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私が贈る準イベリス  作者: 夜月 真
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5月9日

5月9日


 私は昨日の余韻から抜け出せずにいた。朝、自分でも驚くほどに早く起き、登校前にカフェに寄ったのだ。

 朝日が登り始めた空は、カフェの場所へ着くと夜になっていた。

「こんばんはマスター」

店内で皿を磨くマスターが私に気づく。今日も笑顔で振る舞ってくれた。

「こんばんは、今日はとてもお早いですね。今何かお飲み物を……」

「ありがとう、けどお構いなく。普通のお水で大丈夫よ」

 気遣いの上手いマスターに、私は両手を横に振る。

「そうですか、ではたまには季節外れのものでもお持ちいたします」

 私は店内の席に腰掛ける。天井まで伸びる枝先が、自然との共存を感じさせる。

 厨房からすぐに戻ってきたマスターが私に薄い青色の太ったコップを持ってきてくれた。


「こちら『春雨(はるさめ)との出会い』になります」

「また素敵な名前のついたお水ね」

春雨の水たまりのような澄み切った水の上には、桜の花びらが数枚泳いでいる。季節始めの花びらは、見覚えのある桃色をしており、飲み込んで良いのか不安である。

「花びらが甘味料として役立ってくれています。飲むのに抵抗があるかもしれませんが、珍しい味を愉しめると思いますよ」

グラスを持って鼻に近づけると、確かにほんのりと砂糖とは違った甘い香りが嗅覚を反応させる。そのまま口へ移すと、桜の花びらが私の身体へと流された。口の中へ入った途端にじんわりと自然に溶けて消えたことが不思議だった。

しかし花びらが溶けたおかげか、飲み込みやすくなった。


「どうして花びらが無くなったんですか?」

マスターは短い指を一本だけピンと立てて答えてくれた。

「少しだけ手を加えさせていただきました。そのままだとただ水に花びらを浮かせただけで、品のないものですので」

充分素敵だと感じたが、マスターはこだわりにこだわるオーナーだった。

「ところで翠さん、昨日は……」

「マスターありがとう!!」

私は昨日という言葉で思い出し、マスターが話しきる前に声を張り上げてしまった。

驚いたマスターは、安心と不安がどちらも混ざったような表情をして私の隣へ腰をかけた。

「翠さん、私は数日前に彼を見つけ、招きました。あとは貴女が彼と距離を縮め、思い出して貰うだけです」


「そんなの簡単に……」

「しかしですね」

顔を逸らして水を一口飲もうとする私にマスターは言葉を遮った。初めて見るほど真剣な眼差しをしている。

私は嫌な予感が胸を襲った。

「彼の心はどこか他の方と違います。皆さん、大きな悩みや不安をお持ちなのは同様なのですが、彼はそれとは違ったものを持っています」

「……違ったものって?」

 マスターの言葉は、私にとって限りなく辛いものだった。

「私にもわかりません。もしかすると、貴女の記憶や思い出が無いのかもしれません」

自分でもどこを見ているのかわからなくなっていた。無意識に目線があちこちと泳いでしまう。頭がうまく回らない。


「落ち着いて聞いてください。あくまで私の推測ですので」

言葉が見つからない私はただ気持ちを吐き出すしかできなかった。

「そんなはずない……。私の会いたかった人は絶対に彼だし、確かに同一人物だって直感でわかったもの……!」

マスターは動揺し始める私を宥める。

「ですので、あくまで推測です。どうして彼が貴女の事を忘れてしまっているのかわかりませんが……」


「忘れられてなんかない!」

テーブルを叩いた勢いでグラスの水が揺れた。自分でも制御できない怒りに驚いた。マスターは何も言わなかった。

「……ごめんなさい、大きな音を立ててしまって」

水を飲んで感情を落ち着かせるが、それでもまだ足りないくらいどうすれば良いのかわからない。

「仮に記憶が失われているのだとしても、思い出して貰えないわけではないです」

「……記憶が失われている……なんてあるの?」

マスターは立ち上がり、出入り口の横にある出窓から外を眺めて続きを話した。

「可能性は低いですが、ないこともないです。大丈夫ですよ、きっと」

振り返るマスターの笑顔は空模様と反していた。


「……ありがとうマスター、今日はもう行きます」

折り畳み傘を用意し、ごちそうさまとだけ言い残してお店を出た。

何も考えずに歩いて池の前までたどり着くと、日差しの強まっている朝に、私は腕の力が抜けて傘を落としてしまった。

落とした傘を見下げると、目頭が熱くなっていることにぼやけた視界で気が付いた。私は腕に続いて足の力も抜けてしまい、体が崩れるようにその場に座り込んだ。

頬を伝う涙が熱い。まだ色の薄い空を見上げて私は呼吸ができにくくなってきた。


どうしてなのだろうか。どうしてこんなにも頑張って、待ち続けて、ようやく出会えたというのにこんな結末なのか。

自分に問えば問うほど虚しさが溢れてくる。叫ぶように溢れる涙は自然と声となっていった。止まらない零れる涙に、拭う気も起きない。どれだけ泣き続けたのだろうか。

この日、私は学校に行くことができなかった。

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