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とっくに過ぎた話。

 メルツェデスとブランドルがそんな話をした数日後の昼過ぎ。

 場所は離れて件のカフェ近く、大通りから少し入った路地裏にて。


「いい加減にしておくれよ、今更なんだってんだい、まったく」


 清潔に洗われたメイド服に似た形の給仕服に身を包んだ二十半ばほどの女が、向き合う男へと文句を付けていた。

 言葉遣いこそ蓮っ葉だが、ピンと背筋の伸びた立ち姿は、ひとかどの訓練を受けた者のそれ。

 肩の辺りで切りそろえた黒髪は活動的で、ややつり目の意志の強そうな瞳がその印象を更に強くしている。

 

 それに対する男は三十過ぎだろうか、これもまた身綺麗な、平民の中では上等な服に身を包み、清潔感のある印象に纏めていた。

 だが、普段であれば人好きのする表情を浮かべている顔は、女を前にして気が緩んでいるのか下卑た本性を滲ませている。


「そっちにとっちゃ今更だろうが、こっちからすりゃぁ、ようやっとなんだ。

 大体お前こそ、足を洗ったつもりだってんなら、何で今もあの店で働いてんだよ?」


 ニヤニヤとした笑みを浮かべながら値踏みをするような視線を向けてくる男から、女は顔を逸らす。

 この男相手に正直なところを言っても益はない、むしろつけ込まれるだけにしか思えず考えることしばし。

 ふぅ、とため息をこぼした後に、顔をそらしたまま女は口を開いた。


「……簡単な話さ。通いなれた場所で、店の細かいところにも慣れてるから働きやすい。それだけのことだよ」

「ふぅん……どうにも、そればっかりじゃないって顔だなぁ、カーシャ。

 あれかい、俺のことが忘れられなくて待ってたってやつか」

「そんなわけないだろ、自惚れんな! 10年も前の話だってのに、いつまであたしの男面してんのさマティス!」


 下卑た色を深めた顔で伸ばしてきた手を、バシンと音がする程強く、カーシャと呼ばれた女は払う。

 思っても居なかった反応にマティスと呼ばれた男は一瞬怒りに顔を歪め、しかし、すぐにまた顔を取り繕った。


「そんなつれねぇこと言うなよ、カーシャ。知らねぇ仲じゃねぇだろ?」

「それはそうさ。でもね、もうあの頃の仲でもないんだ、終わったことなんだよ。

 だから、あんたらの手伝いはできないし、する気もない。

 大体親分が亡くなる前ならともかく、なんで何年も経ってから今更隠し金なんて堀り出そうってんだ、親分が十分に手切れ金はくれたはずだろ?」

「へへっ、そりゃまあそうなんだがなぁ。ちょいとな、遊びすぎちまってよぉ」

「……呆れた、たった10年でもう心許なくなったってのかい。働きもせずに遊び呆けてその様って、狐の懐刀も錆び付いちまったもんだねぇ」


 心底軽蔑したような顔と声で言いながらカーシャがこれ見よがしに大きなため息を吐いて見せれば、さすがに抑えきれなくなったのか、マティスの顔が大きく歪む。

 不穏な気配を察したのか弾かれたようにマティスへと顔を向けたカーシャは、さっと小さく飛んでマティスから距離を取った。

 その動きにますますマティスの顔には怒りが浮かび、それを無理矢理押さえ込んで笑顔を作ろうとしたせいで歪みが更に酷くなってしまう。

 10年前には見たこともなかったその顔は、しかし、こんな性根だろうと心のどこかで感じていたそれそのもの。

 だからか、カーシャは大して動揺もせず……ただ、危機感だけは募らせながら、マティスと対峙していた。


「なんだい、その顔。あたしが思い通りにならないからってブチギレかい?

 当たり前だろ、あたしはもう10年前の小娘じゃない。それなりに世間を渡ってんだ、肝も太くなろうってものさ」

「うるせぇ、随分生意気な口利くようになったじゃねぇか……歳食っただけで偉くなったつもりかよ」


 ギロリと音がする程にカーシャを睨み付け、やや前のめりの姿勢になるマティス。

 だが、そんなマティスを見たカーシャは、はん、と軽く鼻で笑ってみせた。


「ああ、あんたは歳食って逆に薄っぺらくなっちまったねぇ。よっぽどくだらない暮らしをしてたらしいや」

「てめぇ、生意気な口叩いてんじゃねぇぞ! 身の程ってやつを思い出させてやらぁ!!」


 揶揄うように、煽るように言うカーシャに、ついにマティスは堪えきれなくなったらしい。

 口汚く罵りながら右手を振りかぶり、カーシャへと突進、力任せに拳を振るう。

 だが、これほど肝の太さを見せたカーシャだ、流石にそんな大振りを黙って食らうようなタマではなく、さっと横に飛び退いてかわして見せた。

 とはいえ荒事そのものに慣れているわけでもないらしく、頬には一筋、冷や汗が伝っていたが。


「身の程、ね。あたしのだか、あんたのだか。ほんとに錆び付いちまってるね、見る影もないってなぁこのことだ」

「うるせぇ、うるせぇうるせぇうるせぇ!! 黙れよ、ぶっ殺すぞ!?」


 カーシャの軽口に、最早取り繕うこともできずにマティスは叫び、また拳を振り上げる。

 振るわれるそれは、あまりに乱雑で鋭さの欠片もなく、一発二発かわすくらいならばカーシャも問題はない。

 だが、殺意にも似た剥き出しの凶暴さに晒され、僅かに足も竦み、視線も狭まる。

 

 結果。

 幾度か拳をかわしたその時、カーシャの背中に、硬い壁の感触が触れた。


「なっ、まずったっ」


 皮肉にも、慌てたその瞬間に視野が戻り、自身が壁際に追い詰められたことをカーシャは認識した。

 そして残念なことに、狭量で凶暴であるが故に、マティスはカーシャを追い詰めたと知るや少しばかり余裕を取り戻した。

 途端にニヤニヤとしたゲスい笑みを見せる辺り、器も知れようというものだが。

 流石に、この追い詰められた状況ではカーシャも揶揄することはできず、表情を強ばらせている。


「ははっ、歳食って口が悪くなっても、結局こうなっちまうんだよなぁ。

 最初から大人しくしてりゃぁ、少しは優しくしてやったのに、よぉっ!」

「くぅっ!」


 どこか箍の外れたマティスの声と、振り上げられた拳にカーシャは身を竦ませる。

 避けられない、と思わず目を閉じて。


 パァン、と乾いた音がした。


 だが、予想していた痛みはいつまでも訪れず、訝しげに思って恐る恐る目を開ければ。


「いやいや、女性には少しじゃなくて目一杯優しくしなきゃだめでしょ」


 などと気取ったことを言いながら、マティスの拳を片手で受け止めている青年がいた。

 顔立ちから見るに年の頃は十八前後だが、纏う雰囲気がどこか老成していて大人びている。

 茶色の髪、眼鏡の奥に見える瞳は緑色で、この辺りでは見かけない、まるで芸術家の手によるものかと思う程に整った顔立ちに、しかしどこか揶揄するような表情が浮かぶのを見れば、彼が確かに生きた人間なのだと実感できた。

 その身体に纏っている衣服は質素な庶民風だが、目の肥えたカーシャから見れば随分と上等な物。

 それをさらりと当たり前に着こなしている立ち居振る舞い、背筋の伸びた姿勢は、よく教育を施された人間のそれだとカーシャには感じ取れた。


「な、なんだてめぇ! どっから出てきやがった!? いや、そもそもてめぇは関係ねぇ、すっこんでろ!」


 存在に全く気付いていなかった上に、簡単に拳を防がれたマティスは混乱しながら慌てて拳を引く。

 いや、引こうとした。


 だが、さして力を入れているようにも見えないというのに、青年の手はマティスの拳を離さないどころかびくともしない。

 はっとした顔になって腕を振り払おうとするが、それすらも許されず、文字通り完全に掌握されてしまった形だ。


「いやまあ、確かに関係はないんだけどね、こんなの見かけてすっこんでたら、寝覚めが悪くなってしょうがないからねぇ」

「は? て、てめぇの寝覚めなんて知るかよ!?」


 マティスの抵抗にびくともしない力を手に込めているというのに、それを全く感じさせない飄々とした声。

 底知れない何かを感じたマティスが声を震わせれば、すぅ、と薄い笑みが浮かぶ。


「だよねぇ、そっちからしたら僕の寝覚め、つまり僕の事情なんて知ったこっちゃないよねぇ」

「当たり前だっ、だからっ」


 離せ、とマティスは言いかけたのだが、それを遮るように拳がギュッと握られ、先の言葉が続けられない。

 ギシリと骨が軋む音がしたような錯覚を覚えながら青年の顔を見れば、笑みを浮かべているのにその目は笑っていなかった。


「ということは、そっちの事情も知ったこっちゃないんだよ、僕からしたら。

 だからお相子ってことでね? ここは痛み分けってことでいいんじゃないかな?」

「うぁっ、あ、ああっ!」


 そう言いながら、青年はぱっと手を離す。

 痛みに仰け反りながらも逃げようと後に重心をかけていたマティスは、丁度タイミング悪く身体を引こうとしていた所で拳を解放され、べしゃりとみっともなく尻餅をついてしまった。

 だが、その羞恥に頭が向くことなく、マティスは地面に手と尻をついたままアワアワと後退るしかできない。


「うん、了承してもらったってことでいいよね? だったらもう君に用はないし、行っていいよ」


 軽い、しかし有無を言わせない、従わせることに慣れた声。

 しっし、と追い払うかのように手を振れば、その言葉に促されたか弾かれたようにマティスは立ち上がり、一目散に逃げていく。

 そのみっともなくも見事な逃げっぷりに、やれやれと青年は肩を竦めて。

 それから、くるりとカーシャに向き直った。


「お姉さん、大丈夫? 怪我はない?

 余計な手出しでなかったらいいんだけど」


 向けられた笑顔に、カーシャは思わず顔を背けた。

 別に、敵意や害意を秘めていたり何か裏があるような笑みではない。

 それだけに、このやたらと整った顔で向けられる笑顔は凶器にも似た破壊力があり、しかし直感的に、それにやられてはダメだとカーシャの勘が告げていた。

 そしてそれは、正しかったのだけれど。

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[良い点] ああ…裏社会でも節度を守り、ある程度まで“成功”と言える段まで持ち込んだ大親分、ですがそれだけにそんな「上手いやり方」に乗っかっていた人々が果たして真面目に真っ当に生きられるかというと、全…
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