまった。

 私は元々、感情の起伏が分かりやすい人だった。

 しかし、教育実習の際にそれを指摘されて以降、出来る限りその感情を人前に見せないよう努めてきた。今はその努力が崩れようとしている。平生を装わなければ。


 すぐに解決しそうにない問題から目を背けるように、目の前の教育実習時代の写真立てを眺めた。当時の私の隣に、優しい笑みを浮かべる女の子が職員室前の廊下に写っている。

 あの頃の後悔をまた繰り返すわけにはいかない。


「町田先生」

「え、あ、はい?」

「大丈夫ですか。多分先日の件だとは思いますが、顔が優れないように見えましたので」

「ああ、いえ……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 さっそく隣の席の室田先生に気づかれてしまった。まだまだダメだなと少し自己嫌悪へ走る。この写真の女の子は、教育実習中担当となったクラスの不登校児だった。

 実習期間中、たまたま登校してきたことがあり、クラスにまだ馴染めなかった私に親近感を覚えたのか、仲良くしてくれたのだ。


 そんな登校してきた彼女は、クラスの一部のグループから「また来たのか」と疎まれていた。彼女はそれを聞いて俯き、早々とクラスから出て行ってしまった。

 私はそのクラスの子たちに対してあの後叱ろうと、クラスの担任に掛け合ってみたが、「実習生の立場で介入するな、あなたには関係のない話だ」と一喝されてしまった。


 その時、そんな担任の言葉など無視して彼女を助けてあげられたら良かったのに。

 彼女は勇気を出して登校してきたのにも関わらず、どうして私は、その言葉に怖気づいて前へ踏み出せなかったんだろう。


――――あの日から彼女が学校にくることは二度となかった。


 あの日教室から出ていく瞬間に見た、彼女の頬を伝う一縷の涙が、今でも鮮明に脳裏へ写る。あの瞬間、彼女はこの現実にどれほど絶望したのだろう。どれほど悲しみに暮れたのだろう。私は彼女の救いを求める手を、見捨てたのだ。

 もうこんな思いはしたくない。その戒めの為に、私はこの写真立てを机の上に置いていたのだ。

 過去の回想から現実へを意識を戻すように、再び目の前のプリントへと視線を向ける。


――――もう立場がどうかなんてどうだっていい。私は守りたいものを守る。


 何か手掛かりは本当にないのか。

 せめて犯行現場を見ていた人がいれば。

 真相を知っている人がいれば。

 しかし、そんな希望は今のところなさそうだった。今はもうどうしようもない。

 そう思ってプリントを引き出しに後ろ髪を引かれる思いで入れようとしたその時だった。


「失礼します。町田先生はおられますでしょうか」


 名指しされ、咄嗟に顔を声のする方へ向ける。

 職員室に意を決した思いで扉を開ける、一人の男子生徒の姿があった。

 彼の目は、ただまっすぐに、真剣だった。

 これから何かが変わるような、そんな予感がした。




 帰りのHR、僕と前原たち男子グループは町田先生に呼び出され、放課後教室に残されることになった。先生はいつもの穏やかな顔とはかけ離れた、実験中のモルモットを見るような目のハイライトを消した表情をしていた。

 前原たち男子グループは、どうせ早く終わるだろうと見越しているのか、すぐに帰れるようそれぞれ鞄をしょっていた。

「先生なんすか、俺ら早く帰りたいんすけど」

「なんの件でここに、このメンバーを集めたのか、もう分ってるわよね」

「いや、知らないっすけど。昨日のステンドグラスの件なら俺ら関係ないっすから、壊された後に登校してますし、なんならそいつ、俺が後から登校してたとこ見てたっすから」

 そう言って前原は僕の方を指差した。証人ならここにいますよと言わんばかりに。

「もういいっすか?じゃ、俺ら帰りますんで」

 前原たちが教室のドアを開け、ずかずかと出ようとする。

「……ちなさいよ」

 その刹那、先生のどすの効いた声が彼らの背中を刺した。

「え~なんですって?せんせ」



「「「待・ち・な・さ・いって言ってるのよっっ!」」」



 一部の背中がびくりと跳ね上がる。こんな先生の形相は見たことがない。辺りの空気が波紋が広がったように一変する。髪の毛一本一本の神経が搔き立てられるような、そんな感覚だった。

 だがそんなことにも前原は想定したと言わんばかりの平生っぷりな顔を先生に向けた。

「じゃあなんすか、証拠でもあるんすか。僕らがやったとでもいう証拠が。誰かが見てたんすか?」

「……先生、、俺らが言うのも難なんすけど、証拠もないのに自分のクラスの生徒を疑うなんてこと、教師がやっちゃあいけないと思いますよ??」

「…………」

 先生が閉口する。少しの沈黙が教室を包み込む。先生の彼らに対する目が少しずつ、氷のように冷たい眼差しへと変わっていく。

「はあ……もういいわ、それがあなたたちの態度なのね」

 先生は大きなため息の後、肩を落として自身の生徒に対する失望の念を表に出した。とても悲しい顔をしていた。

「もういいすか?じゃあいきますんで」

 そう言って、再び先生に背中を見せ、彼らが帰ろうとしたその時、


「……あいつがいつまでも、俺たちのおもちゃだってことをわからせてやるっっ!!!」」


 彼らの背後にある、先生の手に握られた機械から、身近な男子生徒の勢いある声が聞こえて来たのであった。

「……どうして、、それを――――」

 前原が先ほどの平生を喪失し、取り乱して振り返る。

 他の男子も思わず背筋が凍りつき立ち止まった。

「こんなことはしたくなかったの」

「……私はあなたたちの先生として、最後まで自白するという良心を信じたかった」

「だから先生っ!!! 俺はそんなことを聞いちゃいないっっ!!! そんな都合のいい録音機をどうやって手にいr


「あなたたちにそれを話す義理はありませんっっ!!」


 先生は先ほどのまでの悲しい顔はもう何処にも無かった。今の先生はもはや別人だ。

 温情の欠片も見られない、怒りに満ちた鬼の形相だったのだ。

――この人に逆らってはいけない。

 理性ではない本能から、迦麗羅は肌で感じた。

「もう御託はいりません。かれら君に謝りなさい。」

「先生それ盗聴ですよn」

「あやまりなさいって言ってるのよいい加減話を逸らすのをやめなさいっっ!!」


 そう言われた前原は流石に効いたのか、顔を下に向けてしばし黙り込んだ。髪が顔にかかり、どんな表情をしているのか分からなかったが、力の入った震える拳からある程度想定出来た。

「……………どうして」

「なに?? 今度はそっちが聞こえないんだけど」

 そんな町田先生の挑発に対し、前原は琴の線が切れたように吹っ切れ、勢いよく顔を上げる。

「どうして俺がっ!!! こいつに謝る必要があるんだよっっ! 弱者が弱者のままでいるのは自然の摂理だろっっ!!頭は冴えない、運動も出来ない、身体も心も弱いそんな奴が社会で淘汰されるのは当然のことなのにどうして俺がそんなやつn」



――――パアアアアァァァンンンッッッ――――



  教室に銃声のような、平手打ちが響く。あまりに一瞬の衝撃に前原はたじろいだ。

「……………っ」

  彼の頬から一縷の涙が零れ落ちた。

「ごめんっ、なさい」

 何かがこと切れたように、前原はあっさりと謝った。

 彼の向く先には、怒りながら涙を流す町田先生の姿があった。

「ようやく、言ったわね」

 それにつられるように、その光景を目の当たりにした他の子も「ごめんなさい」と謝った。

「いい? あなたにとっては、それはただの自分がのし上がる為の物に過ぎなかったのかもしれない。でもね、彼にとってあの作品は、憧れであり夢の象徴だったの。それにそれを作るまでに色んな思い出の詰まった、かけがえのない宝物だったの」

「……あなたは自分のエゴで、かれら君の抱いていた大切な気持ち全てを壊したのよ」


 そして、先生はみんなの方へと続いて視線を向けた。


「あなたたちはまだ自覚することはないでしょうが、大人になるまでの今の期間は、どう生きたか・どんな体験をしたかでその人の今後の人生に大きく影響するの。あなたたちが今回起こしたことは、かれら君の将来に大きな影響を及ぼすの。悪い方向にね。そしてその将来をも、奪う可能性でさえあった。自分たちが引き起こした軽率な行動が、どんな影響を及ぼすのか。それによってどんな結果や被害を被るのか。それによる責任をあなたたちは取れるのか」

「……今後それをよく考えながら、行動なさい。そして、今回起こしたことの重大さを自覚し忘れないこと」

「いいわね」

「……………」

「いいわねっっ!!!」

「はいっ」

「行きなさい」

 そうして前原たちは、トボトボと教室の扉へと向かう。前原が僕を通り過ぎていく。

――これで終わると思うなよ

 そんな言葉が、隣で微かに聞こえた気がした。


 前原たちが教室からいなくなり、張りつめた教室の空気が一変する。放課後の静寂が僕と先生を包み、緊張が解けたようだった。オレンジ色の西日が教室内の景色を塗り替えていく。

 隣の先生の顔を伺うと、彼女は前原に平手打ちをした右手をぼんやりと眺めていた。

 その顔は、悲しみに満ちていた。

「私はもう………教師として失格ね」

 先生はそう言って静かに溜息をついた。

 しかしそんな先生の心情とは裏腹に、迦麗羅は彼女に対して羨望の眼差しを向けていた。確かに教師としては、世間の目から見ると生徒に暴行を加えたダメな存在なのかもしれない。でも先生は人として、為すべきことをしているように思った。

――自分の意思を強く持って、立ち向かっていく。

 僕が目指すべき場所は、そんな先生のような存在なのかもしれない。

 今の僕には、こんなことは成し得ない。人が怖くて、自分の意思を面と向かって言うことが出来ない。人と正面からぶつかって、自分の信念を・正しいと思ったことをはっきりと伝える。

 そんな強い存在にいつかなりたい。ならなきゃいけない。

 迦麗羅は自分の強く握った拳を眺めながら、そう思ったのだった。

「かれら君、少しは心が晴れたかな」

「え」

 振り向くと、そこにはいつもの穏やかな顔を浮かべた先生がいた。

 さっきまでの先生の面影は、もうどこにも無かった。

「もう大丈夫です。先生……僕のせいで、その……ごめんなさい」

「いいのよ、あなたは謝る必要なんてない。これからも学校生活、頑張れそうかな??」

「……………はい」

 そう僕は、強く頷いたのだった。



 十数年後



 あの頃から身の丈が大きくなり、多少肩幅と筋肉のついた迦麗羅は、千葉県にある東京ドイツ村行きのバスへ乗車していた。

 これから三か月前に申し込んだ、世界最高峰の過酷な障害物レースである「スパルタンレース」に出場する為だ。

「迦麗羅も出てみない?? スパルタンレース」

 きっかけは、ネットの友達からの誘いだ。

 最初は聞いたこともない、イベントの名前に参加しようとは思わなかった。

 しかし多少の好奇心から、話を聞いていくうちにそのレースの魅力を感じるようになった。どうやらアメリカ発祥のレースらしく、日本では二〇一七年から開催されているらしい。

 まだメディアではそこまで認知することはないが、年々開催するごとに日本での参加人数も増えているとか。

――気づけば、今回で三回目の出場となってしまった。

『強くなる』とあの時決めた自分だったが、どのように強くなるか決めあぐねていた迦麗羅にとって、このレースは打って付けだと思っていた。

 生半可な鍛え方で挑むには、かなり厳しいレースだ。それは一回目のレースで体感した。

 ただ鍛えるだけでなく、強い意志をもって臨まなければならない。

 そんなレースに迦麗羅は、『身体だけでなく、心も強くなれるかもしれない。』そう考えたのであった。


 今回のレースでは、この日の為に五か月間、仕事をしながらトレーニングを重ねてきた。

 トレーニング中、その辛さから時たまに、「なぜここまで自分を追い込むのか」その理由を見失いそうになる。

 そんな時、中学校の頃いじめられていた記憶を今でも思い出す。

――あの日の先生のように、自分も強くなる。

 そう自分に言い聞かせ、再びトレーニングに集中するようにしていた。

 過去のいじめの経験のせいで、今の僕は自分の本心や、感情を他人に見せることが難しくなってしまった。

 『また自分を否定され、壊されるかもしれない。』それに強い恐怖を抱くようになってしまったからだ。


 過去の心の傷は、今でも癒えることはなく、自分の中のトラウマとして存在し続ける。

 それがいつだって、弱い自分から変わりたいと願う自分の心を邪魔してきた。

 今でもまだまだ心は弱いままだ。このレースに出場したからと言って、確実に強くなれるわけでもない。それでも、いつか身体だけじゃなく、心も強くなれるように、現実にある様々な壁を高く乗り越えていかなければならない。

 そしていつか、大切なものを必死に戦って守り続ける、あの時ゲームで見たドラゴンのようになりたい。


 だから今は、目の前の困難に立ち向かっていく。


 その先に自分の望まない結末が待っていたとしても。


 いつかあの日の僕に、「強くなれたよ」と、笑顔で顔向け出来るように。




 おわり

 

立ち絵イラスト制作:迦麗羅


 背景素材:ぱくたそ から/『教室の窓と教室の風景』【IMGP6388】

 背景素材2:Booth から/XERO/【背景素材】美術室(6069_bg09)【時間差分あり】

 背景素材3:Booth から/テラシュールウェア/【背景素材】TRPG向け素材3種[004]

 ※この物語は、続編として以下のYouTube動画が近日公開予定です。

  この物語は、その続編とセットの話となります。


 迦麗羅(carera)

 チャンネルURL https://www.youtube.com/@user-kq9xh3vi6x/featured

『【駆け抜けろ!強くなる為に】2024/6/1 東京ドイツ村 スパルタンレースSUPER Competitive攻略動画』

 よければこちらもご覧いただける幸いです。

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