そして、また別の親心。
「なるほど、そんなことがあったのね……」
『夜狐』の元一味を罠にかけてから、数日後。
再び件のカフェにてお茶をしていたフランツィスカが、そう言いながら神妙な顔で幾度か頷いていた。
ゴタゴタが片付いたから改めて、とメルツェデスが誘って実現したお茶会のやり直し。
誘われた時点でフランツィスカとエレーナに断るという選択肢はなく、やり直しである以上クララ不在で実行するわけにはいかない。
ということで、前回と同じメンバーでカフェのテラスに陣取っていた。
「それで、いつも通りに戻った結果がこの味、というわけね。
この前も中々の味だったけれど、確かに今日のは更に一味違うわ」
納得した顔を見せながら、エレーナはクッキーを一つ口へと運ぶ。
サクリとした軽い歯ごたえがしたと思えば、さらりと溶けていくような感触。
一瞬だけ舌に纏わり付くほのかな甘さは、バターのコクに支えられてしっかりと口内を満たし、しかし、僅かに後を引きながらもしつこくは残らない。
そこに少し濃いめの紅茶を口にすれば、味は流されていくのに交わりあった香りは鼻腔へと残り香を運ぶ。
紅茶のお供として計算し尽くされた味わいに、公爵令嬢であるエレーナも思わず感心してしまうほど。
クララもまたその味わいの変化を感じ取り、堪能している。
「お話を伺うに、特にバターの質が良くなかったのかも知れないですね……。
少し気になった匂いが全く無い、むしろ心地良い物になってますし。
……逆に言えば、仕方なかったとはいえ、不本意な物を提供せざるを得なかったわけですよね、あの時は。
それでもあのお味だったとは……本当に、参考になります」
「それが、こうしてちゃんと本来の味わいを発揮できるようになったことは歓迎すべきことなんでしょうけど、ねぇ……」
感心したように何度も頷きながら、なんならメモも取りながらのクララに、フランツィスカが苦笑しながら答える。
相変わらずの退屈しのぎによるものだとも思えば、フランツィスカの歯切れが悪くなるのも仕方ないだろう。
先日同行したとはいえ、そしてその腕を実際に目にしているとはいえ、やはり荒事に絡んでいることには心配もしてしまう。
当の本人が日常茶飯事ですと言わんばかりの顔をしているから、なおのこと。それがまた歯がゆくもあり、だからこそと思うところもあり。
複雑なフランツィスカの心境をよそに、張本人は飄々としたものである。
「わたくしのしたことなんて大したことではないわ?
店長さんの情熱と、何よりカーシャさんの立ち回りがなければこうはいかなかったもの」
そんなメルツェデスの言葉に、クララはびっくりしたように目を見開き、瞬きを数度。
慣れている親友二人は、あるいは困ったような顔で苦笑し、あるいは眉を寄せる。
味の僅かな違いから異変に気付いた。
店先で騒いでいるのを追い払った。
違和感からブランドル一家を使って情報を集めた。
その情報を元に罠を張って誘い込み、一網打尽と連中を捕まえてしまった。
これらが、彼女にとっては大したことではないらしい。
では、一体彼女が大事と思うこととはどんなものなのか。
想像も付かない、と二人が頭を抱えたところで、横合いから声が掛かった。
「いやいや、あたしのしたことなんざ大したことはありませんよ。
ほとんど大体は、プレヴァルゴ様のおかげです。……いやまあ、ノイさんのおかげも、一応?」
そう言いながら、注文の品を運んできたのは、カーシャだった。
あの後、結局カーシャは『自分には過ぎた金額だから』と隠し金はそのままにして、以前と同じくこの店で働いている。
普段であればもう少し丁寧な言葉遣いをしている彼女だが、メルツェデスに言われて普段通りの言葉遣いをしての接客にクララは肩の力が抜け、フランツィスカとエレーナも特に気にした様子はない。
ただ、彼女が口にした人物の名前には、引っかかりを覚えたのだが。
「あの。……ノイさんというのは、例の……商家の放蕩息子ノイエを自称する男性のことよね?」
「ええ、仰る通りです。……週に一度二度とお越しになられる上に『ノイさん』呼びを求めてこられるので、仕方なくというかなんというか。
……やはり、プレヴァルゴ様も、皆様も、ご存じの方なんですよね?」
「そうね、ここにいる全員がお会いしたことがあるお方だわ」
カーシャの問いかけに答えたメルツェデスは、いや、フランツィスカもエレーナも、同じように額に手を当てた。
三人の顔に浮かぶのは一様に、『何をやっているんだあの第一王子は……』である。
来年度の卒業をもって王太子へと正式に任じられる予定である第一王子の、最後の自由といえばそうなのだろう。
だが。
「なるほど、皆様方とお知り合いなくらいのお方、と。
……そんなお方に毎度毎度引っ張ってこられるジムが可哀想になりますね……」
「そうなのよねぇ、すっかり気に入られてしまったみたいで……確かに信頼のおける人ではあるのだけれど」
ノイさんことエドゥアルドがお忍びで来る度にジムがとっ捕まっていること自体はメルツェデスも把握していた。
確かにジムは見た目の圧が強いため、王都であちこち歩く際に連れて行けば、大体安全に過ごすことができるだろう。
また、気弱なところはあるが、目配りに油断はないので彼の隙を突ける人間はそうはおらず、絡まれても見た目通りかそれ以上の腕っ節を発揮するため、向いているのも事実だ。
ただ、本人の意思を考慮しなければ、だが。
「あの、カーシャさん。そのノイさんが迷惑を掛けていたら遠慮無く言ってくださいましね? 一言物申すくらいはできますから」
そう言いながらメルツェデスは、すい、と人差し指を己の額へと向けた。
前髪に隠れた奥にある、『天下御免』の向こう傷。
それを行使すれば、諫言の一つや二つどうということはない。
だが、そんなメルツェデスの気遣いを、カーシャはゆるりと首を振って否定する。
「いえいえ、とんでもない。確かにあたしは気を遣いますが、事情を知らない他の店員やお客様は気にしてもないですし。
むしろ、『ここは僕の奢りだ』とか言って気前よく大盤振る舞いしてくれるんで、売り上げ的にはありがたいくらいでして」
「ほんとに何やってるのかしら、あの方は……」
ついに胸の内にしまっておけなくなったか、メルツェデスは口に出してぼやいてしまった。
だが、フランツィスカもエレーナも、咎めることなどできない。彼女達もまた、同じ事を思ったのだから。
一人クララだけがクスクスと笑っているのは、まだ比較的政治の世界から離れているからだろうか。
そんな彼女が少しばかり羨ましく思いながら、メルツェデスはクララへと声を掛ける。
「そう言えばクララさん。先程熱心にメモを取ってましたけれど、あれは一体?」
「えっ、あ、えっと、それは、ですね……」
唐突な問いかけに、クララは言葉に窮して。
それから、チラリチラリ、カーシャへと視線を向ける。
視線に心当たりがないらしいカーシャは怪訝な顔で首を傾げ、微妙な沈黙が落ちること数秒。
意を決したようにクララが口を開いた。
「その、こちらのクッキーですとかスコーンですとかのお味の特徴とか、気付いた点をメモしてまして……自分で作る時に、参考にできないかな、と」
消え入りそうな声でクララが言えば、メルツェデスは納得したように頷き、フランツィスカとエレーナは驚いたように目を僅かばかり見開いた。
生粋の貴族令嬢である彼女達からすれば、自分でクッキーなどを作る、という発想がそもそもない。
まあ、メルツェデスはメルツェデスで、料理はするが基本的に行軍訓練中などに作る野外でもできるような料理が主。
お菓子作りなど女子力の高いものは、先日のヘルミーナを懐柔するためのアイスやシャーベットくらいのものだ。
「そう、クララさんはご自分で料理をなさるのね」
「はい、その、こう言ってはなんですが、私は元々平民ですし、それくらいはできませんと……」
「それはわかるのだけど……『貴族になったから、もうそんなことはしませんわ!』なんて態度にならないのだな、と思いまして」
と、言葉通り感心したようにメルツェデスが、そして同意するようにフランツィスカがうんうんと頷く。
ちなみに、何故かエレーナは若干ドヤ顔である。
そんな三者三様の反応を受けて、クララは少し俯きながら頬を染めた。
「お恥ずかしながら、私はまだまだ、貴族だなんて言えるような振る舞いも勉強もできていませんし……浮かれているような暇もないと、エレーナ様や皆様を見ていると思ってしまいますので」
「まって、そこでいきなり私を引っ張りださないでくれる!? わ、私は別に、普通のことをしてるだけだから!」
「エレーナ様の普通は、割と一般的なご令嬢の普通ではないと思うのですけれど……」
巻き込まれたエレーナが顔を赤くして抗議するも、クララはきょとんとした顔で返す。
その表情には、含むところなど全く無い。
万が一メルツェデスやフランツィスカ、エレーナの目を欺いて演技ができているのだとしたら大したものだが、恐らくそれは考えられないだろう。
となると、本当に率直に、彼女はエレーナを褒めている。
それが理解できるからこそ、エレーナは真っ赤になっているのだが。
「ふふ、エレーナが努力家なのは私達もよく知っているのだけれど、ね。
ところでクララさん、いずれ作った時には私達にもいただけるのかしら?」
照れが限界を超えてしまったか言葉が出なくなったエレーナの助け船とばかりにメルツェデスが割って入れば、クララはこくりと頷いて見せる。
だが次の瞬間、何かに気付いたような表情になると、顔を少しばかり下へと向けた。
「もちろん、よろしければ皆様にも召し上がっていただきたいのですが……その、一番に食べていただきたい方が他にいらっしゃいまして……。
その方の後でよろしければ、なのですが……」
「ちょっと待ってクララ!? い、一体いつの間にそんな方ができたの!?」
まさかの返答に、食ってかかったのはエレーナである。
学園内ではほとんどいつも一緒にいて、彼女の交友関係などもほとんど把握しているという自負があっただけに、自分が知らなかったことに衝撃を受けていた。
だが、そんなエレーナへとクララは微笑んで見せて。
「いつの間に、と言いますか……実は、ですね」
と、彼女が語り出したのを聞いて。
エレーナを始めその場にいた全員が、なるほど、と納得した顔になった。
それから数日後のこと。
ジタサリャス男爵は、いつものように夜遅く帰宅した。
王都警備の区画責任者ともなれば、自身でも見回りをしつつ、それが終われば部下からの報告を受け、纏めて上へと上げて、といった業務に追われることとなり、時間はいくらあっても足りるものではない。
生来の真面目な性格に加えて、彼自身もその業務に誇りを持っていることもあり、そのことに不満はない。むしろ充実感を感じているくらいだ。
強いて言うならば、非番の日以外は妻とすら会話がろくに出来ないことに問題を感じてはいるが、彼女も騎士の妻とはそういうものと理解はしてくれている、はず。
少なくとも、何とか捻出した二人の時間において不満を言われたことは、まだない。
まだ、ということもわかってはいるのだが、いかんともしがたい。
誰も居ない自室に入って気が抜けたか、そんな気持ちを込めた溜息を一つ吐き出す。
上着を脱いでハンガーに掛け、襟元を緩めたその時に、コンコンとドアがノックされた。
「お帰り早々に申し訳ございません、旦那様」
「いや、構わん。どうした?」
扉の向こうから聞こえるのは、男爵より少しばかり年上である執事の声。
こんな時間に彼が声を掛けてくるのは珍しく、それだけに、何か重大な用件なのかと男爵は緩み掛けた気を引き締める。
家格の低い男爵家、それも成り上がり、ではあるが、武功もあってそれなりに収入を獲得しているジタサリャス家では、使用人もそれなりに雇用できている。
今声を掛けてきたのも、唯一ではあるが専属の執事。
ギルキャンス公爵からの斡旋で雇い入れただけあって随所に有能さを見せる彼が、わざわざこんな時間に声を掛けてくるとは。
何があったのかと頭の中で立てた様々な仮定は、しかし許しを受けて入室してきた執事の告げた言葉に全くかすりもしなかった。
「はい、実はクララお嬢様が、旦那様にお会いしたいと夕方からお待ちでして」
「何、クララが? 一体どうして……それも、こんな時間まで起きていたというのか」
まだ、日付が変わるような時間ではない。
それでも、あまり手軽な照明もないこの世界ではとっくに寝ていてもおかしくない時間。
そんな時間まで起きているとは、一体何事だろうか。学園で何かあったのか?
脳裏でそこまで考えた男爵は、執事へと一つ頷いて見せる。
「わかった、連れてきてくれ」
「かしこまりました、では一旦失礼いたします」
男爵の言葉に恭しく頭を下げた執事は、淀みない動きで退出した。
それを見届けた男爵は、手近にあった椅子へと腰を下ろす。
貴族派の策略の一環として学園に送り込んだクララが、こんな時間に告げたいこと。
良きにつけ悪しきにつけ、聞かねばならないことだろう。
ことによってはギルキャンス公爵にご注進せねばならないかも知れない。
明日の午前中の予定はどうだったか、と頭の中で確認していたところで、再度ドアがノックされる。
「夜分に申し訳ございません、クララです」
「ああ、大丈夫だ、入りなさい」
「はい、失礼いたします」
許可を得て入ってきたクララは、男爵が帰ってくるまで寝ないつもりだったのだろうか、夜着ではなくいつも普段着として着ているシンプルなワンピース姿だった。
これは相当に重要な用件なのだろうか、と男爵は椅子に座り直す。
「それで、こんな時間に一体どうしたんだね」
「はい、その、えっと……」
男爵の問いかけに、しかし普段はハキハキとした受け答えをする彼女が、口籠もる。
視線も微妙にあちらこちらへと彷徨い、どうにも要領を得ない。
これはもう一言促した方がいいか? と考え始めたところで、ようやっとクララが口を開いた。
「あの、夜遅くまで、お仕事お疲れ様です」
「何? い、いや、これが私の仕事だからな。しかし、ありがとう」
突然投げかけられた労いの言葉に面食らい、戸惑いながらも返事を返す。
冷静に考えれば別段変でもない、当たり前の会話。
だが、養子に迎え入れた経緯が経緯だ、こんな会話をしたことは、今まで一度もなかった。
何故今更、と思っていたところへ、クララが更に言葉を投げかけてくる。
「疲れている時には、甘い物が良いと聞いたことがありまして……その、よろしければこちらを、と」
そう言いながらクララが差し出したのは、布で包まれた何か。
反射的に受け取れば、ほのかに甘い香りがした。
「……これは?」
「その、クッキーです。今日、お台所をお借りして、作らせていただきました。
あっ、材料はいただいているお小遣いで購入しましたし、味見もしています!」
「いや、そこは気にしなくて良いのだが……まあ、気にする気持ちもわからんではないが」
女中兼料理人も居て、普段の食事は彼女に任せきりなだけに、勝手なことをしたのではとクララが危惧する気持ちもわかる。
少々過敏な気もするが、彼女の立場を考えれば致し方あるまい。
それらを含めて、なるほど、と頷いて見せれば、クララも少しばかりほっとした顔になった。
「すみません、ありがとうございます。
……味見して、自分なりに上出来ではないかな、とは思います。
男爵様……いえ、お義父様のお口に合えばいいのですが……。
一応、奥様……お義母様にも食べていただいて、大丈夫だとはおっしゃっていただいたのですが」
「……そうか」
四苦八苦しながら、色々と考えながら。
言葉を重ねてくるクララを、目を細めて眺める。
……妻が先に食べたことに、少しばかり複雑なものを感じながら。
「私は蒸留酒をよく飲むのだが、甘い物がアテとして合うものも少なくない。ありがたくいただくよ」
「そ、そうなのですね、良かった……」
心の底からほっとしている様子に、思わず頬が緩む。
社交界においてこんな無防備な表情を見せては問題だが、まあ、家庭内であれば問題はないだろう。
男爵は、そう自分へと言い聞かせる。
「ただ、もうこんな時間だ、君を晩酌に付き合わせるわけにはいかないし、もう部屋に戻りなさい」
「はい、申し訳ありませんが、そうさせていただきます。
……おやすみなさいませ、お義父様」
促され、クララは素直に従って頭を下げる。
それに軽く手を振って返せば、微笑みながらもう一度会釈をして、クララは扉の向こうへと消えた。
「……何とも、お優しいですな」
「……正直、驚いた。流石聖女候補と言っておこう」
残った執事と男爵は、そんな言葉を交わして。
「お前も、今日はもう休んでいいぞ」
「かしこまりました。それでは旦那様、よい夜を」
少しばかり緩んだ笑みを見せた執事へと、しっし、と手を振って追いやる。
流麗な仕草を見せながら彼も退出した後、ふぅ、と大きく息を吐き出して。
完全に執事が遠ざかった頃合いに、クッキーの包みをテーブルに置いて椅子から立ち上がる。
自室に備えていた戸棚からグラスと蒸留酒の瓶を手にし、また座って。
蓋を開けてグラスに注げば、トクトクトク……という聞き慣れたはずの音が、やけに大きく聞こえた。
包みを開けて、クッキーを一口。
口に入れた瞬間から香るバターの香りが、咀嚼した途端に程よい甘さを伴って口内一杯に、鼻腔まで埋め尽くすほどに広がっていく。
そこに蒸留酒を放り込めば、燻したような香りが合わさって今まで経験したことのないような濃厚さが舌を包み込み、しかし強いアルコールがそれをいつの間にか拭い去ってくれた。
旨い。
まるで、彼が常飲するこの酒に合わせたかのような味わい。
直接この蒸留酒を口にしたことはないだろうに、ここまで合わせてくるとは、どれ程の試行錯誤があったのだろうか。
男爵は背もたれに背中を預け、顔を右手で覆いながら天井を仰いだ。
咀嚼する微かな音と、何かくぐもったような声。
執事が言ったように、男爵にとって今夜は、良い夜だった。
翌日。
普段感情を乱すことのないジタサリャス男爵が、泣き腫らしたかのように目を真っ赤にして職場に現れ、何事かと一部で静かに騒ぎとなったとか……。




