そして日常へ。
そして、騒動から一週間ばかりが経ったある日のこと。
「ちょっとミラ、戻りが遅くない?」
「うわっと、まさかハンナのお出迎えがあるとは思わなかったなぁ」
プレヴァルゴ邸に戻ってきたミラを、眉をつり上げたハンナが向かえていた。
時刻は夕方、辺りが夕焼けに赤く染まるころ。
メルツェデスはとっくに帰宅して自室で寛いでいるような時間に、ミラは帰ってきていた。
「まさかじゃないでしょ、あなた最近、戻りが遅すぎよ?
いくらお嬢様の護衛以外の仕事もあるからって、ちょっとのんびりしすぎじゃない?」
「いや、正直お嬢の護衛って要るのかな~って思うことも多いんだけど。
それはともかく、流石に今日はちょっと遅かったね、ごめんごめん」
「……あなたが素直に謝るだなんて、気持ち悪い……明日は雨ね、これは」
「ちょっとそれは酷くない!?」
言葉通り気味が悪そうに顔をしかめるハンナへと、ミラが食ってかかる。
とはいえ互いに本気であるわけもなく、ほんのり笑みが滲んでもいるようだ。
……若干互いのこめかみがひくついているようにも見えるが、きっとそれは気のせいだろう。
「ともかく、お嬢様がお待ちよ、さっさと報告してらっしゃい」
「はいはい、んじゃまたね~」
こほん、と小さく咳払いをして仕切り直したハンナに急かされれば、これ幸いとミラは身を翻し、メルツェデスの私室へと向かう。
その後ろ姿を見ながら、ハンナは小さくため息を一つ吐き出した。
これだけ気楽そうな顔で、その実ハンナにも並ぶ程の腕なのだから、若干理不尽なものを感じてしまう。
その上、先日のバーナス子爵邸での立ち回りでもわかるように、彼女とミラの組み合わせは互いを補い合う形になってとても良い。
そのことが一層ハンナに複雑なものを感じさせてしまうのだが。
「いっそ、あの子が足下にも及ばないくらいに強くなれば、すっきりするのかしら」
などと、思わず物騒なこともつぶやいてしまう。
もっとも、いかなハンナであっても、ミラを置いてきぼりにするだけの力を得るのは容易でないこともわかっているのだが。
ともあれ。
どこか浮かれているようなミラが、敬愛するお嬢様に粗相をするやも知れない。
ミラが聞けば怒るようなことを思いながら、ハンナもまたメルツェデスの私室へと向かった。
「ということで、マリアンナ様の周辺は異常なしでしたよ」
「そう、ありがとう、ご苦労様。この分ならもうマリアンナさんの周辺警護は必要ないかも知れないけれど」
ミラの報告をソファに座りながら受けたメルツェデスは、そこで一度言葉を句切った。
ちらり、ミラの表情を横目で窺って。
「それでも念には念を入れた方がいいかも知れないわね。ミラ、もうしばらくお願いできるかしら」
「ええ~、まあ、お嬢がそう言うなら仕方ないな~、了解しました」
メルツェデスの言葉に渋り、仕方ない、という体を作りながらも頷くミラ。
だが、メルツェデスの目はしっかりと捉えていた。
必要ないと言われた瞬間、ミラの顔が残念がるような表情を一瞬作ったことを。
すぐに何でも無いような顔を作り直したのは密偵として流石と言っても良いが、しかし、僅かに滲んだ本音を、メルツェデスの動体視力は見逃してはくれなかったのだ。
「あれだけの準備をしてきた連中だから、二の矢三の矢があってもおかしくないし、ね。
……ところでミラ、口の端にお菓子の食べくずが付いてるわよ?」
「えっ、嘘ぉ!?」
メルツェデスの指摘に、ミラは慌てて口の端を拭う。
戻ってくる前に、念入りに拭いたはずだというのに。
そして、確かに拭いてはいたのだ。
「ええ、嘘よ。おかげで引っかかるお間抜けさんは見つかったけれど」
「……え。うっわお嬢、そのブラフは流石に酷いと思うんですけど」
見事に引っかけられたことに気付いたミラは、思わず口を尖らせてしまう。
主に対して取るべき態度ではないことは明白で、彼女の後からやってきていたハンナの眉が上がり、こめかみがぴくぴくと震えていたりするのだが。
だが、当の主、メルツェデスが咎めないのだから、いくらハンナとて口を挟むこともできない。
今度手合わせする時にこの鬱憤をぶつけてやろう、とハンナが心に誓っている間にも二人の会話は続く。
「この程度に引っかかるあなたの修行不足が悪いのよ。目こぼしもしてあげているのだから、むしろ感謝して欲しいくらいだわ?」
「あ~……それはまあ、確かに。ありがとうございます」
任務中に、ついでとはいえ私的なことをしている、とあれば懲戒を受けても仕方がない。
だが、そこには目をつぶると言われているのだから、ミラとしても文句を言えないところだ。
そんなミラの複雑な心境を見抜いているのか、メルツェデスがくすくすと悪戯な顔で笑う。
「ええ、こんなに理解のある主はそうそういないのだから、これからも適度に励んでちょうだいな。
さて、報告は以上かしら。他になければ、下がっていいわよ」
「あ、はい、今日のところは以上です。ではお言葉に甘えて失礼いたします」
そう言うとミラは、胸に手を当てながら恭しく頭を下げた。
そして若干そそくさとといった風情で退出しようとしたところで、メルツェデスがまた口を開く。
「ハンナも、今日はもう下がっていいわ。何かあったら呼ぶから」
「そうですか、かしこまりました。それでは失礼いたします」
恭しく、しかしどこか名残惜しげに頭を下げると、ミラに続いてハンナも退出していく。
扉から出た後、すぐに振り返ってまたお辞儀をして。
すぅ、と音も無く扉を閉めた。
扉が閉まり、二人の気配が遠のいたところで、ふぅ、とメルツェデスは息を吐き出す。
「こんなイベントもゲームではなかったわね……いえ、クララが関与できない事件だから、知らないところで起こっていたのかも知れないけれど」
呟くと、ソファの背もたれに深く身体を預けた。
ややだらしない格好で天井を見上げ、思案することしばし。
「いずれにせよ、一つ確かなことは……敵方、恐らく魔王崇拝者に転生者がいるってこと、よね」
ふぅ、とため息を零しながら、確認するような口調でそう零す。
ヘルミーナとリヒターの拉致事件の時から、もしかしたら、と思ってはいた。
そして、今回のこの一件でそれは確信に近いものへと変わった。
「その転生者は、ゲームの内容を知っている。そのくせ、ジークフリート殿下を初めとする登場キャラクター達に害を為そうとしている。これは、どういうことなのかしら」
ゲームをしている。それも、魔道具の素材まで覚えているということは、それなりにやり込んでいる、ファンと言ってもいい存在であるはずだ。
だというのに、この世界を壊そうとしている。
そこには、大きな矛盾が感じられて仕方が無い。
「魔王崇拝者として生まれたから、その役割のままこの世界を壊そうとしている?
というか、魔王崇拝者とは生まれながらにしてなるものなのかしら」
生まれながらにしての魔王崇拝者、というのはどうにも考えにくい。
例えばジルベルトのように世の中に爪弾きにされた恨みを抱えて、ということならばまだわかるのだが。
一体どんな人間が……と、そこまで考えたメルツェデスは、唐突にあることに気がついた。
「……待って。そもそも、名前の出てきた魔王崇拝者っていなかったわよね」
呟いて、愕然とする。
そう、ゲーム『エタエレ』においては、魔王を復活させた張本人すら名前が出てこなかった。
召喚直後に魔王に踏み潰されるという描写がされたのみで、台詞もほんの少ししかなかったくらいである。
つまり。
「ゲーム知識で探すこともできない……逆に、向こうからはこちらを狙い放題。なんて分の悪い……」
ということは、向こうから仕掛けられて、こちらが対症療法的に応じる、という今の構図が崩れないことになる。
それは、なんとも面白くないところだ。
「何某か、こちらからも仕掛けないと。これ以上、マリアンナさんのような被害者を増やすわけにはいかないもの、ね」
決意を込めて。
天井を見上げながら、メルツェデスは自分に言い聞かせるように呟いた。
メルツェデスがそんな決意をしてから数日経ったある日。
王立学園女子寮、そのある一室の窓がコンコン、とノックされた。
そう、ドアでなく窓が、である。
だが、その部屋の主である少女は不審に思うこともなく、むしろぱぁっと顔を明るくしながら窓へと向かった。
そしていそいそと鍵を外し、窓を開いて。
「……ミラさん?」
「はいな、ミラでございますよ~。お邪魔しても大丈夫です?」
「ええ、そのために準備してましたし。ささ、どうぞお入りになって?」
「ではお言葉に甘えまして、失礼いたします」
マリアンナに招かれて、するり、音も無くミラは室内へと入り込む。
相変わらずの身のこなしに、マリアンナは思わずうっとりとしたような顔になりながら。
それでも、何とか取り繕ってミラをテーブルへと案内する。
テーブルの上には、ティーポットと二つのカップ、クッキーなどのお菓子。
「なんだかいつもご馳走になって申し訳ないです。あ、今度お茶の葉でも持ってきますよ」
「そんな、お気になさらず。私の身辺も見てくださっているのでしょう? いつもお仕事お疲れ様です」
にこやかな笑顔で応じながら、マリアンナはミラへと椅子を勧める。
そう、あの事件以降マリアンナの周辺を警護していたミラは、ある日お茶へと誘われた。
警護対象と親睦を深めるのも仕事の内、という大義名分というか言い訳というかの元誘われるままにお茶をいただき、こうして今に至っている。
流石に毎日ではないものの、かなりの頻度で通っているのも間違いない。
「いえいえ、とんでもない、仕事ですから。……でも、こないだお嬢にばれちゃったんですよね、こうしてお茶をいただいてるの」
「まあ、それはご迷惑をおかけして申し訳ないです……」
「え、あ、大丈夫です、お目こぼしをいただきましたし。それに、私としてもこうしてマリアンナ様とお茶できるのは嬉しいですしね」
「ふふ、そう言っていただけると、少し気が楽になります」
そう言いながらマリアンナがカップにお茶を注げば、ふわりと華やかな香りがする。
ふむ、と少しばかり目を細めてその香りに集中したミラが、にこりと嬉しげな笑みを見せた。
「もしかしてこれは、キュームン産のお茶ですか?」
「あら、よくおわかりになりましたね。流石凄腕の密偵さん!」
「ふふ、これくらい当然の嗜みですよ」
得意げな笑みを見せながら、ミラは心の中でほっとする。
どうやら、マリアンナの日常を無事取り戻せて、彼女もその日常の中で楽しく過ごせているらしい。
少なくとも、こうして茶葉に気を遣う余裕が出てきたくらいには。
そのことが純粋に嬉しく。
同時に、彼女の日常に、どうやら自分が組み込まれたらしいということが、ミラにはくすぐったくも嬉しい。
「そんなこと言われたら、お気に召すような淹れ方ができたか不安になりますわ?」
「安心してください、あなたが淹れてくれたお茶というだけで、とても美味しくなりますから」
「もう、そんな調子のいいこと言って!」
こんな他愛ないやりとりが、いつまでもできますように。
そして、そのためにも一層励まねば、と心に誓うミラだった。




