風も氷も踏み分けて。
ブーツも履かずにテントから一歩外に出た瞬間、クリストファーは空気の違いを感じた。
寒い、はずだ。そのはずなのに。
日も落ちてすっかり暗くなった雪山は、冬の弱い日差しの温かみすら失って凍り付くほどに冷え切っている。
そのはずなのに、クリストファーの身体には寒さがほとんど感じられず、むしろ冴え冴えと澄んだ空気が心地よいほど。
そして、彼の感覚はそれ以上に冴え渡っていた。
素足が踏みしめた雪が崩れていく、潰れていく流れ。
巻くように荒れる風の動きと、それが揺らす木々の音。
その向こうにいる動物たちの息づかいまで感じ取れそうだというのに、クリストファーは少しばかり驚き、しかし心は揺れ動かない。
身体の動き、筋肉の一つ一つまで意識が行き渡りそうな感覚の中、視界だけが曖昧だ。
景色は流れている。ただ、それが酷くゆっくりと感じる。
歩いているのか走っているのか区別がつかない、あるいはそれが些細な違いでしか無いような時間の中、いつの間にかクリストファーは泉の傍へと至っていた。
身も心も、構えることなく右足を泉へと浸せば、噛みつくような鋭い冷たさが素足を包む。
冷たい。
客観的事実としてそのことを知覚しているというのに、クリストファーの顔にも心にも動揺は見られない。
躊躇うこともなく踏み込み、さらに左足も水の中に入れれば、両足から伝わってくる水底の感触。
砂が多めで、石もあちこちに。
歩き出せば水がかき回され、その流れも皮膚に伝わってくる。
数歩進めば、流れの歪みから石がどこにあるかまでわかってきた。
目に頼らない知覚というものを、父であるガイウスも、姉であるメルツェデスも言っていたのを思い出す。
クリストファーとてある程度はわかっていたが、ここまでの感覚ではなかった。
もしや、これが父や姉の感じ取って居る世界なのだろうか。
「だったら、打ち込めないわけだよなぁ……多分、僕がどう動くかなんて丸わかりだ、これ」
ぽつりと零し、小さく息を吐き出す。
そういえば、夏のキャンプ以降、メルツェデスから一本を取れた記憶が無い。
負けること自体は当たり前になっていたから気にしていなかったが、以前であればもう少し太刀打ちが出来ていたように思う。
しかし、取れなかった原因が、この感覚の違いだとすれば。
「……父さんに今習得したいってお願いしたのは、正解だったかもな……これじゃ、ほんとに僕一人置いてきぼりだ」
住んでいる世界が違うレベルでの差。
それが、実感としてわかる。わかった。
そこに今片足を突っ込めたのならば、それだけでも来た甲斐があったというものだろう。
「それで終わらせる気はない、けれどっ」
口にしながら、横に半歩ずれる。
と、彼の顔の横を、吹き出した水が通り過ぎていった。
わかる。
いつ、どんな攻撃が来るのか、わかる。
右、左、背後。
あらゆる方向から飛んでくる水の塊を、人間の身体と違って予備動作などないそれを、次から次へとクリストファーはかわしていく。
その光景は、以前メルツェデスが倉庫の戦闘で見せた理不尽な回避にも似ていて。
残念ながらクリストファーはその光景を見たことはなく。
当然、彼の中にいる『何か』もそのことは知らず。
だから、理不尽で応じようとしたのも、ある意味仕方のないことだった。
「そうくる、よなっ」
クリストファーが感知したのは、全方位からの同時攻撃。
回避する隙間のない、回避させる気のないそれは、まさに理不尽。
だが、しかし。
「知ったことかぁ!!」
クリストファーが選択したのは、前進だった。
身を貫く刃であるまいに、何を恐れることがあるものか。
開き直りとも言える程に腹を括ったクリストファーは、目は腕でかばいながらも前方から迫り来る大量の冷水へと吶喊。
当然視界は塞がれるが、今のクリストファーにとってそれは、あまり大きなハンディにならない。
相手がメルツェデス並みであれば別だが。
だが、この相手は、メルツェデス並みではない。まだ及ばない。
きっとそれは、彼自身なのだから。
だから。
「ぬるい。ぬるいぬるいぬるいっ! そんなもので止められるかぁ!」
初日、あれだけ翻弄された噴き上がる水柱を踏みしめ、吹き付ける水の弾丸を叩き落とす。
この泉の攻撃が己の心の内から来るのであれば、その甘さもぬるさも、己の内から来たもの。
やると覚悟を決めた今のクリストファーは、その程度では止められない。止まらない。
全ては避けられない。ならば、避けなければいい。
今のクリストファーには、どこから来るか、どう来るかがわかる。
いやらしいことに、それら全ては避けきれない、あるいは避けることが更なるドツボへ誘導する罠だったりするのだが、クリストファーはそれを見切っていた。
まず根本的に、食らっても死にはしない。
であれば、食らっても押し流されないように。倒されないように。
見切り、押し切ったクリストファーは、ついに泉の中央へと到達した。
後はここで、心を落ち着かせ集中させるのみ。
当然、ここから回避は出来なくなる。
だからクリストファーは、ざっと両足を肩幅ほどに開いて、不動の構え。
ここぞとばかりに水が噴き上がり、周囲から水の弾丸が叩きつけられる、のだが。
「来るとわかっていれば、どうということはない!」
回避することを完全に捨てた、全てを食らう覚悟を決めたクリストファーは、どれだけ凍るような冷水に激しく曝されようとも怯まない。
それだけずぶ濡れになってしまえば、風がわずかに吹くだけでも身体の熱はごっそり奪われていく。
そのはずだ。
だというのに、身体の内側から熱が湧き上がってくるような感覚。
冷えで体力が奪われ身体が揺らぐことも、意識が遠のくこともなく。
クリストファーは、当たり前のごとくそこに立つ事が出来ていた。
「ははっ、出来てしまえば、こんな簡単なことだったなんて、ね」
湧き上がってくるのは、自嘲の気持ち。
だがそれを、ぐっと飲み込む。
こう思うのは、出来たからだ。出来るとわかったからだ。
今までは出来なかったからわからなかった。それだけのことだ。
「斬れるかどうかではない、斬るのだ、ってこういうことか……だったら、後は」
立てるかどうかではない、立つのだ、ここに。それが、出来た。
ならば次は。
やれたという高揚を掴まえ、脳から引きずり下ろしていく。感覚として、そんな操作をしていく。
喉元を過ぎて、更に下。胃の腑に飲み込み、腹の底。
熱は腹に、頭は冷えて。
身体には力が満ち、思考は落ち着き冴え渡る。
入り口を、掴んだ。
そんな感覚を覚えた瞬間、クリストファーの意識は、どこか深いところへと飲み込まれていった。




