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私が贈る準イベリス  作者: 夜月 真
7/16

7月30日

7月30日


「ここを、こうして……できた!」

 スマホの画面と鏡の自分を見比べながら複雑に髪を束ねた。高校生になって初めての花火大会に、自然と心が浮かれてしまう。

 祖母の家から2年前に送ってもらった浴衣を、ようやく着る日が訪れたことにも嬉しさがあった。一人で着付けを行うのは一苦労だったけれど、ネットの動画を参考にしながら終わらせられた。

 洗面台で簡単に化粧を済ませ、改めて鏡の中の自分を見つめる。いつもとは全く違う自分に、彼からどう見られるか少しだけ不安だった。

「大丈夫、大丈夫……」

 胸に手を当てておまじないのように唱えると、無駄に入った肩の力がスッと抜けた。


「よし! 行ってきます!」

 返事のない部屋に元気を残し、私は麦藁色のかごバッグを持ち、下駄を履いて扉を開けた。

 駅に着き、電車へ乗ったタイミングで彼に連絡を入れる。

【今電車乗ったよ〜】

 段々と横日になりゆく窓の外をドア横の壁に寄りかかって眺めていると、手に持つスマホが震えた。

【こっちはあと一駅で着くよ】

 彼が作った文字をロック画面で確認し、私はそっと画面を消した。私は小さなスマホよりも電車の外、街を移動しながら眺めるのを優先した。窓越しから見える景色の中には、知らない住宅街、知らない子ども達、知らないお店がちらほらと現れては、また隠れる。私が見る景色の中に、人の人生や物語があることが確かに存在する。その光景が好きだったのだ。

 たった二駅先はすぐに到着し、電車を降りる人に交じって改札を抜けて、彼の待つ場所へと向かう。人の流れをすり抜け、別の改札の中へ入ると派手な服装の男女を見ている彼を発見した。知り合いなのだろうか。

 私は気づかれぬようにそっと近づき、踵を上げて耳元で囁いた。


「ああいう子がタイプなの?」

「うわ! びっくりした!」

 酷く驚いた彼を見て、目を細めて笑顔を作った。

「見て、これ! 泳いでるように見えない?」

 白い布の中に紫陽花が咲いた浴衣の背中を見せる。右肩の辺りに2匹だけの金魚が描かれているのだ。ドレスを揺らしているように見えるそれらは、浴衣の中を自由に縛られることなく泳いでいるように感じられる。

「珍しいね、ワンポイントで金魚の描かれている浴衣って見かけたことないな」

 私の唯一の自慢を彼に話せることに、喜びでテンションが上がる。

「そうなよ! これお婆ちゃんが昔、特注で作ったらしいの! すごくない!?」

 彼は似合ってるよ、そう言ってくれた。私はその一言だけで十分に嬉しかった。


「行こう、電車が来ちゃう」

 騒がしい改札前から逃げるように階段を降り始めると、何も確認せずに降りているのに気がつき、振り返って彼に問う。

「あれ、こっちで合ってる?」

 どうしてか、慌てふためいた彼は言葉が詰まっていた。

「う、うん、合ってるよ」

 帰宅時間と重なっているからか、それなりに人が多かった。浴衣姿の人もちらほらと見かける。

 電車の到着を知らせるアナウンスがホームに響く。

「やっぱりみんな花火見るのかな?」

 彼は辺りを見渡すとどうしてか落ち着きがない。何かを見つけたような反応だ。


「ちなみに今日の私はどう? 何点?」

 手を広げて浴衣姿を見せたけれど、彼はどこか遠くを見たまま口を開く。どうしてか私に意識が向いていなかったようだ。

「翠さんはいつも可愛いしいつも満点だよ」

 予想外な返答だった。私を見ていなかったにしても、嬉しすぎる言葉に今までにないくらい顔が熱くなる。耳にまで熱が伝わる。

 電車がホームに滑り込み、舞い上がる風が前髪を大きく揺らす。束ねた髪に、今日は隠れることができない。彼は慌てて弁解しようとした。

「ごめん、変な意味じゃないから……!」

「嘘なの……?」

 見上げた彼の表情はとても照れ臭そうだった。


「嘘……では……ないけど……」

 首元に手を添えて横目の彼が何も言わない私に続けて話した。

「無意識に言ったことだし……本当だよ」

 電車の扉が開いた。乗り換えの駅ということもあって、多くの人が降りた。扉の両端にいる私達は、人が降り切るのを確認して電車へ乗り込んだ。

 運良く空いていた席へ座り、ちょっとだけ気まずい時間が流れた。空気を察した彼が小さな声を私に届けてくれた。

「そういえば翠さんのおばあさんはどんな人なの……?」

「そうだなぁ。諦めの悪い人だったってお爺ちゃんは言ってた。お婆ちゃん、お爺ちゃんに恋して11年もアタックしてたらしいよ」


「11年!?」

 迷惑にならない程度に声を張り上げた彼にクスッと笑ってしまう。

「そう、すごいよね。それで二人が初めてデートしたのが夏祭りらしくて、金魚掬いで2匹持ち帰ったらしいの。それで、お爺ちゃんがお婆ちゃんに浴衣をプレゼントする時に、この金魚の模様を入れたんだって。だからお婆ちゃんがよく言ってたの。恋は実るまで努力しなさいって」

 祖母は私の唯一の自慢だった。この話をできたことが嬉しく、つい笑顔が溢れる。

 10分ほどで乗り換え先の駅に着いた。

「乗り換えだ、降りよ」

 電車を乗り換え、先ほどよりも人がかなり増えた。

 満員電車の中、人混みに揉まれること更に10分、目的の駅へ到着した。狭い駅の中、ホームから落ちそうなほどの人口密度が少し怖かった。

「人多いから気をつけてね」

 心配してくれる彼に、うん、と返事する声が一瞬でかき消されるような物音だった。

 改札を抜けると、私と似た足音がそこら中から聞こえる。見える物、聞こえる音全てが感情を昂らせる。


「屋台でこれだけは食べたいってものある?」

 こめかみの辺りから伸びる横髪を揺らし、お祭りの話題を彼に振る。

「イカ焼きは絶対外せない」

 迷いの無い答えに、頭の中にイカ焼きの文字を刻み込む。

「わかる……。私はリンゴ飴。あの飴は屋台にしかない味」

 わかる、と彼も同じ返答をした。

 同時にプッと吹き出し、私達は笑い合った。何がおかしいのかは、きっと私達にしかわからないものだった。

 アブラゼミの鳴き声と、取り囲むように広く茜色に染まる空が、夏を一層に引き立てる。

「たぶんめちゃくちゃ人いるから、逸れないでね」

 増えてきた人の数を見て彼が私を気にかける。人の流れが悪くなってきていた。

 東の空が暗くなり始め、かろうじて空に明るさが残る頃、ようやく会場の公園へ着いた。駅とは比べ物にならないほどの人混みだ。

 流れに身を任せて人混みに沿って歩いた。見渡しながら歩いていると、僅かだが座れるくらいのスペースを見つけ、前を歩く彼の袖を引っ張った。


「あそこ、狭いけど空いてない?」

 誰かに取られる前にと、彼を置いて走り出す私に大きく声を被せられた。

「気をつけて!」

 その場所へ辿り着き、振り返ると彼が道に立ち尽くしたままだ。手を振って合図を送るとようやく足を踏み出した。

「どうしたの?」

 暗い表情で合流した彼に問うと、罪悪感に飲まれそうな雰囲気のまま話してくれた。

「いや、知らないカップルがここを指差してたんだけど、何だか申し訳ないなって思っちゃって……」

 本当に優しい人だなと思った。誰かの気持ちをわかろうとするその心が、昔と何も変わっていなかった。私は思い付きの言葉を微笑んで語りかけた。


「優しいのね。大丈夫だよ、その人達は。たまたま運が悪いところを見ちゃっただけで、どこかで幸せを感じているものだよ。それに私たちのおかげでもっといい場所を見つけるかもしれない」

 彼の雲がかかったような雰囲気がそっと消え、安心した。

「そっか、ありがとう。ごめんね、変なこと言って」

「ほんとだよ! これは今日奢りですかな」

 うっ……、と言葉を詰まらせる彼に、私の冗談は相変わらず伝わっていなかった。

「あはは、嘘だよ。レジャーシート敷いて何か買いに行こ?」

 バッグを開こうとする私を見て、彼も鞄の中に手を突っ込んだ。

「あ、レジャーシート持ってきたよ」

 二人で同時に取り出すと、目が合い、二人で笑い出してしまった。結局私のものをしまって、彼が広げてくれた。大きめのサイズを半分に折り、三人は座れるくらいの広さを確保できた。

 風で飛ばされないよう、貴重品だけを持ってカバンを置いていく事にし、誰かに取られませんように、と祈るように呟いた。


 その場を後にして出店がずらりと並ぶ人の中へ混ざる。金魚を片手に持つ女の子、店の裏で焼きそばをすする男子中学生、浴衣姿肩を寄せ合うカップルなど、多種多様な人達が、夏の空気を作り上げている。

 たこ焼き屋からモクモクと立ち上がる煙、水の上を流れるスーパーボール、テーブルの上に行列を作るいちご飴、夏を形作ったものが一度に集結したような景色だ。

「どこから行く? それとも制覇しちゃう?」

「制覇は……え、できるの?」

 いつも間に受ける彼を笑いながら冗談だよと言うと、金魚掬いの屋台を見つけて思わず走り出してしまった。

 金魚の泳ぐ水槽の前でしゃがみ込み、周りには親子や小学生がワイワイと楽しんでいる。

「やるの?」

 背後の彼が尋ねるが、私は黙って首を横に振った。エアチューブから出る空気に群がる金魚を満足に見つめ、私は立ち上がって行こうとだけ言った。

「やりたかったんじゃないの?」

 首を横に振って、考えを伝えた。


「金魚を見るのは好き。綺麗だし、可愛いから。けど金魚掬いをしちゃうと、それを全部否定しちゃうみたいな気持ちになっちゃうから」

 そっか、とそれだけしか彼は言わなかった。

 少し歩くと、何か香ばしく、食欲をそそる空気が胃袋を刺激した。

「イカ焼き寄っていい?」

 屋台を指差す彼に、イカ焼きだったのかと気づいた。

「すごくいい匂い……。私も食べようかな」

 屋台に近寄ると、強面で肌黒のおじさんが鉄板に並ぶイカにタレを塗っている。

「私はゲソにしようかな」

 ずらりと並ぶイカを前に、よだれが垂れてしまいそうだ。

「僕も断然ゲソ派」

「じゃあゲソ二つだね」

 店主に注文すると、鉄板にイカを乗せて焼き直し始めた。お金を渡し、熱々でタレが滴るゲソを道の端によって噛り付いた。

 甘いタレがイカの吸盤の隙間までにも絡みつき、口の中で熱と香りが広がる。嗅覚までもが味を感じているようだ。


「今何時だろう」

 イカの刺さる竹串を片手に、彼がスマホで時間を確認した。6:56と表示された。まだあと30分くらいは余裕がありそうだ。

 あっという間にイカをお腹の中へ入れ、ごみを屋台横の袋に入れると、すぐ近くにチョコバナナの屋台がある事に気が付き、テンションが再び上がり直す。屋台の前に行くと、チョコ色、水色、ピンク色にコーティングされたバナナが割り箸に刺され、こちらもずらりと隊列を組んでいる。

 店主のおばちゃんとじゃんけんをして、勝つと一本無料とポップに書いてある。

「颯君、これはやるしか」

 私は眉間に力を込めて気合を入れ、返事を聴く前に彼の分まで頼んでしまった。

「すみません、二本お願いします」

「はいよ、じゃあじゃんけん2回ね」

 二人で500円を払い、手をグーに握り締め、最高潮のやる気に到達した。じゃんけんポンの掛け声と共に前へ勢いよく出したパーは、おばさんのチョキにあっけなく完敗した。

 呆然と自分の負けを認められずに手の平を黙って見つめると、彼はぷっと吹き出して笑っていた。


「負けた……次、颯君の番だよ!」

 彼もきっと負けるだろう期待をして見守る。脱力した手の平を差し出す彼は私の期待を裏切った。

「……どうして……。私の時はチョキだったのに……」

 青色と焦げ茶色のチョコバナナを両手に持つ彼の横を歩いて次の屋台を探しに向かう。

「……翠さん、どっちか食べる?」

 予想外の言葉に、思考が一瞬停止した。

「いいの?」

「うん、そこまでして食べたかったわけでもないから、翠さんに食べてほしい」

 笑顔が溢れ、青色のチョコバナナを喜んで受け取った。

「ありがとう! 青色のやつなんだかんだ食べたことなかったの!」

 私達は再び道の端によって、チョコバナナを食べた。残りの1本を食べ始めたタイミングで私達は歩き直し、半分ほど食べ終えたところで私は彼に差し出した。

「……何?」


「じゃんけんに勝ったのは颯君だから、半分だけもらうね。それに食べ過ぎても太っちゃう」

 食べかけのチョコバナナを無理に手渡した直後に私は考えを改めた。

 歯型をつけた食べ物を渡す女なんてどこにいるのだろうか。私は自分のしたことに恥ずかしさが込み上げ、汗がどっと噴き出した。時間を戻して他にどうすれば良かったのか考え直したい。湧き上がる羞恥心も知らずに彼は残りを口にした。

 何も意識はしなかったのか、気になる気持ちを押し殺した。

「時間も微妙だし、何か座って食べられそうなものを買って戻ろうか」

「そうだね、人も多いし、戻るのにも時間かかりそうだもんね」

 その後私達はたこ焼きとりんご飴、そしてかき氷を買い、少し食べ過ぎかなとも思えた。たこ焼きとりんご飴がそれぞれ入る袋を彼の腕にぶら下げ、私達は荷物の場所へと足を運ぶ。

 黄色のシャンプーをしたような氷の山は、私の舌をじんわり冷やす。美味しいものを食べると、自然と微笑んでしまうのが私の癖だった。稀にくるどうしようもない頭痛で頭を抑え、それ見て彼が笑う。こんな夏が、どうかまた来ることを密かに願った。


 荷物の場所に着いたタイミングで、丁度かき氷も食べ終え、たこ焼きを袋から取り出して空いた袋にごみを突っ込んだ。

 時間を確認すると、あと10分で花火が打ち上がる時刻だ。

「荷物取られてなくて良かった。たこ焼き食べる?」

「うん、冷めちゃう前に食べよ。なんだか熱いもの食べたり冷たいもの食べたりで口の中大変だね」

 私の言葉に、確かにねと彼の頬が緩んだ。

 パックの輪ゴムを外し、モワッとたこ焼きの香りが彼の顔を襲う。たこ焼きの上を鰹節が熱を材料に踊っていた。

 二本刺さる竹串を一本ずつ手に取り、彼は大きなたこ焼きを一口で頬張ると、焦った様子でアフアフと声を漏らした。

 私はその姿がどこか可笑しく、お腹を抱えて涙を浮かべる。

 急いで飲み込むと、今度は左手に持つたこ焼きのパックを、あっつ! と声を出して慌ててそっとパックを置いていた。

 笑いの収まらない私はたこ焼きを口に運べない。


「めっちゃ熱い……」

 彼が水を一口飲み、私はお腹の力を緩めた。

「あーおかしかった。アフアフなんて言っちゃって」

 照れた顔を向ける彼は私にたこ焼きを押し付ける。

「翠さんも一口食べてよ! すんごい熱いから!」

 疑いもなくたこ焼きを齧ると、確かに熱いが焦るほどでもなく、おいしいとだけ言う。

「……熱くないの?」

「颯君、猫舌なんだね。多分世間的にあんまり熱くない方だと思うよ」

 疑った様子の彼は、もう一つ口の中に放り込むと、またもアフアフと声が漏れてしまっていた。

 再び息もできぬほどに笑い、腹筋が痛くなり始めた。

 順調に二人でたこ焼きを半分まで食べ終えると、熱も徐々に冷めてきた。残り数も二つとなった時、アナウンスが流れた。

「これより、今年度、夏の……」

「あ! もう始まるよ颯君!」

 アナウンスの音が大きく、彼の耳元で声を張ると、口に含んだたこ焼きを飲み込んで私の耳に近寄った。


「たこ焼き食べちゃお!」

 それしか考えていないのかと、口元に手を添えて肩を震わせる。

 たこ焼きを飲み込むと花火大会の始まりを知らせる尺玉が鳴り響く。辺りがざわつく中、バンバンと大きな音が耳に触る。まだ空に明るさが残る。完全には暗いと言い切れない。

 もういつ始まってもおかしくない、そんな時、誰かが私達に声をかけた。

「すみません、この辺りにもうスペースがなくて……良かったらでいいんですが、少しだけ場所を分けていただけませんか?」

 大学生くらいの甚平を着た男性が浴衣を着た女性の手を握り、腰を低くして真剣な眼差しで私達を見つめる。

 時間が迫る中で、きっと座る場所が無くて焦っているのだろうと言われなくても伝わった。

 彼と目を合わせると、考えていることは同じだとすぐに伝わった。すぐに立ち上がった私達は、荷物をまとめ、半分に畳んだレジャーシートをさらに小さく畳んだ。


「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 何度も頭を下げる男女を見て、私達は顔を合わせて微笑んだ。

「大丈夫ですよ、皆にとって良い思い出になる方が絶対いいですもん」

 私の発言に、男性は彼に目を向けた。何を言うのかと思えば、素敵な彼女さんですね、と放った。私は今どんな顔をしているのか自分でわからなかったが、耳が熱くなったことだけは確かにわかった。

 場所の準備も一区切りつき、先ほどよりも狭くなったシートの上に腰を下ろした。

「良いことしたね」

「そうだね」

 私達は肩を寄せ合い、これまでにない程の距離感だった。胸を叩く鼓動が肩を通して彼に伝わっていないか心配するほど、一層に緊張が心臓に伝わってしまう。

 彼が伸ばした足の隙間に手を入れ、身を縮めているのに対し、私は右腕を柱として体を支える。彼の肩に重心を傾け、寄り添う私に見向きもしない。このまま彼の左肩に頭を倒してしまったら、どんな反応を見せるのだろう。さすがに私にはそんなことをする勇気は出なかった。


「そうだ、りんご飴食べよっか」

 自分の気持ちをはぐらかすかのように、彼にりんご飴を取り出してもらった。

 アナウンスが終わり、大きなスピーカーから音楽が流れ始めた。とても夏らしい曲だと感じたが、歌手がわからなかった。

 溶けかけたりんご飴を包む封を破り開け、コツンと飴をぶつけ合って乾杯した。飲み物じゃないのにね、そう笑い合った。その直後だった。

 ピュ~、と大きな音が立ち昇り、その正体の火玉は空中で一瞬だけ姿を消した。そしてドォンと音を空で散乱させながら、紅色をした火花が私の瞳に大きく花を咲かせた。その刹那はまさに感無量だった。

 辺りの人たちの歓声が聞こえる。片手に持つりんご飴を齧りながら、彼の隣にいる事実を確かめる。彼の意識が空に奪われている今しか、その表情を見つめられるチャンスは無かった。

 うるさいくらいの音楽と、暑さが夏の匂いを引き寄せた。宵の空に咲き枯れる花どころではなかったのだ。魅了してくれる夏の風物詩を前に、それを無視する自分が哀れだった。

 彼の飴が溶け始め、りんごの曲線に沿って重力に従う。私は自分のものを彼のものに軽くぶつけ、傾けた。


「溶けちゃうよ?」

 一番大きな花火の音が体に響いたとき、彼とようやく目が合った。横から鮮やかな色で照らされた彼の表情に、緊張が走る。時間が止まったように感じた。何も言わない彼と顔を合わせている間に、何度も何度も花火が空に咲いていることを身体が感じる。

 滴る飴が、彼の腕に垂れ落ちた。慌てる彼を見て私も自分の意識を取り戻したように動き出せた。バッグから取り出したウェットティッシュを手渡すと、彼はありがとうと言って腕に付着した飴を拭き取った。

 彼は何を考えているのだろう。彼の気持ちが無性に知りたくなってしまう。この空に紛れてそれを訊けたら、きっと心も軽くなるだろうなと、一人ぼっちの心がそう思った。

 こんなにも夏らしい場所で、甘いものを口にしているのに、私の気はどちらにも向いていない。

 柔らかな風が頬を撫で、前髪を優しく揺らす。再びりんご飴を齧ると、何も言わずに彼が私に目を向けた。

「綺麗だね」

 力の抜けた笑顔で私はそれだけを言った。今だけはそれ以上に言葉も要らず、ただ彼の隣に寄り添っているだけで幸せだった。寄り添う肩の感触と互いの熱が、私の頭に染み付いた。

 夜空の鉢に儚く、色をつけて枯れ散るその姿は、どこか、私と重なって見えた。

 およそ1時間ほどで花火大会終了のアナウンスが流れ、周辺の人たちが一斉に帰る準備をし、立ち上がる。

横にいた大学生らしきカップルも、ありがとうございました、と言い残して去っていった。


「僕らも行こうか」

「うん、りんご飴買いに行っていい? 自分へのお土産として」

「いいよ。僕もお土産で買いたいし」

 売り切れる前に急いで行こうと、レジャーシートを折り畳んで、道から溢れかえりそうな人混みへ私達は合流した。

 屋台まで辿り着くのに、花火が打ち上がる前より2倍ほど時間がかかった。ようやく辿り着くと、運良くまだりんご飴は数を減らしていなかった。

「よかった……まだたくさんあったね」

 一息ついて、私は小さいのを1つ買うのに対し、彼は小さいのを3つと大きいのを1つ買った。

「そんなに食べるの?」

「ううん、家族に」

 そう言う彼に、あー、と納得した声を漏らす。

 私はかごバッグに入れ、彼は貰ったビニール袋に腕を通す。そしてまた人の川に合流して駅方面へ向かった。

 ゆっくりと周りに合わせて進んでいると足の甲に激痛が走った。反対側から歩いてきた人に踏まれてしまったのだ。

 歩道に埋まる人の量を見て彼が一つ提案した。


「最寄駅のホーム小さかったし、一駅先まで歩かない?」

 足が痛いから厳しいかもしれない、正直にそう言いたかったが、迷惑になると考え、私はしぶしぶ了承した。しかしそんな事も長くは隠し通せなかった。

 歩くペースが落ち始めてしまい、感付いた彼がシャッターの下がる店の前で足を止めた。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもないよ」

 泳いだ目が嘘を見抜かれてしまう。赤く大きな擦り傷を見つけた彼は目を見開いた。

「踏まれたの?」

 惨めな自分が悔しく、黙って頷く。すると何を思ったのか、彼は私の腕を引いて細い道へ誘い込んだ。そこで現れた自動販売機で水を買うと、私の前で跪いた。


「はい、肩に手を乗せて」

「え?」

「いいから、ほら」

 彼は私の手を肩に、血の滲んだ足を彼の膝に置かせた。

「ちょっと染みるかもしれないけど、ごめんね」

 冷たい水で足の汚れを洗い流す彼を見下ろし、不思議と私の目頭が熱くなり始めていた。せっかくの良い思い出で終わるはずだったのに、こんなことで彼に迷惑をかけてしまう情けない自分の姿に嫌気がさしたのだ。

「僕の妹も昔怪我とかよくしてて、いつも僕が応急処置をしてたんだ」

 会話が途切れぬように話し続ける彼は、タオルで水を拭き取った。

「そそっかしくて、今でも自転車で転んで帰ってきたりするんだよ」

 財布から絆創膏を取り出し、傷に合わせて3枚ほど貼ってくれた。私はそのどうしようもないほどの優しさと、彼に似合わぬ哀れな自分に対し、滴を零してしまった。

「よし! これでとりあえずはいいかな! 見て、左膝だけびしょびしょ」

 笑いながら顔を上げる彼は、私の赤くなる目を見て慌てて立ち上がりおどおどしていた。


「ごめん! 痛かった!?」

 私は大きく首を横に振るしかできなかった。一呼吸置いて、ありがとう、と言ってまた黙る。彼はそれ以上何も問いかけず、帰ろう、とだけ言ってくれた。そして再びしゃがみ込んだ彼はどうしてか、私に背中を見せた。

「なぁに?」

 震えた声で彼に訊く。

「歩けないでしょ……こっちの方が翠さん楽だろうし」

 鼻を啜って私は何も考えずに、彼の背に身体を預けた。

「大丈夫? 何も落としてない?」

 うん、とそれだけ伝えて前進した。そして気持ちも落ち着きが戻った頃、ありがとうと伝えた。

 何も考えずに背負ってもらってしまったが、段々と自分の体重を任せていることに気づき、心拍数がゆっくりと上がっていった。

 気持ちが落ち着いてきた私はこの状況に疑いすらも持ち始めた。夢ではないか、そんな考えを否定するように彼の体温が服を通して密着する肌で感じた。

 人気の少ない道を歩き、交差点に差し掛かるところで彼は振り向きもせずに今日の話を始めた。


 どんな花火が印象的だったのか、屋台で食べ逃したものは何か、過去のお祭りの思い出は何か、二人で言葉を交えた。

 お腹の辺りに熱がこもってきたところで、彼に問う。

「疲れてない?」

「うん…………大丈夫」

 彼の足取りが悪くなってきたように感じた。いつも私ばかり助けられている罪悪感と、身を任せている現状に感情がおかしくなりそうだった。

 曲がり角を左折すると、駅の名前が見え始め、改札の近くで彼は私を降ろした。

「荷物は持つから、ゆっくり歩こう」

 足を引きずりながらホームに足を運び、わざわざ歩いたにもかかわらず人が多かった。電車が到着したと思いきや、既にほぼ満員の状態に更に待っていた人達が押し込んで無理に入り込む。

「もう少し空くまで待とうか」

 私達はホームのベンチに腰掛け、次の電車を待った。結局その電車でも人が多く、3本目の電車に乗ることとなってしまった。その上彼は私の最寄り駅まで送ってくれたのだ。

 彼の背中から漂っていた柔軟剤の香りが未だに鼻に残る。


「ごめんね、わざわざここまで」

 せっかくの夏を台無しにしてしまったようで、心に何か引っかかる。

「ううん、大丈夫だよ。いつもお世話になってるし」

 駅前から抜け、人影も少なくなると虫の鳴き声に、より一層彼の存在を大きく感じさせられた。彼は私に合わせて歩幅を狭くしてくれていた。この時間だけは、誰にも譲れない、渡したくない、失いたくないと心から願う。アパートに着く頃には、もういい時間だった。

「じゃあまたね、今日は楽しかった。ありがとう」

 掛けられた言葉に、うん、とそれだけしか言えない。他に言うことがたくさんあるというのに、私の喉からはそれだけしか出てこなかった。

 空いた手を振られ、カフェの方に向かって歩く後姿を見て、私の背中を誰かが押したような感覚があった。その存在が何なのかはわからなかったが、ここで私は足を出さなければ、絶対に後悔してしまう。そう告げられたようだった。


 痛みを堪えて走り出すと、響く足音に驚いた彼が振り向いた。抱きしめたい気持ちを押し殺し、袖をつかんで心から振り絞った言葉の一部を伝えた。

「今日は……本当にありがとう……楽しかった……」

 俯いた視界には彼が持つりんご飴の袋が映る。

「僕も楽しかったよ。次はどこに行くか、また考えようね」

 その優しさが、私の心を奪う毒だった。コクッと頷き、前髪で隠れた顔を彼に見せることなく小走りでアパートの角を曲がって身を隠した。私はコンクリートの壁の陰に寄りかかり急いでメッセージアプリを開いた。

【帰り気をつけてね!!!!!】

 すぐについた既読の文字に、ありがとうと返信が来た。胸に秘める想いをすべて彼に告げられる日は訪れるのだろうか。私は手の中にあるスマホを握り締め、高い雲を見上げて余った夏を噛みしめた。

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