その手を握って。
フランツィスカが反応したのにはわけがある。
彼女が知る限り、スピフィール男爵は謹厳実直で、約束事を破ったことがないような人物だ。
その彼が、娘の入学式という晴れの日に何の連絡もなく欠席するなど信じがたい。
また、仮に何かあって遅れたとしても、数時間もの間音沙汰がないというのも考えられなかった。
「男爵様のお人柄を考えれば、少なくとも前日には王都にいらっしゃっていそうですけれど」
「ええ、商談もあるとかで、数日前には来ていたはずです。私が王都に後から来たくらいで……忙しいとは聞いていましたので、昨日まで会えなかったのは仕方ないと思うのですけども……」
フランツィスカの問いかけに答えていくうちに、マリアンナの言葉がどんどんか細くなっていく。
漠然と抱えていた不安が、こうして言葉にすることで明確になっていき、どれだけおかしなことか認識できてしまった。
そうなってしまえば、まさか何かが、と不安は膨れ上がり、足下が震え出してくる。
と、不安を色濃くしたマリアンナの身体を支えるようにフランツィスカがその肩に腕を回し、崩れ落ちそうな身体を支えた。
「落ち着いて、マリアンナさん。大丈夫、男爵位であっても貴族に何かあれば、衛兵や騎士が黙っていませんわ。
そんな話は私とて聞いていないのですから、きっと大事にはなっていないはずです」
「フ、フランツィスカ様……そ、そうですよね、きっと、そうですよね……」
フランツィスカの慰めに、こくりと頷いたマリアンナは顔を俯かせ、ぐっと唇を噛みしめる。
未だ不安は拭い去られないが、しかしここで自分が狼狽えても仕方が無い。
むしろ、こうして気を遣ってくれるフランツィスカを困らせてしまうだけだから、と自身に言い聞かせながら。
そんな二人を気遣わしげに見ていたメルツェデスが不意にポンと手を打ち合わせ、二人へと目を向けた。
「そう言えば、男爵様は先に商談で王都へといらしてたはずなのですよね?」
「は、はい、そう聞いていますが……」
「でしたら、万が一商談に男爵様がいらしてなかった場合、マリアンナ様へと連絡がくるのではないでしょうか」
メルツェデスの問いかけに、フランツィスカが虚を突かれたような顔になる。
それから一瞬だけ考えて、小さく頷いてみせた。
「言われて見れば、それはそうね。マリアンナさん、あなた、入寮のために昨日からこちらにいらしてるわよね?」
「は、はい、確かに昨日から来てます。恐らく父は、お取引先には私の入学のことを話していると思いますから、私がここにいることは知っているのではないかと……」
「でしたら、男爵様は昨日までは何も無かったのでしょう、きっと。となると、この広い王都で道に迷われたのかしら」
冗談めかしたメルツェデスの言葉に、マリアンナは生真面目な顔で首を横に振った。
「いえ、それはないと思います。父は商談で王都には何度も来ていますから」
「なるほど、失礼致しました。しかし、何度も、ですか。
確かスピフィール男爵領は、王都から随分と離れた、西の国境近くでしたわよね? そこからわざわざ商談のために?」
マリアンナの言葉に、メルツェデスは小首を傾げた。
スピフィール男爵領は西の国境近く、やや涼しい北部寄りの領地だったとメルツェデスは記憶している。
王国の治世が安定してから百年以上の間に街道も整備され、貴族の馬車であれば時速15km程度で走れるとはいえど、片道十日はかかるのではないだろうかという距離。
その距離をわざわざ、となれば相当な労力になりそうなものだが、メルツェデスの問いかけにマリアンナはこくりと頷いた。
「はい、私どものシルクは商談の相手がどうしても貴族階級、それも当家よりも上の家格であることが多くなりますから。
スピフィール領にお越し頂くなど以ての外、お伺いするにしても下手な者は向かわせられません。
ですから、可能な限り父が出向いておりました。これも領主の務めだと口癖のように言いながら……」
呟くように言いながら、マリアンナは目を伏せた。
彼女の記憶の中にある父の姿は、明るい日差しの中領民達と共に蚕の餌である桑を育てている横顔か、商談のため王都に向かう時に馬車に乗り込む背中か。
もちろん他の父も覚えているが、その二つの印象がどうしても強い。
「何しろ、スピフィール領は土地が悪いのか麦もあまりよく育ちません。
鉱山などもありませんし、大きな商用街道からも外れているから通行税も然程取れないとなれば、養蚕で収入を得て穀物などを仕入れねば、すぐに領民が飢えてしまいます。
ですから、父にとって商談は、領民の命を背負った戦のようなものだったのでしょう」
農地で汗にまみれている父。
商談に向かおうと馬車に乗り込む父。
いずれも、明るく笑って見せていたのに、どこか抜き差しならない真剣味があったようにマリアンナは思う。
「そんな父を見ていたからでしょうか、私も桑や蚕を育てる手伝いなどもしていて……だから、父のいない間も出来る限りと思って、王都に来るのもギリギリになったんですけども」
そこで言葉を切ると、マリアンナは自らの手をじっと見つめた。
農作業で酷使された掌は、皮膚も硬くなりヒビも入って、とても貴族令嬢の手には思えない。
それでもマリアンナは、自分の手を恥じることはなかった。例え、この学園において唯一と言ってもいい程に醜い手だったとしても。
だが、しかし。
「もしかして、そんなことをしなければ良かったのでしょうか。
私が、もっと早くにこちらに来ていれば、父も私とすぐに合流できて、何か起こったりなどしなかったのでしょうか……」
ぎゅっと手を握りしめ、感情のままに顔を押しつける。
どれだけ農作業に慣れたとしても所詮は女の細腕、領民達の作業に比べれば効率は悪い。
おまけに、彼女のことを役立たずだなどと、まさか言えるはずもない。
であれば、自分なりの努力とやらは、ただ周囲に迷惑をかけただけなのではなかったのか。
自己嫌悪に塗りつぶされそうになり背中を丸めたマリアンナの手が、そっと握られた。
「そんなことないわ、マリアンナさん。
あなたがそうやって前に出て頑張っているから、領民の皆さんだって頑張ろうと思えるのよ」
そう言うとフランツィスカは、そっとマリアンナの手を撫でる。
ゴツゴツとした印象のあるその手のひらを、大切な物に触れるかのような愛しげな手つきで。
その柔らかな感触を呆然とした顔で感じていたマリアンナは、理解が追いついた途端に顔を真っ赤に染め上げた。
「ちょっ、フ、フランツィスカ様!? あの、あのっ! わ、私の手などをそのようにお触れになるなどっ!」
「何をおっしゃってるの、あなたの手は、素敵だわ」
抗議、というか制止の声に、フランツィスカは楽しそうに笑って返す。
そして、また幾度も幾度も、その感触を確かめるように触れて、撫でて、くすぐって。
「ふふ、メルの手を握り慣れているせいかしら、こういう働き者の手って、私大好きなのよ。
だから、もっと触らせてもらえないかしら」
「ひゃっ、ひゃいぃ!?」
肯定なのか、それとも聞き返したのか。マリアンナ本人にもわからないから、フランツィスカは勝手に肯定と受け取って、さらに触り続ける。
と、それを見ていたメルツェデスもマリアンナの手を取った。剣の稽古を重ねる内に硬くなったその手で。
「フランが言う通り、わたくしの手もこのように硬くなってしまってますのよ。
ですが、わたくしはこの手を恥じてなどいません。そして、あなたのこの手も、素敵な手だと思いますわ」
「プ、プレヴァルゴ様……」
初対面だというのに、噂に聞いた退屈令嬢は、噂の通り情のある令嬢だったらしい。
その優しい手つきに、二人のぬくもりに、マリアンナの目は潤んでいく。
「あなたが頑張ってらしたから、きっとお父様も安心して商談に向かえたのでしょう。
それに、だから領民の皆様も頑張れているのではないでしょうか」
「そうね、スピフィール領の領民は皆明るい顔で労働していると聞いたことがあるもの」
メルツェデスの推測に、フランツィスカが後押しをする。
ひっく、ひっくとしゃくり上げるような声がするが、その声が示すのは悲嘆の色ではなかった。
「ですから、どうかご自分を責めないでくださいませ。そして、もしよろしければ、お手伝いをさせていただけませんか?
何しろ私達は、マリアンナ様よりもこの王都をよく知っていますから」
驚きのあまりに涙で濡れた目を見開いたマリアンナへと、メルツェデスが力強く頷いて見せる。
そしてその横で、フランツィスカもまた、同じく頷いて見せた。……少しばかり、茶目っ気を乗せながら。
「そうそう、特にメルはこの王都をよく知っているから……あちこちで暴れているもの、ね?」
「ちょっとフラン、その言い方はマリアンナ様に誤解されるんじゃないかしら」
直接的ではないにせよ色々と困らされているフランのちょっとした意趣返しに、メルツェデスは口を尖らせて言い返す。
そんな二人の、どこかコミカルなやり取りを見て、マリアンナは涙目ながらも笑顔を見せた。




