彼の至った境地は。
蹴り飛ばし、起き上がりに左右の拳という二択を重ね、意表を突いてもう一度蹴り飛ばす。
街の喧嘩屋のようなそのやり口に、いつものクリストファーが見せている洗練された技術を駆使した端麗さは欠片もない。
容赦なく攻め立てるその様は、さながらメルツェデスのそれに似て。
もしもこの一戦をクリストファー自身が傍で見ていたら、己の姿に背筋を凍らせていたかも知れない。
それほどに、クリストファーの攻めは容赦がなかった。
『グッガァァッ!!』
だが、流石にクリストファーの分身とも言える存在、幾度も繰り返されればある程度対応もする。
転がった先で跳ね起きて、襲い来る両の拳をガード、その間を縫って飛んできた蹴りを敢えて食らい、自ら後ろに跳んでそのダメージを殺したのだ。
かなりの間合いを開けて着地した『彼』の姿を見て、クリストファーは少しばかり眉を上げる。
「今の跳躍といい、立ってる姿といい……打撃のダメージが残っていない?」
呟きながら、クリストファーは『彼』をしばし観察する。
跳躍の距離は万全なクリストファーのそれと近く、着地した瞬間に足のふらつきもなかった。
今こうして見ても、表情に動揺は伺えるが、身体的影響はまるで感じられない。
考えてみれば、相手は恐らく精神的な存在が実態を持ったもののはず。
であれば、物理が無効であってもなんら不思議ではない。
「随分なハンデじゃないかな、これ」
今までの猛攻によるダメージが、実質ゼロ。
あるいはその事実だけでも心が折れかねないのだが……クリストファーは呆れたような顔をするばかりで、その顔に失意は見られない。
この程度の理不尽、姉を相手にする時に比べれば。
いや、その姉自身がこの理不尽には手こずったのだが、幸か不幸か彼はそのことを知らない。
試練の詳しい内容を話すことは、ガイウスから固く禁じられていたからだ。
こうして実際に体験してみれば、事前情報が禁じられた理由もわかるというものだが。
ともあれ、クリストファーはまだまだやる気に満ちていた。あるいは殺る気に。
「さて、どうしたものかな……」
思案げな顔をしながら、一歩、また一歩と近づいていき。
『彼』の間合いから数歩離れたところに至った瞬間、ダッシュ。
それを見た『彼』は自然体に構えていた両手が顔を守る位置まで上げ、腹にも力を入れて蹴りにも備えていた。
だから。
クリストファーの姿が一瞬で消えたのに、反応し切れなかった。
ダッシュで間合いを詰めたクリストファーは、その勢いのまま『彼』の左足を両足で挟み込むようにスライディング。
左足に左足を絡みつかせながら右足一本で立ち上がり、『彼』の背後を取る。
「せぇ、のぉっ!」
片足立ちになったせいでバランスを崩した『彼』の首に薙ぎ払うような勢いで右腕を回し、左腕で『彼』の左腕を固めながら地面にうつ伏せの形で押し倒す。
首、腕、足、三カ所を固められてしまえば、如何に『彼』の膂力が並外れていたとしても、返すことなど出来はしない。
「これで終わりだ、降参しろ!」
『グガァ!! グガァ!!』
首を、腕を、それぞれに締め上げて降参を促すも、『彼』の抵抗は止まない。
それどころか、何としてでも逃れようと関節を軋ませながら必死に暴れて振りほどこうとしている。
「往生際が、悪いっ!」
声を荒げながら、クリストファーは対抗するかのように強引に締め上げた。
強引、といっても相手の力をただねじ伏せるのではなく、力で押し切るようにしながらも『彼』が力を入れる方向を感じ取って正面からはぶつからないようにと、感覚、技術を総動員しての締め上げ。
姉や父との稽古の中で培った彼の感覚は、ボコられる側だからこそ磨き抜かれていた。
足掻けば足掻くほど、もがけばもがくほど締まっていく首と腕。
強引に、しかし着実に隙無く追い詰められていく『彼』に、最早逃れる術はない。
その事実を打ち消さんと暴れ、もがき、足掻き。
しかし、ついに折れた。『彼』の心とでも言うべきものが。
がくりと急に力を失い、床へと突っ伏すと……その身体の輪郭がぼやけ、その形すら失い始めた。
「これ、は……終わった、ということか?」
「いや~、こういう終わりは全く予想しておらなんだがのぉ」
確認するように呟いたクリストファーの言葉へ、それこそ予想だにしていなかった声がかかる。
慌ててそちらへと振り返れば、水色の髪の少女。
「え、精霊様? どうしてこんなところへ?」
「こんなところと言ってしまうのはどうなのかえ、一応そなたの内面世界なのじゃぞ?」
「あ、やはりそうだったんですね……これが僕の内面だと言われると、色々複雑なものがありますが」
呆れたように言う水の精霊へと、納得したような顔で返す。
青い炎が燃えさかるこの場所が自分の内面を象ったものであり、そして消えゆく『彼』が自分の一部であるということは、なんとなくわかってはいた。
だが、それらの持つ暴力性を他人に見られるのは、己の未熟さを見られるようでどうにも恥ずかしい。いや、人ではなく精霊ではあるのだが。
「いや、複雑なのはむしろこちらなのじゃが。まさかの喧嘩殺法から始まって、徹底的に容赦のないガン攻めを重ね、挙げ句にスライディングからの関節技などという変則技でフィニッシュじゃし……予想外に継ぐ予想外の連続で、見ていてわらわの開いた口が塞がらなんだわ」
「ご覧になってらしたのですね、お恥ずかしい」
「ちぃとも恥ずかしがっとるようには見えんがのぉ。
まったく、これはもうレフェリーストップをかけるしかあるまいと思わず乗り込んでしもうたが、タイミング悪く丁度そこであやつも折れるし」
はふ、と大きく溜息を吐き出す少女。
それを見たクリストファーは、ふと首を傾げる。
「あやつ、とおっしゃいましたが、精霊様は『彼』のことをご存じだったんですか? 『彼』は、一体?」
「あ~……まあ、知っておったと言えば知っておったのぉ。
そなたも予想はついておろうが、あやつがそなたらプレヴァルゴの者が抱えて生まれる力の根源であり、一生折り合いをつけていかねば成らぬ暴力性が形をなしたものよ。
あのやり方で、折り合いをつけたと言ってよいのかはわからんが」
「まあ、腕を折り損ないましたしね」
「それ、あんまり上手くないからの!?」
普段ツッコミ役であるクリストファーにツッコミを入れる水の精霊のそれは、中々に鋭い。
若干、疲れたような顔にもなっているが。
それは疲れているというよりも。
「何やらご不満そうですが……」
「いや、不満というわけではないのじゃが……ないのじゃが、こう、これじゃない感というか。
もうちょっとこう、誰々のために負けられないじゃとか、自分の弱さに負けてたまるかとか、そういうメンタルな盛り上がりで打ち勝つみたいなのを予想しとったのじゃよ。
それが蓋を開けたらまあ、思い切り良く、それでいてシステマティックに淡々と潰していく潰していく。
いや、そなたの精神的課題を乗り越えたのはわかったし、ある意味そなたにとっては正解だったのじゃが……」
クリストファーの問いに答える水の精霊からはつらつらと煮え切らない言葉が連なっていく。
言われて見れば、確かに物語のお約束などからは随分と離れてしまったかも知れない。
まあ、そのお約束に従う必要があるのかと言われたら、それはまた別問題ではあるのだが。
「しかし、逆に考えれば感情ではなく理論や理屈、理性で押さえ込んだと言えなくもないわけじゃな。納得はいかんが」
「おかしいですね、聞いているだけならばその方が良いはずなのですが」
今だ納得していない様子の水の精霊へと、返すクリストファーの言葉も若干同意気味である。
何か違う、と言われても仕方ない気はする。
しかし同時に、今の彼にとってはあれがベストだったのだとも思う。
間違いなく、自分の壁を乗り越えた……いや、壊してぶち抜いた手応えはあったのだから。
「まあよい、そなたが試練を乗り越えたのは間違いないのじゃから。それは、わらわが認めよう」
「あ……ありがとうございます」
そう、言われて思い出したのだが、これは『水鏡の境地』へと至るための試練。
それをクリアしたのだ、クリストファーは。
良く見れば、周囲で燃えさかっていたはずの炎もいつの間にか消え失せている。
「さあ、外の世界に戻り確かめるがよい、そなたが至った境地を!」
その言葉と共に、クリストファーの意識がゆっくりと遠のいて……失われ。
一瞬の後、はっと目を開けば、クリストファーは泉の中央に戻っていた。
いや、身体の冷え具合からして、肉体はずっとここにあったのだろうから、精神が戻って来たと言うべきか。
そんなことを冷静に観察している、落ち着いた心境。
ぶわりと泉に水の魔力が満ち、それが青い光の柱となって立ち上がる。
それは、メルツェデスが『水鏡の境地』に至った時と同じ光景。
クリストファーは今、姉が至った場所へと、同じく至ったのだった。




