ジムの災難。
「いえいえ、そんなことはないですよ、お兄さん。おかげで助かりました」
そう言うとカーシャは背筋を伸ばし、スカートの裾を払って簡単に身繕いすると、恭しく頭を下げた。
頭の下げ方は45度、最敬礼と言われるその姿勢を、淀みなく、背筋に歪み無くやってみせる。
それを見て青年は、楽しげに目を細めた。
あんなドタバタの後だというのに、こうも安定した礼を見せるその性根。
何よりも、未だ動揺は治まっていないだろうにも拘わらず、彼女は青年の身分をいつの間にか見抜いている。
肝の据わり方、目端の利き方、いずれもカーシャの有能さを示していた。
「そう、迷惑でなかったのなら良かった。……ところで、今の彼は、一体? 何か困り事なら話を聞くよ?」
そんな彼女が気に入ったのか、青年は人懐っこい表情で問いかけるが、それに対してカーシャはゆるりと首を振る。
「そういう訳にはいきませんって。お兄さんみたいな方のお手を煩わせるわけにはいかないし、なんならお耳に入れるのも大事だ」
おどけるように言うカーシャの顔は笑っているが、その目にはあからさまな警戒の色があった。
青年に気付かれないように、ではなく、恐らく青年ならば気付くと思ってであろうそれ。
幸か不幸か、青年はその意図に気付くだけの賢明さを持ち合わせていた。
「いやいや、そんな大した身分じゃないつもりなんだけどね?」
「そりゃ、ご自身にとってはそうなんでしょうけれどね。これでも、子爵様もご利用いただく店で働いてんです、多少は目も肥えてますよ」
謙遜か天然か、何でも無いことのように言う青年に、カーシャは首を振って返す。
それから改めて青年の服装を、佇まいを、その顔を。何よりも雰囲気をしばし観察して。
「頑張って変装してるし、実際かなり熟れてもいる。着てるものもまあ、ちょいと良いとこの人が着る程度のもんだし、馴染んでも居る。
けど、申し訳ないですけどね、あたしにゃわかっちまうんですよ、相当に上の身分の方だって。
髪に使ってるのは相当気付きにくい上等な染め粉、眼鏡は目の色を変える魔道具と見ました。
てことは少なくとも伯爵家より上、公爵家の方だって言われても驚きません」
まさに慇懃無礼、口調こそ平民として最低限の礼儀を守ってはいるが、言っていることは随分と踏み込んだこと。
言わば相手の意図を暴くような真似を、不興を買いかねないことを、そうとわかってカーシャは口にする。
恐らくこの青年は、そんな真似を咎めない。むしろ面白がるだろうと踏んで、危ない橋を渡る。
「そんなお方を、こんな身内の話、それも恥って言ってもいい話に巻き込めませんって」
ひらり、手を振って見せたのは、これでおしまいというつもりか、お別れの挨拶のつもりか。
あからさまな拒絶の仕草に、しかし青年は実に楽しげだ。
「そこまできっぱりと言うってことは、まるで伯爵家以上の人も見たことがあるみたいだね? 例えば、ご令嬢とか?」
いきなり図星を突かれ、カーシャは口籠もる。
言い逃れすることも考えたが、下手な誤魔化しは通じないだろうことは、直感的にもわかった。
であれば、どうすべきか。
「お兄さんも聞いたかも知れませんが、こないだプレヴァルゴ家のお嬢様がお忍びでいらっしゃいましてね。
まあ、何度か来ていただいてたんで、多分そうだろうなとわかっちゃいたんですが」
「なるほど、それで伯爵家の、それも上位にいる人間の所作は見慣れていた、と」
「そういうことです。これ以上はお客様のご迷惑になりますから、話したくないんですがね」
数日前、『夜狐』の元メンバーが店先で騒ぎを起こした際、居合わせたメルツェデスが場を収めてくれた。
この程度であれば多少は知れ渡っているし、この青年であれば知っていてもおかしくはない。
そう見当を付けての発言は、どうやら当たりだったらしい。
「僕も噂では聞いていたけど、やっぱりほんとだったんだねぇ。
ちなみに、僕が彼女達の知り合いだって言っても、だめ?」
「……はて、あたしはプレヴァルゴのお嬢様としか言っていませんが?」
メルツェデスが来た以上一人ではないはず、と踏んでの発言に、しかしカーシャは引っかからない。
とぼけて見せるその姿勢に、青年の笑みが深まる。
「ははっ、あの店の店員さんなだけはあるね、躾が行き届いているだけでなく、頭も回るらしい」
「そいつは、お褒めいただいたと思っていいんですかね?」
「もちろん、手放しで褒めてるつもりだったんだけど」
快活に笑ってみせる青年に対して、カーシャは未だ態度を崩さない。
どこまで知っているのか、どこまでわかっているのか。とにかく、この青年の底が知れないし、腹づもりはなおのこと。
敢えて警戒心を隠していない様子に、青年は肩を竦めた。
「わかった、貴族っぽい僕には話しにくい、と」
「そりゃそうでしょう、ご面倒をおかけするだなんてとんでもない」
どうやら諦めてくれたらしい、とカーシャは少しばかり肩の力を抜いて頷いて見せた。
が、それが間違いだったと、その直後に気付かされるのだが。
「じゃあ、貴族じゃない平民、それも割とアウトローな人にだったら問題ないよね?」
「は? え、いや、そう……いや、それは違うような??」
思わぬ言葉にカーシャがまごつけば、そこを見逃すような青年ではない。
すい、と視線を横に流して、ぴしっと曲がり角の向こうを指さす。
「そこの君、さっきから話を聞いてたんでしょ? そろそろ出てきなよ」
突然の呼びかけに、全く気付いていなかったカーシャが驚愕の顔を見せる。
そして、それ以上に驚いたのであろう名指しされた相手は、それまで見事に消していた気配を滲ませてしまった。
そのことに、当の本人が気付いたのだろう。
数秒ほど迷った後、ゆっくりとその姿を現した。
「へぇ、お察しの通り、見てはおりやしたが……」
青年よりも一回り以上は大きな身体、威圧感のあるスキンヘッド。
だというのにその表情はどこか自信なさげで、狼狽えていることが丸わかりだ。
更に膝を曲げ腰を屈めて、両手を膝について頭を下げてと、青年に逆らう気が無いことを全身で示している。
そのことをわざわざ指摘することもなく、青年はにっこりと、人好きのする、それでいて逆らえない笑みを見せた。
「うん、やっぱり。君、多分メルツェデス嬢の指示でここにいるでしょ」
「へ!? いやその……一体どこまでご存じなんで……?」
「どこまで、だろうねぇ。とりあえず、君がメルツェデス嬢と懇意にしてるブランドル一家の人だってことくらいはわかってる、かな」
「そ、そんなことまでご存じでらっしゃる!?」
思わぬ言葉に、男は思わず声を上げてしまう。
確かにブランドル一家との付き合いをメルツェデスは特段隠してもいないが、吹聴もしていない。
であれば、普通の貴族がその関係を知っていることはそうそうないだろうに、この青年は知っている。
いや、知っていてもおかしくはない存在ではあるのだが。
「ということで、色々お願いしたいことがあるんだけど……とりあえず名前を聞いてもいいかな?」
「へ、へぇ……あっしはブランドル一家の下っ端で、ジムと申しやす」
「ジムだね、よろしく。……ふぅん、僕の名前は聞かないんだ?」
「へ!? め、滅相もない、お名前を伺うだなんて! そもそも直接お言葉をいただくだけでも恐れ多いってぇのに!」
腰を屈めすぎて、そのうち両膝を衝いてしまいかねない程に頭を下げるジムへと、青年はにっこり、笑いかけた。
「ってことは、やっぱり僕が誰だか知ってるんだね」
「ひぃっ!? も、申し訳ありやせん、それ以上はどうかご勘弁を!」
悲鳴のような声を上げながら、ジムはとうとう両膝を衝いて拝み始めてしまう。
確かにジムは彼が誰だかを知っているが、この場でそれを口にするなど、とても出来はしない。
怯えている、とすら言えるジムの様子に、青年はふむ、としばし考えて。
「よし、じゃあ今ここに居る僕は、ノイエ。とある商家の放蕩息子、ノイエだ。なんならノイさんと呼んでもいいよ?」
「呼べるわけねぇでございますよ!?」
気取らない言い方に、しかしジムは冷や汗をダラダラと流して首を横に振る。
そんな呼び方をしてしまえば、無礼打ちをされても文句が言えない相手だから無理もないが、当の本人は至って気楽な顔だ。
「てことで、お姉さん。ブランドル一家ならこの辺りの顔役だし、相談したら助けてくれるんじゃないかな?」
「そんで、その後ろに居る退屈の姫さんも、ですか? はぁ……まったく、ここまでお膳立てされちゃぁ仕方ないですねぇ」
ジムと呼ばれた男を手玉に取ったノイエと名乗るこの青年相手に、これ以上抵抗するのは難しい。
そう考えたカーシャは、苦笑しながら口を開いた。
「ってなことがありやして……」
「……何やってるんですの、あの第一王子殿下は……」
プレヴァルゴ邸の裏庭で小さくなって報告するジムを相手に、メルツェデスは大きくため息を吐く。
カーシャから話を聞いた後、メルツェデスへと報告するためにジムは取るものも取りあえずプレヴァルゴ邸に駆け込んだ。
子供の頃から時折王城を抜け出していたエドゥアルドだが、それは十七歳を迎えた今も、以前ほどではないが続いている。
当然そのことはメルツェデスも把握しており、ブランドル一家にも気をつけるように伝えていた。
そのためジムはノイエことエドゥアルドの顔を知っており、今回遭遇してしまったことを報せねばと必死に走ったのである。
「申し訳ありやせん、お嬢様。あっしはともかく、お嬢様にご迷惑がかかってしまうんじゃないかと気が気でなく」
「それは、大丈夫だとは思うのですけどね、殿下の性格なら。それに、欲しかった情報も大半手に入ったのだし。
……ただ……なんだか精神的に面倒なことになってしまいそうな気もするわね……」
申し訳なさそうに肩を縮こまらせるジムを宥めながらも、思わずメルツェデスはぼやいてしまった。




