踏み出す意味。
「よし、わかったのならばさっさと行かないと」
「ちょちょちょぉい!? ま、待つのじゃ、まさか今から外に行くのかえ、もう夜じゃぞ!?」
隣をすり抜けて外へと向かおうとしたクリストファーの腕を引いて、水の精霊は彼を引き留めた。
異様に滑らかな動きでその起こりが掴めず、狭いテントの中だというのに脇をすり抜けようとしていたところでようやっと掴めた事実に、人ならぬ身の彼女ですらぞっとする。
これがプレヴァルゴ。鍛えられた彼らは、この年若さであってもその身のこなしは常人ならざるものらしい。
焦りと感心を混じらせた精霊の前で、クリストファーはテントの入り口に手をかけていた。
見れば、確かにすっかり日が暮れてしまっている。
「……あれ、ほんとだ……いつの間に」
「いつの間にも何も、普通に時間が流れて、じゃぞ? まったく、夕餉の時間になっても煮炊きの煙が上がっておらんから心配して来てみれば、何のことは無い、寝こけておったのかえ」
「はあ、お恥ずかしい話ですが、どうやらそのようです……?」
驚きのあまりに動きが止まったクリストファーへと少女が少々むくれたような声で言えば、返って来るのはやや呆然とした声。
幾度か瞬きをして見直すも、変わらない現実にクリストファーは小さく溜息を吐いた。
「うっそだろ、ちょっと横になっただけなのに……それとも疲れが溜まってたのかなぁ」
「それはそうじゃろ、この寒さじゃ、人間の身であれば知らず知らずのうちに普段とは違う疲労が積み重なるわ」
「わかってはいるつもりでしたが……つもり、だったみたいですね……」
悔しげに眉が歪み、唇を噛みしめる。
自己管理がどれだけ大事かはわかっていたのに、管理しきれなかった。それが、何とも口惜しい。
しばし自責の念に駆られていたクリストファーだったが、ふと気付いたように顔を上げた。
「……そういえば、心配して来た、と? 確か姉の時にはいらっしゃらなかったはずですよね」
「うむ、そなたの姉上は夏じゃったし、毎日ちゃんと帰っておったからのぉ、心配することはそうそうなかったわいな」
そう言いながら、水の精霊はじろりとクリストファーを見る。
少女の姿をしているのにやたらと圧があるのは、やはり精霊だからだろうか。
もっとも、これだけのプレッシャーを放つ少女の姿に、違和感はあまりない。
姉で慣れているからだろうか、と愚にも付かないことがクリストファーの胸をよぎる。
そんな彼の前で、少女の話は続いていた。
「次は来年か、楽しみじゃと思っていたところに、そなたがこの冬山に登ってきた上に、テントを張って山ごもり体勢で修行をし出したではないかえ。
プレヴァルゴの跡継ぎに万が一があっては困るゆえ、気にしておったというわけじゃ」
「な、なるほど……言われてみれば……」
考えて見れば、あのガイウスですらすぐには首を縦に振らなかったのだ、相当に常軌を逸した行為と言える。
クリストファー本人としてはそれを承知の上で来ては居るが、傍目には自殺行為以外の何ものでもないだろう。
「それは、なんといいますか、ご心配をおかけして申し訳ございません」
「まったくじゃ。そなたらプレヴァルゴがいなくなっては、この山の清浄が保てん可能性がある。
そうしたら、わらわの住むところが減るではないかえ」
「え。いや待ってください、それ初耳なんですが!?」
「およ? なんじゃ、まだ教わっておらなんだかえ。まあそなたは成人前のようじゃし、最近は魔物も減っておるからのぉ」
慌てるクリストファーを不思議そうに見た後、一人納得した水の精霊は語り出した。
なんでも、例の魔物が退治された後も、この辺りには魔力を食い物にする魔物が他の地域よりも多く出現していたらしい。
それを退治するのもプレヴァルゴ家当主の仕事であり、この山で時折軍事訓練を行うのは、その見回りも兼ねているのだという。
もっとも、ここ十数年ほどは出現が見られないため、最近は軍事訓練に主眼が置かれているが。
「だから毎年、この辺りでキャンプをしてたのか……見つけ次第、物理で殴れるから。なるほど、納得しました」
「そういうことじゃな。ま、そなたのお父上であれば、一年物程度であれば一人で十分であろうしの」
「そんな、ワインみたいな表現をされましても……」
楽しげに笑う少女に、クリストファーとしては苦笑を返すしかない。
残念ながら、魔物がまた出るかも知れないと言われて気楽に笑える程、彼の肝はまだ太くない。
そして何より。
「そもそも、僕が跡を継いだら、今度は僕が退治しないといけない、わけですよね?」
「別にそなた一人で対処する必要も義務もないがの、対処する義務は負うことになるから、今のうちに鍛えておくにこしたことはないぞよ?」
げんなりとした表情を見せるクリストファーへと、水の精霊である少女は笑って見せる。
彼女に取っても他人事ではなかろうに。それとも、それだけクリストファーやプレヴァルゴを信頼しているというのだろうか。
それはそれで、若干気恥ずかしい気もするが。
しかし、その信頼に応えたい、とも思う。
「やっぱり、鍛えるしかないですよね。なら、やはり早速」
「ちょちょちょぉい! じゃから、なんで改めてこの時間に行こうとするのじゃ!
そなた、その見た目で思ったよりもせっかちで向こう見ずじゃの!?」
また外へ出ようとするクリストファーの袖を掴むも、彼の表情を見るに、止められる気がしない。
しかし、ただでさえ自殺行為な修行だ、本当の致命傷になりかねないのだから、必死に止めようというもの。
だが、そんな水の精霊へと、クリストファーは瞳に力強いものを宿したまま、首を横に振った。
「せっかちでも向こう見ずでも、今やらないと、明日になったらこの気持ちが萎えているかも知れません。
自分でいうのも何ですが、僕は慎重すぎるきらいがあります。
その方が良い時もありますが……多分、僕の中にある壁が崩せない一番の原因がそれなんです。
そして、その壁が崩せなかったら、僕は決して『水鏡の境地』に辿り着けない、そんな気がしてならないんです」
「む、むぅ……そこまで言われてしまうと、わらわとしてもこれ以上は止められないではないかえ」
彼女から見ても、クリストファーの慎重さは時に足かせとなっている側面があるのではないか、とは思っていた。
もちろんそれはそれで美徳になる時もあるのだが、今後彼が遭遇するであろう場面を考えると、それだけではいけない、と言われれば反論も出来ない。
時に戦場においては、巧遅よりも拙速、果断さを求められるものだから。
「ご安心ください、向こう見ずかも知れませんが、考え無しではないつもりです。
こうして、逃げ込める場所を作っているからこそ思い切れる、なんていう小賢しさもありますし」
笑って見せた後、ふと気がついたような顔になれば、クリストファーは一度ストーブの傍へと戻る。
寝入っていたせいかほとんど薪が燃え尽きかけていたところに細い薪を足して、火がまた上がりだしてきたところでさらに太めのものを数本入れた。
燃え具合を見て、これならば消えることもなかろうと一つ頷いて。
それから、また水の精霊へと向き直る。
「僕に、父や姉の真似は多分出来ません。けれど、僕なりのプレヴァルゴらしさ、為すべき事を為す覚悟というものがきっとある。
それを手に入れるのは、今をおいて他にないと思うのです」
「はぁ……そなたもまたプレヴァルゴじゃよ、開き直った時の肝の太さは変わらんのぉ」
「あはは、お褒めに預かり光栄です」
「あんまり褒めとるつもりなかったんじゃがの!?」
もしかしたら、彼を知る人がこの光景を見たならば、驚くかも知れない。
クリストファーがツッコミを入れられている、と。
普段メルツェデスへのツッコミ役の一人として日々苦労している彼が、ツッコミを入れられている。それも、水の精霊という恐れ多い相手から。
もしもこの場にエレーナがいたら、今後のことを考えて胃が痛くなったかも知れない。
「いえいえ、僕にとっては褒め言葉です。いざという時に開き直れるようになったのなら、きっとそれは成長ですから」
彼は知っている。
やると決めた時に見せる父や姉の肝の据わり方を。そして、その時に発揮される力を。
きっとそれこそが、彼に足りないものであり、手に入れなければいけないもの。
遅くなってしまう前に。
「それでは。クリストファー・フォン・プレヴァルゴ、参ります!」
宣言して、クリストファーは雪降りしきる夜の泉へと向かって駆け出した。




