退屈令嬢は二度踊る。
「あれだけ大口を叩いておきながら、拉致にすら失敗するとはどういうことだ!」
蝋燭の明かりに照らされた薄暗い書斎の中、張り上げるような声とともに、バァン! と上質の樫の木で作られた机が両手で叩かれる。
その剣幕と音に、机の前に恐縮した顔で立ち並んでいた男達……先程メルツェデスにコテンパンにされた連中は、ビクッと肩を竦めた。
彼らの目の前で顔を怒りに歪め、肩を怒らせている男は、品の良い仕立て服に身を包んだ四十がらみと見える細身の貴族。
腕力だけならば当然男達の敵ではないのだが、如何せん立場というものもあるし、何より睨みを利かせている護衛達は剣を腰に帯びている。
ここで変に暴れれば、社会的か身体的か、どちらかの意味で命は無い。
そのことをよくわかっているからか、男達はあくまでも低姿勢だ。
「すいやせん、旦那。いやでもね、拉致はしたんですよ、拉致は」
「馬鹿者! 今ここに男爵を連れてこなければ意味が無いだろうが! そんなもんは失敗と変わらん」
「へ、へぇ、そりゃまぁ、ごもっともで……」
恐る恐ると言い訳をしてみるが、当然無理があるのは自分達でもわかっており、強く言い返されれば同意を返すしかない。
本来の目的を達成する前に奪い返されたのだ、それで拉致を成功した、などと言えないことは彼らとてわかっている。
それでも、こうしておめおめと逃げ帰ってきた彼らとしては、少しでも失態を軽くしたいと思うのは致し方ないところだ。
「いや、ほんとに拉致はしたんですって! 後ちょっとで契約書にもサインをさせられたってのに、あの変な女が……」
「女だと!? ふざけるな、女にやられて逃げ帰って来たと言うのか!」
火に油、とはこういうことを言うのだろう。
ますます激高した貴族を前に、男達はでかい図体を縮こまらせ、しかしそれでもまだ言い訳を続ける。
「確かにそれは、情けねぇことだとは思いますよ? けどね、あの女はおかしい、ほんっとおかしかったんですって。
目にも留まらぬ動きであっという間に俺等を叩きのめして……しかもあんな派手なドレスを着て」
「は? なんだそれは。そんなどこぞの令嬢染みた格好の女が、どうしてあんなところに来たんだ」
問いかけながら、貴族の背筋に何か冷たいものが走った。
何か、とてつもなく嫌な予感がする。何かを、見過ごしてはいけない何かを見過ごしてしまっているような違和感。
だが男達は、そんな違和感など感じもせずに話を続ける。
「それを聞きたいのは俺等の方ですよ。自分で自分のことを淑女とか言いやがるし……いや、確かに顔は綺麗でしたがね。
おまけに、俺等は流行なんざとんとわからねぇが、どう考えても流行りそうもない黒いドレスを着てて、ありゃほんとに令嬢なのかと」
「……おい待て。黒い、ドレス……? まさかその女、黒髪じゃなかっただろうな……?」
「へ? いや、まさに黒髪でしたが……もしかして旦那、誰かご存じで?」
返ってきた答えに、さぁっと貴族の顔が青くなる。
黒髪で、黒いドレス。そして、やんちゃどころでない破天荒な行いを平然と、なんなら笑い飛ばしながらやってのけそうなご令嬢。
そんな存在に、直接の面識は無いが、心当たりが一人だけいた。
「ご存じも何もあるか! そいつは、そいつはなぁ!」
敵に回したことを想像したくもない相手の名前が浮かび、言い淀みそうになるのを勢いで誤魔化す。
まさか、まさか。しかし、状況を聞くに、その相手とは。
動揺しきった彼が言葉を続けようとしたその時、ドンドン! とノックというには強すぎる勢いで扉が叩かれた。
「旦那様、申し訳ございません! 急ぎ、こちらにいらしてくださいませ!」
「なんだ、何事だ!?」
話の腰を折るようにやってきたのは、この屋敷を取り仕切る執事の男だった。
老齢で普段は冷静かつ丁寧に万事を取り仕切る彼が、ここまで取り乱したことなど、初めて見ると言っていい。
先程感じた違和感、嫌な予感が思い起こされて、貴族の背中に、確かに冷や汗が流れ落ちた。
「そ、それが! メ、メルツェデス・フォン・プレヴァルゴ様が旦那様にお会いしたいと突然来られまして!
門前でお待ちいただくようお願いしたのですが、『勝手振る舞い』を振りかざしてズカズカと邸内に!」
「な、なんだと!? くそっ、やっぱりか!!」
執事の言葉に、予感が的中したことを悟った彼は、思わず天井を仰ぎ悪態を吐いてしまう。
そんな彼の様子と、何よりも聞こえてきた名前に……彼らの業界で悪名高き名前に、男達の顔も引きつった。
「だ、旦那、今、メルツェデス・フォン・プレヴァルゴって名前が聞こえやしたが……まさか」
「ああそうだよ畜生! よりにもよってお前等が嗅ぎつけられた相手は、あの退屈令嬢だよ!!」
最早体裁を取り繕うこともできず、貴族……バーナス子爵は口汚く男達を罵る。
追い詰められた。そのことが、直感的にわかってしまったのだから。
「い、いやしかし、ここまで誰にも尾けられちゃいなかったんですぜ!?」
「大方プレヴァルゴの密偵でも使われたんだろうよ、あいつらは特別だからな!」
「な、なんでたかが男爵相手に、そんなことしてるんですか!?」
「私がわかるわけがないだろうが!」
最早動揺を通り越して阿鼻叫喚とすら言える程に取り乱す子爵と男達。
子爵と男達の繋がりや何をしていたのかを把握している執事もまた、顔が青ざめる程に動揺している。
ただし、彼らの認識は誤りだ。
実際に彼らの後を尾けたのは、ゴンザとサムである。
彼ら程度の腕では、この二人に気付くことも、ましてや撒くことなどとても出来はしなかったのだが、気付いていなかったのだから、当然そんなこともわからない。
一人だけ密偵は使われているのだが、それはミラであり、つまりマリアンナの護衛である。
彼らの居所を探る為には一人も使われていないのだが……それは最早、誤差というべきものだろう。
びくっと執事が身を震わせ、恐る恐る、その背後を振り返った。
と思えば、じり、じり、と書斎の中へと後退ってくる。
何事かと思えば、複数人が言い合う喧噪が、こちらへと向かってきている音が耳に飛び込んで来た。
それが聞こえぬ程に動揺していたことに、さて子爵は気付いただろうか。
そして、彼が気付くと気付かないとに関わらず、現実は、そして招かれざるスペシャルゲストはやってきた。
「お、お待ちくださいプレヴァルゴ様! なにとぞ、なにとぞ!」
「あらあら、少しばかりお宅を改めるだけですのに、何か問題がございますかしら?」
普通の貴族、それも令嬢としてならば問題しかない言動を、しかしご免と押し通る。
聞こえてきた声に覚えのある男達は思わず震え上がり、それを見た子爵は、とうとう王手が掛けられたことを理解した。
その直後に、彼らの視界に入ってくる、何故か鮮烈な印象を与える黒のドレスと黒い髪、楽しげに射貫いてくる紅の瞳。
「ふふ、どうやら皆様お揃いのようですねぇ。初めましてバーナス子爵様、メルツェデス・フォン・プレヴァルゴでございます。
それからそちらのお三方、先程は退屈な歓迎をありがとうございました」
慇懃無礼。きっとその言葉を形にしたのならば、今の彼女がそうなのだろう。
煽られて怒りの感情も湧いてくるが、しかし言葉にすることもできなかった。
勝てない。
先程叩き込まれた、惨めな敗北。
しかしそれも、彼女に取ってはただの遊びか何かでしかなかったのだ、と今ならわかる。
明らかに先程とは雰囲気が違う。圧が違う。
今まさに彼女は、彼らを狩らんとしているのだ。
「さてさて。そのお三方がここにいる以上、あなたがこの件の首謀者であることは明白ですわね、バーナス子爵様?」
「な、何を言っているのだね、何のことかわからんな!」
にこやかな問いかけに、しかし子爵は往生際悪く、とぼけようとする。
もちろん、そんな誤魔化しが通用するわけもないのだが。
「あなたがおわかりにならなくともこちらの方はおわかりになりますのよ。ねぇ、スピフィール男爵様」
「ええ、間違いありません、私を掠ったのは、その男達です!」
「なっ、スピフィール男爵、何故貴様がここに!」
メルツェデスの背後から突然現れたスピフィール男爵を見て、バーナス子爵は覿面に狼狽える。
この騒動の被害者である彼が証言する以上、誤魔化せるわけもない。
そしてさらに。
「確かに、私もそちらの方々を見ました。間違いないですね」
「は……? エ、エルタウルス公爵令嬢様……な、なぜこのようなところに!?」
そう、男爵どころかフランツィスカまで同道し、目の前が男爵誘拐の犯人であることを告げている。
そして、その三人が今ここに、バーナス子爵の書斎にいたということが何を意味するかは、明白だった。
「ちなみに、マリアンナさん誘拐の主犯である、バーナス子爵家使用人の身柄は押さえております。
さ、バーナス子爵様、申し開きは司法の場でお聴き致しましょうか。潔く観念なさいまし」
最後通牒とも降伏勧告とも取れるメルツェデスの言葉に、子爵はがくりと項垂れた。
項垂れた、のだが。
「ふ、ふふふ、ふふふふふ……何が、潔くだ、不用心にこんなところまで来おってからに!
ここで貴様等を始末すれば、誰もこなかった、何も無かったことにできる!」
「あらまあ。確かに、そうできればそうなりますわねぇ」
子爵の、殺害予告とも取れる言葉に、しかしメルツェデスはいつもと変わらぬ声で応じる。
むしろ、これ見よがしにずいっと一歩踏み出しながら。
「ただ……あなたには出来ないかも知れませんわよ?」
そう言いながら見せたのは、不敵な笑み。
いや、捕食者の笑みにも、見えた。
ゾクリと背筋に走った寒気を誤魔化すように、子爵は声を張り上げる。
「出来ないかどうか、確かめて見るがいい! 者ども出会え、出会え! この狼藉者共を討ち取れ!!」
もはや堪えきれなくなったか、この手段しかないと悟ったか。
子爵の声に応じて、屋敷のあちらこちらから武装した男達がやってくる。
だが、メルツェデス一行に慌てた色はまるでない。
「ハンナ、ミラ。後ろは任せました、マリアンナさんと男爵様、フランをお願いしますね。
ただし、殺さないでください、後が面倒です」
「かしこまりました、お嬢様」
「面倒だけど仕方ないよねぇ」
それぞれに答えながら、ハンナとミラはそれぞれの得物を手にした。
ハンナはいつもの短剣、ミラは先程振るっていた短い金属製の棍棒、その柄頭にかちゃりと鎖を取り付け構える。
その様子を見て、バーナス子爵は虚勢丸わかりな勢いで何とか言葉をひねり出した。
「はっ、女ばかりではないか、それで何ができると言うのだ!」
「ふふ、本当に往生際の悪いお方ですわねぇ」
嘲るような子爵の言葉に、応じるメルツェデスは涼しい顔。
ゆるり、書斎の中を、そしてやってきた武装した男達を見据えて。
そっと、左手を前髪にかけた。
「何が出来るかと問われれば、その耳目に刻んで差し上げましょう。
女だてらに陛下より賜った、この『天下御免』の向こう傷!
派手な化粧に過ぎぬと思わば、痛い目を見ましてよ!」
啖呵と供に翻る手、舞い踊る艶やかな黒髪。
そしてその向こうに、深紅の三日月が鮮やかに輝いた。




