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私が贈る準イベリス  作者: 夜月 真
13/16

12月24日

12月24日


 2週間ほど前、彼に今日を指定して予定を開けてもらった。今日が私にとって、人生最後のチャンスになる。今日彼に過去の私を思い出して貰えなければ、私はこの恋を諦めるのだ。

 彼の提案でイルミネーションが有名な遊園地へ遊びに行くこととなった。

 私の家の近くで待ち合わせ、電車で数駅揺られるとあっという間に遊園地の最寄り駅へ着いた。電車から降りる人達の組み合わせはほとんどが男女だった。

「カップルが多いね……。私たちもそう見られてるのかな」

「……どうだろうね」

 少しだけ重たい空気にしてしまった。そもそも彼が私の事をどう思っているのかもまだはっきりとわかっていなかった。

 駅から遊園地へ向かうゴンドラには、初めて見るくらいの列ができていた。ある意味クリスマス限定だった。

 往復チケットを買って列の群衆に交じると、今後の進路について彼に訊かれた。


「進路は決まったよ。AOだったから面接と成績だけでいけちゃった」

「そうなんだ! やったね! 今日はお祝いも兼ねて楽しまなきゃだ!」

 大学名まで訊かれなくてほっとした。実家の方の大学になってしまったため、もうこの辺りにいられないと説明する手間が省けたからだ。

 高校生活の話をしていると、意外にも順番は早く回ってきた。ゴンドラ1台に対し、2組が乗り込むようだ。

 ゆっくりとターンをして向き先を変えるゴンドラに、彼に手を引かれて乗り込んだ。

 揺れが時間と共に落ち着きだし、まるで運送される荷物のような気分だった。

 葉の着かぬ木々の山を越えると、野球場で練習をする粒のように小さな選手たちが現れた。そしてまた少し経つと、細長い金属の塊がウネウネと異形を成して現れた。

「ねえ見えてきたよ!」

 同じゴンドラに乗る知らぬ女性が指を差して興奮気味に話す。

 私達の口数は少なかった。声を発しても、耳元で囁くような声量だ。そして景色ばかりを見ては、季節についてや山についてなど、場に合わない会話をしていた。

 ジェットコースターのレールの真横をゴンドラが通り、10分弱で降車場に到着した。券売所に向かう途中、冗談交じりの表情で口を開く。


「じゃあお祝いということで……」

「ということで……?」

「奢り……?」

「うっ、それは……うーん……」

「あはは、冗談だよ。本気にしないで、逆に困っちゃう」

 相変わらず彼は冗談を真に受ける人だった。そんな真面目な部分も今日が最後だと考えると、落ち込みそうになってしまう。

 私は今日、彼にも、私にとっても最高の思い出にしなければならない。いつもより一層楽しそうに、笑顔でいなければいけないと使命感のようなものが湧いていた。力の抜けた笑いが、彼にばれないように気を付けなければ。

 園内に入ると、犬のようなマスコットキャラクターが出迎えてくれた。

「イルミネーションまで時間あるし、何か乗る? それともお腹空いてる?」

「実はお昼ご飯食べてないんだよね」

 お腹を摩って園内を見渡すと、寂しさをかき消してくれるように好奇心と興奮がこみ上げてきた。


「じゃあ、何か軽いもの食べようか。この後色々乗るだろうし、吐かれても困るから軽くで」

「吐かないから! 安心して!」

 少し失礼なくらいの彼の冗談は居心地が良かった。北風が頬を少し痛いくらいに冷やした。

 小さなジェットコースター乗り場の近くにあった売店で焼きそばを食べることとした。人が多く、食べ物を買うのにも時間がかかる。

 私が席を確保している間に、彼にご飯を買ってきてもらった。人が随分と増え、私を見つけられるか不安だったけれど、10分ほどで彼が戻ってきた。

「ごめんお待たせ。すごい並んでた」

「ううん、全然待ってないよ。今きたところ」

「すごい嘘じゃん」

 冗談の混ざる会話に、私達は同時に吹き出して笑った。

 薄汚れたテーブルの上に、焼きそばとポテトを広げる。作り置きされていたような、緩く、値段相応の味だった。そして一箱のポテトを二人で分けた。

 最後のポテトを食べ終え、私達は食事中に話し合った結果、目の前にあるジェットコースターを最初に乗ることにした。


 ゴミ箱に空の容器を捨て、そのままジェットコースターの列へと並んだ。30分ほど待ったが、特に話が尽きることも無く、あっという間に順番が来た、そんな感覚だった。

 私達はコースターの前でも後でもなく、ちょうど真ん中あたりの席へ案内され、席へ座って安全バーを降ろすと、お互いの顔が少し見えづらくなった。

 感情が昂る。こんな楽しみな感覚はいつ以来だろう。

 プルルルと音が鳴り、コースターが発進する。憧れの人と隣り合わせで思い出作りをしている自分が、再び信じられないほどに嬉しくなってきた。

 冷たい風が首元を触る。レールの頂上へゆっくりと大きな機械音を響かせて上り詰める。

 コースターは先の見えない頂上を目指して真っ直ぐと進む。私はこの時改めて考え直すと、遊園地なんて初めて来たと、はっと気が付いた。

「なんか、遊園地って感じだね!」

「遊園地って感じって言うか、遊園地だよ!」


 彼のツッコミに、あははと笑ってしまう。

 コースターがレールの頂上に到着すると、ようやく続かれるレールが現れた。そして速度を上げて、笑い声を消し飛ばした。

 二人の声を置いてコースターは急降下し、次第に小さい絶叫が口から溢れ出す。彼は両手でバーを掴んで声も出せそうになかった。

 気がつくと数分でコースターは降車場へと戻っていた。

 寒さも忘れるほどの楽しさに、私は笑顔が収まらない。ふらついて降りる彼の手を引いて私達は次の乗り物へと向かった。

 その後いくつか回った後、17時頃に一番大きなアトラクションの列へ足を運んだ。すっかり日も沈み、イルミネーションが輝き始めていた。

 1時間半待ちの紙が列を整理するポールに貼られている。

「長いね……」

 彼は乗り気ではなさそうだったが、私が辞めるか尋ねると、ここまで来たのだからと最後尾へと並んだ。

 スマホを各々で触りだす人達や、写真を撮る人などがいたけれど、私達にそんなものなど必要ないくらい、話が尽きなかった。

 カフェについての話をした。将来の話や、過去の恋愛話などもしているうちに、1時間も経っていたのだ。


 彼はカフェに通うみんなの事情を知りたがっていた。私の過去については触れなかったけれど、訊かれたら訊かれたで困ってしまうのが目に見えていた。

 ようやく乗降場の前まで列が減った。目の前で長いコースターが発進していき、3分ほど経つと再び別のコースターが私達の前へと滑り込んできた。

 スタッフの案内で先頭の席へ座り、安全バーを下げ降ろす。

「先頭だよ! やったね」

 ジェットコースターの先頭など、一度座ってみたかった場所だった。彼は落ち着いた雰囲気だったが、口角が上がっていたのを見逃さなかった。

 安全確認が行われ、スタッフの掛け声でコースターは出発した。

 薄らと空を覗かせる雲に手が届くのではと思うほどに、コースターはゆっくりと高度を上げていく。2分ほどで頂上に着き、見下ろした先にはイルミネーションがその美しさを物語っていた。

「ねえみてみて!」

「どうしたの?」


「イルミネーションがすごく綺麗!」

 人の気配をもかき消してしまいそうな輝きに、彼も喜んでいる様子だ。

「すごい……並んで良かったね!」

 彼の表情を見て、私は今しかないと感じた。彼に、お礼を言うチャンスだと。私は視線を彼の瞳に向けて、胸元の安全バーを握りしめた。

「今日すごく楽しい。たぶん、人生で一番幸せだなって感じてる。ありがとう」

 ちゃんと笑えているだろうか。彼は不愉快じゃないだろうか。無駄な思考が邪魔をする。靡いた髪が頬を擽った。彼は何も言わずに、驚いたような表情のまま、硬直していた。

 コースターが加速し、知らない人達の叫び声と共に私の身体は後ろへ置いていかれそうになる。

 誰かの叫び声と共に、揺れる心臓が破裂しそうだ。このコースターが終着点についてしまうのが酷く恐ろしかった。

 高温を響かせながらブレーキをかけるコースターは一度停止した後、ゆっくりと降車場へと向かっていた。

「さむ!」

 震える体を摩っていると彼が私の顔をみてぷっと吹き出した。


「翠さん、前髪……」

 ぼさぼさの前髪を整えながら彼を見ると、私よりも酷く崩れた前髪に、お互いを笑いあった。立ち上がった前髪を整えると、コースターは停止した。

 安全バーがガコンと勢いよく身体から離れ、私達は降車場の床に足を付けた。

 ふらふらの彼の手を引いて出口の階段を下った。

「楽しかったね!」

 テレビで見ていたジェットコースターが、こんなにも楽しいものだとは知らなかった。とても素敵な体験だった。

「メインも乗ったし、少し見て歩こう」

 ジェットコースターの余韻が抜けない彼は何も言わずに頷いた。

 寒さからくしゃみが飛び出した。大丈夫? と声を掛けてくれた彼に、大丈夫だよと言って鞄に手を突っ込んだ。

「ほら! 家を出る時はそんなにだったから、畳んで持ってきたの」


「……そっか」

 鞄から手を引き抜いて取り出したマフラーを首に巻いた。彼はどこか悲しそうな表情を一瞬だけ作ったような気がした。気のせいだろうと、見なかったことにしてしまった。

 幻想的に光り輝く遊園地に、退屈しなかった。星空のようなトンネルに入り、スマホを取り出した。白い息を手に吹きかける彼を見てそのまま私は画面を自分たちに向けた。

 不思議そうに見つめる彼を気にせず、私はシャッターを切る。

「颯君、何も考えてなさそうな顔してるよ」

 唐突に撮った写真の彼は何とも言えない表情だ。何も言わずに撮ってしまったのは申し訳ないと思うけれど、写真を撮ろう、と言う方が私には恥ずかしかった。

 画面を覗き込んで確認する彼は、自分のよくわからない姿を見て笑っていた。

「確かに、何考えてるのかわからない顔してるね」

 一呼吸おいて、再び光のトンネルを歩き出す。辺りにはカップルしかいない。私達も、そういった関係で来られていたらなと不覚にも思ってしまった。

 長いトンネルを抜けると、アトラクションの方から叫び声が聞こえた。どこもかしこも人が多く、アトラクションを乗るにも、かなりの時間を要しそうだ。


「翠さん、ごめん。こんなに混んでるなんて思わなくて……アトラクション全然乗れてない……」

 突然謝る彼に、私は理解ができなかった。

「どうしてそんなことで謝るの?」

「楽しみ切れてないかなって……」

 そんなことかと、私は失笑して励ました。

「こんなに沢山の人がいるってことは、それだけ魅力的な場所なんだよ? そこを選ぶなんて颯君、センス良いよ。それにゆっくり歩く方が、私達らしいと思うな」

 ありがとうと一言だけ言い、納得してくれたようだった。私達はそのまま隣り合わせで歩き続けた。

 園内を一通り回ると、彼の身体が空腹を知らせた。

「そういえば夜ご飯がまだだったね」

 赤面する照れくさそうな表情が愛おしく、微笑してしまった。

 混み合っていそうなレストランへ向かい夜ご飯とする事にした。レストランに到着すると、案の定すごい人混みで、席を探すのでも一苦労だった。


「ごめん、やっぱり混んでる……」

「颯君、自分が悪いわけじゃないのにすぐ謝るね」

 誰かを悪者にしないと気が済まないような人に感じた。けれどそれはいつも自分で、彼なりの人の好さでもあった。

「なんか、予定通り行かないのが自分のせいって感じがしちゃって」

 騒めくレストランの中で私は笑いかける顔を傾けた。

「仕方ないよ、みんなお腹空くもん。席探してみよ?」

 二人で席を探して建物を徘徊した。運のいいことに、ちょうど席から立ち上がったカップルがいた。私達はすぐに席へ腰を下ろした。

「めっちゃラッキーだったね」

 席で一息つき、鞄の中から財布を取り出した。

「お昼ご飯持ってきてもらっちゃったし、今度は私が買ってくるよ」

「ううん、結構並んでそうだし僕が行ってくるよ」

 鞄を置いてそのまま行こうとしてしまう彼に、腕を掴んで引き留めた。彼も私も互いに譲らず、仕方なく折れるしかなかった。


「じゃあ申し訳ないからこれで買ってきて! お昼ご飯代も返し忘れてたし!」

 彼の薄茶色のダッフルコートに千円札を2枚入れ、お金の入るポケットをポンポンと叩いた。困り顔の彼に返金不可と意思を伝えると、ようやくレジへ向かってくれた。

 彼を待つ間、私は写真フォルダから、撮りたての写真を見つめていた。今日という日が、記念として残ってしまうことが心苦しかった。それでも、彼と過ごした日々が本物だったことを、私の人生に仕舞っておきたかったのだ。

「うわ美味しそう! ありがとう! お金足りた?」

「うん、むしろお釣り来たから返すね。」

 彼は小銭を渡してくれたが、きっと足りなかったのだろうとすぐに分かった。手の平で広げた小銭の中には、5円玉が二枚もあったのだ。彼の優しさに、私は問い詰めることはしなかった。

 ハヤシライスのルーの池に、オムライスの島が乗っているような夜ご飯を食べ、merry Xmasと印字されたピンの刺さるチーズケーキで空腹が満たされた。

「ちょっとお腹いっぱい」

 食べきれるか不安だった一方、意外にも胃袋に入ってしまうものだった。

 お腹を摩りながら言うと、僕もいっぱいと答えた。

 スマホで時間を確認すると、21時になろうとしていた。


「そろそろ帰ろうか」

「……そうだね」

 もう時間が来てしまったようだ。私はマフラーを首に巻き、曇った表情をその中に沈めた。レストランから抜け、出口のゲートへと向かう。自然と足取りが重くなっていた。もう少し一緒にいたい、そう言えたら、どんなに心が軽くなるだろうか。考えているだけで、言葉は出なかった。

「あ、ちょっとトイレに行ってくる」

「うん、待ってるね」

 一人になり、振り返ると園内を一望できた。

「そうか、入るときに坂を下ったんだ……」

 キラキラとした人工的な光に、世界が輝いて見えた。私の横を過ぎるカップルが楽しそうに出口へと向かっていく。私は、とても孤独だった。私の人生は誰よりも残酷で、彼がいないと光を持てない、新月だったのだなと感じた。

 遠くを眺める私の横に、彼が戻ってきたのがわかった。何も言わない彼に、私はもう一度スマホを片手に、その綺麗な横顔を画面に残した。


「良い横顔してたよ」

 からかうように笑うと、馬鹿にすんなと言われ、笑いあった。

「行こうか」

「うん」

 心残りで感情がおかしくなりそうだった。あと数時間、いや、1時間もないだろう。彼の横を歩けている現実が終わってしまう。私にはもうイルミネーションなどそんなものはどうでも良かった。

 駅方面に向かうゴンドラは意外にも空いていて、ゴンドラ1台に二人だけで乗ることができた。発車してすぐ、園内のイルミネーションが再び姿を現す。

 妬ましいほどに美しい夜景だった。

「観覧車じゃなくても、上から見られたね」

 真横から見ていた景色は、場所を変えるとこんなにも綺麗なのだと、少し考えればわかるものを、私は初めて知ったのだ。ジェットコースターのレールの横を通り、ゴンドラはそのまま駅方面へ向かった。

 二人きりの空間、今更になって会話は無くなってしまった。山の陰に遊園地が隠れ、代わりに街明かりが姿を現した。イルミネーションがちらほらと遠くに見えるけれど、あまり綺麗とは言い難い。


「今日もありがとう」

 唐突に私から出た言葉はそれだけだった。遠くを見つめる彼の顔は暗くてよく見えない。

 一息置いて、彼も言葉を使った。

「僕も楽しかった。翠さんと来られてよかった。ありがとう」

 ミドリさん、彼と出会ってからそう呼ばれ続けた。決して“スイ”と呼んでくれる日は来なかった。それでも私の中で笑う彼は、とても素敵な人なのだ。

 また一呼吸おいて、彼がゆっくりと話す。

「来年も……一緒に来られたら……いいな……」

 意外な一言が、たまらなく嬉しかった。目頭が少し熱い。明かりのないゴンドラの中だったのが救いだった。

 もちろんまた一緒に行こう、本当だったらそう言えたのだろう。私は守ることができない約束を結ぶことはしなかった。

「うん……そうだね」

 それ以上には何も言わず、笑顔を振りまいた。

 ゴンドラが到着した。彼の手に触れて、降車場に足を付け、駅へ向かう。


 街並みはすっかりクリスマスカラーで染められていることに、帰り道になって気がづいた。街灯には金色の電球が括り付けられ、駅前にはキラキラと輝くツリーが主役のように存在感を増している。

 駅のホームに電車が冷たい風を運んで滑り込む。思わずマフラーに頬を埋めた。扉が開き、思い出を捨てる気持で電車へ乗り込んだ。

 数駅で家の最寄り駅へと到着し、見慣れたホームへ体を降ろす。あっという間に到着してしまった。もう時間がない。心の中では半ば諦めがついていた。

 改札を抜けて、私は彼に尋ねた。

「カフェで会ってから、色んな話したり、色んなところ行ったけど、どこが一番印象的だった?」

 彼は腕を組んで悩んだ末、つまらない答えだけど全部だよ、とそう言ってくれた。

「全部は言いすぎだし欲張りだな」

 そう言って笑う私は同じ質問を返された。

 私は頭の中で春過ぎから夏、秋、今日と日々を振り返る。

「確かに全部かも」

 二人で顔を合わせ、プッと吹き出して笑いだす。


 アパート前まで送ってくれるようで、隣り合わせで道に広がるように歩いた。私の歩幅はいつもより小さく、鎖を付けているかのように重かった。

 二人の出会いから、現在までの思い出を二人で話しては笑った。緩やかな坂の先には家が見え始めている。

「もう今年も終わっちゃうね」

「そうだね、今年1年……半年くらいか。僕自身、自分でもわかるくらい変わった気がする」

「例えば?」

 うす暗い空に目を向けて彼は考え込んだ。

「変わ……ったよ何かが」

 私にしかわからない面白さに、大袈裟なほどに笑ってしまう。彼も釣られて笑っていた。

 静かな大通りで、二人の笑い声だけが道沿いの建物に反響していた。どこからか、クリスマスらしい、お肉の焼かれた、とても暖かく、食欲をそそるような香りが漏れていた。

「クリスマスの匂いがする」

「ね、すごくいい匂い」


「あ、そうだ、忘れそうだった」

 足を止めた彼はカバンのチャックを開けて可愛くリボンが結ばれたビニールの袋を私に手渡した。

「これは……?」

「遅くなってごめん。翠さん、いつもはしてないから必要かなと思ったんだけど……」

 袋から現れたのは白と赤のチェック柄のマフラーだった。もう駄目だ、泣いてしまいそうだった。何も言わない私に動揺した彼がまた口を開く。

「いつもマフラーしてるところ見たことなかったから……」

 溢れそうな涙をぐっと堪え、袋からはみ出るマフラーを胸に強く抱きしめた。

「ありがとう……嬉しい」

 ここ数年で、心から笑えた瞬間だった。

 道路を走り抜ける車のヘッドライトが私達をゆっくりと照らしては一瞬で通り過ぎた。

「来年以降にでも使ってよ」

 どこか間違えたような彼の言葉に、私は巻いていたマフラーを外して、渡されたものを首に巻き直した。

「うーん、私にはこっちの方がいいかも。だからこれはもういらないかな」

 踵を上げて彼の首筋に手を伸ばした。


「どう? あったかい?」

 彼の返事を待つ前に、私は鞄を開けてリボンのついた袋を取り出し、彼に突き出した。

「じゃあこれ、お返し。開けてみて」

 きっとこれから彼に必要だろうと思っていたものだ。渡すタイミングが無く、彼からマフラーを貰わなかったらきっと捨てていただろう。

「いつも寒そうにポケットに手を突っ込んでたから……転ぶと危ないでしょ?」

 彼は中から取り出した白い毛糸の手袋を見て、ポツリと呟いた。

「ありがとう……」

 そして袋だけ鞄に仕舞い、それを身に付けて手の平を見つめた。

「急に身体中があったかい」

 微笑する彼に、私はよかったとだけ言ってマフラーに口元を沈めた。

 再び坂道を歩き始めると、あと数十メートルで家に着いてしまう現実が私に迫る。ゆっくりと歩く私にペースを合わせてくれた。

「いいの? これ貰っちゃって」

 彼は首に巻いたマフラーを摘まんで訊いた。


「うん、貰ってほしい」

 赤と黒のチェックのマフラーが彼の顎を隠す。

「大切にするね」

 私は前を向きながらそう伝えた。

「うん、僕も大切にする。二つも貰っちゃったし」

 白い息が終わりの時間を知らせているようだ。

「……今日は空が遠いね」

「……本当だ。また夏になれば、もっと綺麗に見られるんだろうな」

「うん。夏が来るたびにきっと、颯君のこと思い出しては笑っちゃうと思う」

「バカにしてる……?」

「うーん、ちょっとだけ?」

 はぁー、と息を漏らす彼に笑い声を零してしまい、またも彼は釣られて笑っていた。もう家の前まであと数歩だ。胸の中で鐘のようなものが鳴った気がした。きっともう私の願いは叶わないのだろうと、告知されたようだ。

 アパートの前に到着した。私は、アパートを見たまま呆然と立ち尽くしてしまう。もう話してしまおうか。私達はもう既に知り合っていたんだよと。胸の中の私が葛藤し、目まぐるしく回る。

「今日も楽しかったよ、ありがとう」

 悩んだ末に、綺麗に終わらせようと決め、彼の目を真っ直ぐと見つめて笑顔を作った。


「僕も楽しかった。また連絡するね」

「うん」

 もう返すことは無いメッセージを彼に待たせると考えると、ちくりと心が痛んだ。

「マフラーありがとう、じゃあね」

 手の平を振って別れを告げると、こちらこそありがとう、またねと返された。その言葉を聞いて私は背中を見せた。


 視界から彼が消えた瞬間に私の熱くなる目頭は制御を失った。啜る鼻の音だけが辺りに響く。零れる涙がせっかくの新しいマフラーに染みてしまう。

 止めなければ、溢れる涙を止めなければと思うほどにマフラーは濡れてしまう。私はぼやける視野のまま玄関の鍵を開け、中へ入った。

 扉の閉まる音が膝を崩した。私にはどうしようもできなかったのだ。これで彼とは関係が終わってしまった。受け入れられない現実を前に、私はただ、泣くことしかできなかったのだ。


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