足掻いたからこその。
こうして、メルツェデスとフランツィスカが偽メルツェデスの元へ向かっている頃。
「はぁっ、はぁっ……撒いた、かな……?」
一人の少女が、森の中で荒れる呼吸を抑えながら身を潜めていた。
長く伸びた黒髪は逃げ回る最中に泥と汗で汚れ、すっかりパサついてしまっている。
騎士服に似た動きやすい格好をしているが、それもまた同様に。
随分と走り回ったのだろう、その黒い瞳は疲労で陰りを帯び、肌も良く見ればあちこちにかすり傷が付いてしまっていた。
そして。
汗で濡れた額を乱暴に払えば、ちらりと見える向こう傷。
三日月を模したらしいそれはまだ新しく、かさぶたが乾きっていないかのよう。
おかげで赤の色合いが生々しく、本物と同じような印象を与えるのは幸か不幸か、文字通り怪我の功名か。
「あいつら、ホントにあたしをプレヴァルゴ様と勘違いしてたもんね……これでしばらくはこっちに目を向けられる、といいんだけど……」
大きな音がしないよう抑えながら、ゆっくり長く息を吐き出す。
吐息と一緒に力も抜けていったか、木に身体を預けてその場にしゃがみ込んだ。
頑張ればまだ足は動くが、頑張らなければ動かないとも言える。
この数日、あちらこちらへと駆け回り、時にならず者達相手に大立ち回りを演じてきたのだ、疲労困憊なのも当たり前。
むしろこうして立っていられたのが驚異的なくらいだ。
「休んでる暇なんてない、けど……流石に、しんど……」
木にもたれかかりながら大きく息を吐き出せば、一気に疲労感がやってくる。
そしてその疲労感は、不安だとか心配だとかいったマイナスの感情も運んできてしまう。
「父さんや村のみんなは、大丈夫かな……無事だといいのだけど……」
ざわり、と胸が疼くような感覚。
彼女が抜け出す直前に見た村の光景……突如現れた怪しい格好の集団に制圧されていく光景が脳裏に浮かぶ。
この地域の領主であり、村へと視察に来ていた父が抵抗しようとするも手も足も出ずに拘束され、戦う術などろくに知らない村人達など抵抗のしようもなく。
あれから数日、果たして皆無事だろうか。……少しでも食べ物や水を与えられているならいいが、もしそうでないならば。
……限界は近いだろうが、しかし彼女にはこれ以上どうしようもない。彼女一人の力では。
「あたしにもっと力があれば……それこそ、ほんとのプレヴァルゴ様みたいな力が……」
呟きながら、己の手に視線を落とす。
この国の貴族らしく、最低限には戦える術、あるいは護身術なども学んできた。
向き不向きで言えば向いていて、この辺りの女子の中では一番の腕利きだとも思う。
ただ、所詮それは、この辺りの、女子の中では。
村を襲った連中のように専門的な訓練を受けた成人男性と比べれば、その差は歴然としているのはわかっている。
だから「逃げろ」という父親の言葉に従って逃げ出し、今こうして、何とか身の自由は保てているわけだ。
それで安堵の気持ちなど湧いてくるわけもないが。
最悪の事態だけは避けられた、と言えるのも事実なわけで。
複雑な思いがこみ上げてきて、思わず溜息を漏らす。
「あの分だと、戻ったら捕まるだろうし……後はもう、近づかないようにして待つしかない、か……」
もう一度大きく息を吐き出すと、力が抜ける。
疲れた。
重たい目蓋は重力に逆らえずに落ちていく。
この数日、ろくに休むことも出来ず、ろくに飲み食いも出来ていないのだ、いかに若くとも体力の限界はとっくに過ぎている。
だから。
「おっ、こんなところにいやがったか」
近づいてくる気配に、気付けなかった。
聞こえた声に慌てて目を開け立ち上がれば、彼女を囲むようにして三人の男が下卑た笑みを浮かべながら立っている。
……下卑た顔ではあるが、その身のこなしは玄人のそれ。
恐らく一対一でも敵わないであろうに、相手は三人、しかも囲まれてしまっているときて、流石に心が折れそうにもなってしまうけれど。
それでも、彼女の膝は折れていなかった。
「ならず者ならならず者らしく、もうちょっとサボっててもいいんじゃない?」
どこか揶揄うような口調で言いながら、出来るだけ視線を動かさないようにしながら周囲を探る。
……三人がそれぞれ均等に広がり、どう走っても彼女が抜け出せる動線はない。
これが石畳などで舗装された道であれば擦り傷覚悟で地面を転がって連中の手を掻い潜ることも考えられたが、残念ながら森の中、あちこちに引っかかってしまう可能性の方が高い。
となれば、左右どちらかの端にいる男を突き飛ばして。
などと考えることも想定済みか、真ん中の男より左右の男達の方が体格がいい。
可能性はゼロではない。だが、極めて成功率は低い。
どうすれば。どうすればいい。
答えは出ないが、必死で頭を動かしていた。
だから、だろうか。
人事を尽くそうとしたからか。
天は気まぐれにも微笑んでくれたらしい。
「オ~~~ッホッホッホ!」
突如響き渡る高笑い。
比較的柔らかな木々や枝葉に覆われた森の中だというのに、その間を切り裂いていくかのように飛んできた声は、年若い女性のもの。
わけありな彼女ならともかく、普通の女性ならばそうそう踏み込んでくるはずのない場所に響くそれは、どうにも場違いで。
しかし、何故だか胸に安堵感を抱かせる温かさがあった。
「何やら森が妙に騒がしいと思って顔を出せば、女一人に男が三人などと、言い逃れのしようもない狼藉現場!
人目がないからと、矜持も見栄もかなぐり捨てているのは相当に見苦しくてよ?」
……もしかしたら勘違いだったのかも知れない。
これ見よがしに上から目線の罵倒。
もっとも、それが男達に向けてのものだったからか、それとも他の何かが原因か、不快感はなかったのだが。
「な、いきなり何言ってやがる!? ってか、何だお前、関係ない奴はすっこんでろ!」
罵倒された男達に効果は抜群、全員の意識が背後の森へと向けられた。
昼なお暗い森の中、現れたのはその闇に馴染むようで馴染まない一人の淑女。
艶やかな黒髪、黒を基調としたドレス。だがしかし、その額に輝くは、地上に降りた真紅の三日月。
同じく紅に輝く瞳が、ちらりと彼女を見た気がした。
そう気付いた瞬間、脚に力が戻る。
「何だなどと捻りのない問い、いっそ笑えてきますわね!
問答するも時間の無駄、この『天下御免』の向こう傷を名乗り代わりとさせていただきますわ!」
やっぱりだ。
そう思った瞬間。男達の意識が突然現れたその人へと完全に向いた瞬間。
彼女は最後の力を振り絞って横へとダッシュ、男達の包囲から抜け出した。
もしかしたら、その人もわかっていたのかも知れない。
駆け抜ける瞬間、ちらりと笑みが見えた気がした。
そして。
「流石にここまで全く歯ごたえがないのもどうかと思いますわ!」
人質になる可能性があった彼女が逃げた次の瞬間には、男達は三人全員うち伏せられていた。




