修行の終わりは鍛錬の始まり。
立ち上がった青い光の柱を呆然と眺めていたクリストファーは、数秒ほどそうしていた後、はっと我に返った。
「や、やった……やったぁ!」
己が成したことを理解した彼は、快哉の声を上げ。
ザバン、と文字通り水を差すかのように水が跳ね上がって彼の全身を濡らした。
「ぶあっ!? くっ、こ、この、まさかこの期に及んで……」
試練をクリアした、という達成感に冷や水を浴びせられたクリストファーだったが、しかしすぐに気付く。
泉がまだ暴れるということは、己の中にまだ『彼』がいるということ。
そして、一度『彼』を制圧しただけで、油断すればまだ暴れ出すということ。
「ってことは、クリアしてからが本番ってことじゃないか」
そこに思い至ったクリストファーは、恥ずかしさのあまり顔を赤く染めた。
考えて見れば、『水鏡の境地』を会得した後もメルツェデスは鍛錬を欠かさない。
ガイウスもまた然り。そもそも言っていたではないか、更なる深淵があると。
「そうだ、僕なんてまだまだ、浮かれてる場合じゃないっての」
呟きながら、両手で己の頬を挟み込むように叩けば、パァン! と鋭い音が響き渡る。
……如何に鍛えているとはいえ、これだけ寒い中で冷え切った頬に、これは、痛い。
痛いが、ぐっと飲み込む。クリストファーは男の子なのである。
「そもそも、会得するのが目的じゃない。忘れちゃダメじゃないか、『水鏡の境地』を会得して」
ぐ、と力を込めて手を握り拳を作る。
きっと過酷な戦いが待っているであろう姉を助ける為に。
この国の裏で暗躍する連中を退治する為に。
会得するだけでは足りない、使いこなせなければ。
ならば。
「……我は、水なり」
呟けば、心に静寂が訪れる。
吹きすさぶ風も、顔に当たる雪の粒も気にならず、ただ深く、静かな場所へと潜っていくイメージ。
「我が心、凪いだ水面のごとく」
一滴だけ雫が落ちて、そこから波紋が広がっていく。
その波紋が触れたもの、全てが知覚されていくような感覚。
己が静かだからこそ、僅かな揺れがよりはっきりと伝わってくる。
それは先程泉に入った時のそれに似ているが、もっと明瞭で。
存在、動き、その奥……動きの前兆、起こりまで捉えていく。
「故に我は鏡なり」
捉えた起こりが、頭ではなく身体へと結びついていく。
一度捉えれば、鍛え磨き抜いた身体が、技が即座に反応する、出来ることがわかる。
今ならば、どんな攻撃であろうともかわせる、返せる。そんな自信が心の奥底から湧いてくる。
「……うむ、見事じゃ。『水鏡の境地』、しかと会得したようじゃの」
「精霊様……ありがとうございます。しかしまだまだ、これがスタートなのだと思うばかりです」
内面世界の時と同様にいきなり現れた水の精霊へと、クリストファーは首を振って返す。
今まさに己の未熟さに気付いたからこその『水鏡の境地』だと、誰よりも彼がよく知っているのだから。
そんなクリストファーを、水の精霊は嬉しげに目を細めて見やり。
「殊勝なことじゃのぉ。……よかった、安心したわえ。あのばいおれんすな勢いのままかと心配しておったわ」
「流石にあのままは……稽古や手合わせの時はともかく、普段からああだと頭を打ったかと思われそうですし。
あ、それか、乗っ取られたと思われるかも?」
生真面目で穏やかなクリストファーが、冬山から帰ってきたら暴力的な人格に豹変していた。
ガイウスもメルツェデスもあの試練を突破してきたのだ、当然暴力的な人格についても知っているだろうし、乗っ取られたと考えてもおかしくはない。
もしそう判断されたら、どんな扱いを受けるか……ボコられて縛られて『クリストファーから出て行け!』などと迫られかねない。
そこまで想像したクリストファーは、ぶるりと背筋を震わせた。
「あ~……そなたのお父上も姉上も、家族愛が重めで激しめじゃからのぉ……」
「え、父はともかく、姉までそう見えましたか?」
「うむ、そなたの扱いがぞんざいに見えるのは信頼の裏返し、と見えたがのぉ」
「そっか……そうですか」
思わぬメルツェデス評に、ついクリストファーの頬が緩む。
かくいう本人もまた、あまり表には出さないが家族愛重めなのだから。
「これで、少しは姉も安心して背中を預けてくれるようになれましたかね?」
「それはまだ、これから次第じゃろうな。恐らくあれからまた成長しとるじゃろうし」
「確かに、それはそう、ですね……」
今の自分で姉に互することが出来るかと言われれば、まだまだNOと言わざるを得ない。
改めて、これがスタートなのだと自分に言い聞かせる。
「ま、そのためにも、まずは着替えて身体を温めぬかえ。そのままでは風邪を引いてしまうぞよ?」
「あ。言われて見れば……っくしゅんっ」
言われて思い出したのか、くしゃみが出た。
この雪降りしきる中で濡れ鼠になって泉の中に突っ立っていたのだ、身体の芯まで冷え切ってしまいそうなほど。
……本当には冷え切ってない辺り、本当に寒さに強い体質なのか、鍛えているおかげか。
それでも、このままここに居て良いことは一つも無さそうだ。
「すみません、お言葉に甘えて着替えてきます」
「うむ。ああ、なんなら手伝ってやろうかえ?」
「は!? いや、結構です!」
思わぬ言葉に、顔を赤らめながらクリストファーは断りを入れ、水を足で掻き分けながらテントへと向かう。
見た目だけならば美少女である水の精霊の前で着替えるなど、想像するだけでも恥ずかしい。
そんなクリストファーの初心な反応を笑いながら水の精霊は見送り。
彼がテントの中に入ったのを見て、ふぅ、と息を一つ吐き出した。
「……頑張れよ、クリストファー。そなたは強くならねばならぬ。姉上に並ぶ程に、の」
呟かれた言葉は、雪風の音にかき消された。




