そして、
いや、それは錯覚ではなかった。
だから。
「……皆! 『精霊結晶』を出して! すぐに!」
ヘルミーナが、必死の形相で叫んだ。
それから、すぐに言葉が続く。
「殿下は『炎の剣』をかざして! クララは鎧に意識を集中!」
何が起こっているのか。
ヘルミーナ以外の誰もが理解していない。
だが、それでもジークフリート達は疑うこともなくすぐさま行動に移した。
フランツィスカ達が胸元にしまっていた『精霊結晶』を取り出し、ジークフリートが『炎の剣』で身を護るかのように構え、クララの鎧が一層の光を放つ。
そして、その瞬間。
彼ら彼女らにもはっきりとわかった。
世界が、歪んだ。
そうとしか言いようのない違和感。
ぐにゃりと視界が歪み、倒れこみそうな感覚。
いや、よくよく見れば目に見えるものは歪んでなどいない。
だが、歪んでいる。そう知覚してしまう。
そして、引き込まれていくような力の流れを感じる。
「なんだこれは……『魔力傾斜』が変わった!?」
何が起こっているのか、二番目に理解したのはリヒターだった。
それよりも先、世界が歪み始めたわずかな変化だけでヘルミーナは気付き、そして何が起ころうとしているのか理解したのだろう。
だから、リヒターが説明を求めようとヘルミーナの方を見たのは自然な流れで。
「……ミーナ?」
今まで見たこともない程に真剣で沈痛とも言える顔をしている彼女を見て、言葉を失ってしまう。
リヒターが今起こっていることを理解した、ということは。
ヘルミーナは、その先を理解している。
その彼女が、見ているのは。
「……メルツェデス嬢?」
ヘルミーナの視線の先、彼女が見つめているのは親友であるメルツェデス。
それを目にした瞬間、リヒターは理解した。
魔力傾斜の行く先が、歪んだ。変わった。
……メルツェデスへと。
「備えて!」
鋭いヘルミーナの声が飛べば、全員が身構えて。
彼らが取り出していた『精霊結晶』、『炎の剣』、そして『光の鎧』から、それぞれを象徴する色の光が溢れ出す。
そしてその光が、半球状の結界を形成した。
次の瞬間。
世界が、傾いた。
猛烈な勢いで、膨大な量の何かが転がり落ちていく。
メルツェデスへと向かって。
「これ、はっ!?」
「……魔力が、メルへと向かって流れ落ちていってる。ありとあらゆる、この場に存在する全ての魔力が、根こそぎ」
「なんだって!?」
この世界の全ての存在は、魔力によって形成されている。
それが、根こそぎ流れ落ちていっている、ということは。
ゴクリと喉を鳴らしたリヒターが視線を動かせば……レオだった存在から、闇色の魔力が、ついで彼の元々の属性である地属性の黄色に染まった魔力が流れ出していた。
そして、それらが失われていくレオの死体は急速に老化し、やせ細っていっている。
「……私達が無事なのは、これがあるから、か」
二人のやりとりを聞いていたジークフリートが、構えている『炎の剣』へと視線を落とす。
それから目を動かして、リヒターやヘルミーナ、この場にいる全員が精霊の光に守られている様を見た。
ただの魔力ではなく精霊の力が込められているからこそ、なのだろう。
「恐らくは。この光の中であれば、『魔力傾斜』に飲まれずにいられるようです」
「それはありがたいが……しかし、これは一体何が起こっているんだ……?」
少しばかり息を吐けたが、しかし事態は変わっていない。
いや、もしかしたら悪化し続けているだけかも知れない。
どうしても、気が急いてしまう。
何しろこの異変の中心にいるのは、ジークフリートがほのかに思いを寄せる相手なのだから。
「それに、私はどうして『精霊結晶』なしで無事に……?」
「多分だけれど。それもまた、聖女の力なんだと思う」
『光の鎧』に守られているクララが首を傾げるも、ヘルミーナも推測しか述べることが出来ない。
彼女でも、今何が起こっているか、わからない。
その答えは、予想外のところからもたらされた。
『なんだよそれ……『終焉の魔女』か……? バカな、あれは没った設定のはず……』
呆然としたデニスの声を裏付けるかのごとく、メルツェデスに変化が現れた。
長く艶やかな黒髪が、波打つようにうねる。
元々大人びていた容姿が、さらに深みを増して妖艶な色香をまとった肢体へと変わっていく。
口の端が引きつるように上がり、目は鋭さをまし、その瞳に映るのは狂気にも似た色。
「メル!?」
「姉さん!?」
フランツィスカとクリストファーの悲痛な声が響く。
その目の前で、メルツェデスが纏っている魔力の色が変わっていく。
青が深まった紫よりも更に暗く、深く。
覗き込めば、どこまでも落ちていくようなそれは。
「……『闇へと続く、深淵』……?」
リヒターが、ぽつりとつぶやく。
彼が気づいていた、闇へとたどり着く可能性。
それは、ヘルミーナのことを指し示していると思っていた。
だが、もう一人いたのだ。
そこに至ってしまう可能性がある人物が。
ギリッ、と歯を噛みしめる音。
見れば、ヘルミーナの顔が歪んでいた。
彼女もまた、自分がそうだと思っていた。
メルツェデスの魔力では、闇に至ることはないだろうと踏んでいたからだ。
誰よりも正確に魔力を測ることが出来るからこそ、裏をかかれた。
そして、裏をかかれたのがもう一人。
『うそだろ……世界全てを飲み込み食らい尽くす真のラスボスなんてって、没ったじゃねぇか……』
急速に闇の魔力が流れ落ちていくデニスの声から、力が失われていく。
それは、単に魔力がなくなっていくから、だけではない。
『ってことは、この世界は、没った世界……あのゲームの世界じゃ、ない……?』
呆然と呟く。
没になった世界。
だからこそ決まっていないことが山ほどある世界。
……もしかしたら、何も決まっていなかったかも知れない世界。
『なら、俺は……』
その言葉だけを残して。
『魔王』となったデニスは、『終焉』へと飲み込まれていった。
そして、飲み込まれていくのは彼だけではない。
「殿下! 洞窟が崩れ始めています!」
「なんだと!?」
ギュンターに言われて、ジークフリートは視線をメルツェデスから引きはがした。
見れば確かに、洞窟の天井からぱらぱらと砂が落ち始めている。
魔力は全ての存在の根幹。
それが、根こそぎ奪われていくのだとしたら。
岩が、その力を失っていくのだとしたら。
「くっ、総員退避、退避!!」
「しかし殿下、それではメルが!」
「わかっている、わかっている、だが!」
フランツィスカが必死に抗議するも、ジークフリートとて血が滲むような声で叫び返すしか出来ない。
彼とてメルツェデスを置いていくなど、身体が引き裂かれるほどに辛い。
しかし、どうしようもないのもまた事実。
何故ならば。
『フフ。ウフフ。アハッ、アハハハハハ!!』
力を溢れさせた『魔女』が、高笑いを上げながら立っているから。
ジークフリートの命令にも、誰の声にも反応することなく。
ただひたすら、己の内側から湧き上がってくる愉悦に促されるまま、笑っているのだ。
彼女をどうにかすることなど、少なくともジークフリートにはできそうもない。
そうこうしているうちに、洞窟はついにその力を完全に失ったらしい。
岩が、土砂となって降り注ぎ始める。
『フハッ、アハハッ!』
その土砂へと向けて、『魔女』となったメルツェデスが腕を振るえば、闇よりもなお深い、虚無としか言いようのない魔力の塊が飛び、土砂を消し去っていき……巨大なトンネルを作り出してしまった。
そして彼女は、高笑いを上げながらそのトンネルを目にも留まらぬ跳躍で跳び抜けて。
すぐさま土砂が降り注ぎ、トンネルは塞がれてしまう。
後に残されたのは。
「メル!!」
フランツィスカの悲痛な叫びと。
「くそっ、くそぉぉぉ!!」
ジークフリートの悔恨の声で。
それもまたすぐに、土砂に飲み込まれた。
※サブタイトル『そして、終焉の始まり。』




