ある種の温故知新。
「ああ、なるほど……これは失礼をいたしました」
少女の言葉に納得したクリストファーは、構えていた小剣を左手に持ちクルリと回して逆手に握り、背中の後ろに隠し膝を衝く。
王族へとするように恭しく頭を下げれば、水の精霊を名乗る少女はぱたぱたと手を振った。
「いやいや、急にそんな畏まらんでもよいぞ?」
「そういうわけにもいきません。私はクリストファー・フォン・プレヴァルゴ、水の精霊様より加護を賜っているプレヴァルゴ家の人間ですから」
「それを言うなら、わらわの方こそ、じゃがのぉ。そなたの先祖には随分と世話になったことじゃし」
かしこまったままのクリストファーを前に、困ったような声でぼやく少女。
流石に困らせるのは本意でないと、クリストファーは顔を上げた。
「ということは、我が家の先祖が水の精霊様を助けたという言い伝えは、真でございましたか」
「うむ、わらわの天敵とも言うべき魔物を退治してくれてのぉ。あやつが倒してくれねば、最悪わらわは魔物に吸収されておったからのぉ」
「……はい? せ、精霊様を吸収、ですか……?」
当時を思い出したのか楽しげに少女が言えば、クリストファーは思わず聞き返す。
こうして目の前にして感じる、水の精霊の強大な力。
それを吸収するような恐ろしい魔物がかつてこの地にいたとは。
そして。
「そんなとんでもない魔物を、うちの先祖が退治したのですか……?」
愕然とした顔のクリストファーへと、苦笑交じりの顔で少女は頷く。
「ああ、そうじゃ。まあこれは、相性が大きかったのじゃが」
「相性、ですか?」
「うむ、なんせあの魔物は、周囲の魔力を食らい尽くす勢いで吸収するような魔物じゃったからのぉ。
その結果、川の魔力も生命力も失われ、死の川と化しておったのじゃ。もちろん、近くにいたわらわも力を吸われ、存在が消滅するところじゃった」
「存在が消滅って、もしそんなことになったら……」
水の精霊にとってはすでに過去のことだからか、あっけらかんと語られる内容に、理解出来るからこそクリストファーは背筋が冷たく凍るような感覚を覚えていた。
川のありとあらゆる生命が奪われてしまえば、下流がどうなるか。
何より、水の精霊が消滅してしまえば、王国の水事情がどうなってしまうか。
「……もしかして、うちが伯爵家の割に優遇されているのは、それもある……?」
言うまでもなく、水がなければ人は生きていけない。
もしもこの山から流れる水が使えないものになっていたとしたら。
そして、そのことをわからぬほどエデュラウム王家は愚鈍ではない。
などと考えていたのだが。
「いや、そもそもの武勇で優遇されておるだけじゃと思うぞ?」
「はい?」
あっさりと言う少女に、クリストファーはがくっと崩れそうになってしまった。
呆気に取られた顔のクリストファーを前に、水の精霊はしみじみと語る。
「何しろ、魔力や精霊力を吸いまくって小山ほどに肥大化しておったあれを、剣一本で仕留めおったからのぉ」
「はぁ!?」
語られた内容の、あまりにあまりな内容に、クリストファーは思わず声を上げてしまったのも仕方ない。
小山ほどの大きさの魔物など、対峙するのにも一苦労だろうに、それを剣一本など。
「そなたのお父上と姉上ならば出来そうではないかえ?」
「え。……いや、まあ……出来そう、ではあります、ね……?」
少女に言われ、クリストファーは言葉に詰まる。
実際、ガイウスは身の丈3m近いミノタウロスをランスチャージ一発で吹き飛ばしたらしいし、メルツェデスなど怪獣大戦争とでも言いたくなる修羅場を乗り越えたらしい。
であれば、でかいだけの魔物であれば、対処出来てしまうのだろうか、と思い至ってしまう。
普通ならば、出来るあの二人がおかしいのだと思うところなのだが。
「であろ? まあ、流石に人間の身でそうそう出来ることではないが……出来る人間がおったことが幸いじゃったのぉ。
とにかくそういった経緯でわらわは助けられたのじゃ、わらわでは対処出来ぬ魔物じゃからな」
「なるほど……しかし、それは我々人間としても幸いでしたね、そんな魔物が手に負えない程に成長していたらと思うと」
「そうさなぁ、流石にあれ以上大きくなっては、プレヴァルゴの者とてきつかろう。
もうあの時点でほぼほぼ魔術は無効、どころか吸収されて利用されておったようじゃし」
「……それは、この泉にこの前の夏に来られたヘルミーナ・フォン・ピスケシオス様の魔術でも、でしょうか?」
語られる内容の恐ろしさに鳥肌を立てながら、ふと浮かんだ疑問。
理外の力と発想と神経を持つヘルミーナの魔術であればあるいは、と思ったのは、ある意味正しいだろう。恐らくメルツェデスでもそう考える。
しかし返ってきた言葉は。
「残念ながら、あの者であっても吸収されたじゃろうなぁ。
あれはなんというか、この世界に出来た裂け目が肉体を持ったようなものじゃったからのぉ」
「ヘルミーナ様の魔力でも……ということは、力の大きさは関係ない。つまり、底の抜けた桶のように、魔力がそこからどこかへ零れていく、ということでしょうか?」
「うむ、その通りじゃ。そなた頭がよいのぉ、どれ、褒めてやろう」
「ちょっ、お待ちください、頭を撫でられて喜ぶ歳ではありません!」
膝を衝いた状態であれば身長差など関係なく、少女の手はクリストファーに届く。
だからといって大人しく撫でられるのをよしとするわけにはいかない思春期少年は、器用にも膝を衝いたままの状態でしゅざっと後ろにずり下がった。
残念ながら頭を撫でようとした手が空振りした水の精霊は、なんとも不満そうに唇を尖らせる。
「なんじゃ、ちょっとくらいよいではないかえ。それとも何か、わらわからの労いは不要と申すかえ」
「出来れば別の形でいただきたく思うと言いますか……そもそも、お褒めいただくようなことではありませんし。
しかし、そんな存在であっても、宿っていた肉体を物理的に壊されれば裂け目を維持することが出来なかった、ということでしょうか?」
むくれたように頬を膨らませる水の精霊に、ちょっと可愛い、などと考えてしまって、いやいや、とクリストファーは小さく首を振る。
相手は神聖とも言っていい存在。如何に卑近な態度であろうとも。
心を立て直したクリストファーの内心を知ってか知らずか、問い返された少女はこくんと頷き返す。
「そういうことじゃろうな。流石にあの状況では細かく検分することはできなんだが……『虚無』としか言いようのないものが獣の肉体に宿っており、それを破壊することで霧散させることが出来た、というところじゃと考えておる」
「なるほど。……それですと、肉体を破壊すれば問題は解決する。つまり、うちのご先祖様がやらかしたことは正解だった、と」
「むしろ、たった一つの冴えたやり方というものじゃったろうなぁ。わらわ含め、他の者はそんなことが出来るなどとは全く考えておらなんだし」
「まあ、普通は出来るだなんて思いませんよね……」
そう応じたところで、クリストファーは言葉を切った。
そう、出来るだなんて思わない。それは、もしかしたら先祖とてそうだったのかも知れない。
しかし、それしかない。やるしかない。出来るかどうかではない。やるのだ。
「……そっか、それが、プレヴァルゴの家訓……」
一人納得したように呟く。
攻撃魔術が一切通用せず、むしろ相手の身体を大きくしてしまう状況。
打つ手はない、試していないのは物理攻撃だけ。そして、相手は小山ほどの巨大な相手。
歯が立つわけが無い。
想像しているだけのクリストファーでもそうなのだ、実際に直面した先祖は、更なる絶望に襲われていたことだろう。
けれど。
それでも彼は挑んだのだ。剣を振るったのだ。
一瞬で押し潰されそうな相手に。
そう思い至れば、じん、と胸に広がる熱。
その血が、自分の身体の中に流れていることの、なんと誇らしいことか。
知らず、クリストファーは己の胸を、心臓の上を、掴んでいた。
「ど、どうしたのじゃ、一体何事じゃ?」
そんなクリストファーの内心を知るよしもない精霊が若干慌てるも、今のクリストファーにそれを気遣う余裕はない。
「ありがとうございます、精霊様。やっと僕が囚われていた課題を解決する糸口が見えました」
吹っ切れたような声で言うクリストファーの声は、それに似つかわしく晴れ晴れとしていた。




