それぞれの心意気。
こうして彼らは、それぞれの場所でそれぞれに成すべきことを励むことになった。
例えばリヒターはその後閲覧可能時間ギリギリまで本を調べ。
クリストファーは日が昇る頃に起き出して一人寒稽古に励んだ後、泉の試練へと挑む。
そしてジークフリートは、いよいよ模擬戦の朝を迎えていた。
少し予定時刻よりも早く起きてしまったが、頭が鈍かったり身体が重いということもない。
寝台から下りて軽く身体を動かしてみれば、良好なコンディション。
早めの朝食が喉を通らないということもなく、充分に栄養を摂ることも出来た。
「……そういえば、あの時は最後エネルギー切れだったもんなぁ……」
思い出すのは初夏の『魔獣討伐訓練』でのこと。
全ての敵を撃退し、勝ち鬨を上げた直後にジークフリートはエネルギー切れを起こして倒れそうになってしまった。
ついでに、その時支えてくれたメルツェデスの腕の感触や匂いを思い出してしまいそうになって、ぶんぶんと首を横に振って邪念を払う。
あれは彼にとって、ふとした瞬間に思い出してしまう青春の一ページとなったのだが、今日はそれに浸っている余裕はない。
気を抜いて挑めば、徹底的にボコられた挙げ句に黒歴史と化してしまうだろう。
何より、そんなことになってしまえば近衛騎士達に申し訳が立たない。
「そういうのは後からでも充分、今は訓練に集中だ」
ぱん、と己の頬を両手で挟むように張ったジークフリートは、訓練用の服に着替えてから迎えに来た護衛のギュンター達と合流し、訓練場へと向かった。
王城近くにある近衛騎士団の広大な訓練場には、騎士や兵士達の宿舎や食堂、会議室などが入っている建物がある。
そこで模擬戦前に朝のミーティングを行うため、ジークフリートは早めに出てきたのだ。
会議室に入れば、既に十名ほどの騎士達が待っており、ジークフリートを見て一斉に立ち上がって胸に手を当て礼をする。
今回の模擬戦は500名対500名の、訓練としてはかなり大規模なもの。
当然、まさか全員を集めるわけにはいかず、今この場に居る者達は指揮官以上の者達だ。
言わば全員が現場責任者であり、これからジークフリートが執る指揮の直接的な影響を受ける者達である。
その事実はもちろんジークフリートもよくわかっており……そんな彼らが、不平不満など欠片も見せずにこの場にいる事実に、背筋が伸びる。
例えそれが演技であろうとも、彼らは従順に表向きはジークフリートを指揮官として受け入れた。
残念なことに、それが意味することを理解出来ない程ジークフリートは愚鈍ではなかった。むしろ、理解出来すぎる程に。
だから彼は、会議室に入って、居並ぶ騎士達を目の前にして改めて決然とした顔を作り。
「みんな。今日は、すまない!」
いきなり、頭を下げた。
突然かつまさかの態度に、居並ぶ騎士達……それも、指揮官級以上のベテラン達は度肝を抜かれる。
ある意味当たり前ではあるのだが、彼らは王族から頭を下げられたことなど、ない。
国王であるクラレンスは勿論のこと、王太子になると目されている第一王子エドゥアルドからも。
それは、彼らの立場からすれば当然とも言えるのだが。
だが。
第二王子であり、万が一の時には王太子にもなり得るジークフリートは、躊躇うこともなく頭を下げた。
そして、近衛騎士団の指揮官級以上である彼らは、それが意味するところを理解する程度の知能は充分にあった。
だが、その真意は流石に伺うことなど出来ない。
何故、いきなり、王族である彼が頭を下げるのか。
動揺が広がりかけ、しかし彼らはそれを飲み込んだ。
平然と、あるいは何とか。
この辺りは、それぞれの経験の差かも知れない。
それぞれの反応を見せる彼らの前で、ジークフリートは言葉が足りなかったことに気付いたか、やや口早に言葉を重ねた。
「ああ、すまないと言っても、負けるからという意味ではない。
というか、模擬戦であろうとも最初から負けるつもりで挑む指揮官など、その時点で失格だろうからね」
頭を掻きながら苦笑しつつ。それでも、その顔は怯んだ様子もない。
むしろ、強面の多い歴戦の指揮官達を前に腰が引けた風もなく、普段通りとも言えるような口調で。
ジークフリートの若さと不釣り合いなその落ち着きようは、色々な意味で近衛騎士達を刺激したらしい。
「殿下、質問をよろしいでしょうか。つまり負けるつもりはない、勝つつもりであらせられる、ということでよろしいでしょうか?」
発言の許可を得てから質問を……質問の体を装った煽りを入れたのは、中隊指揮官。
今回の訓練において根幹を握ると言っても良い、伯爵家の人間だった。
先の三十年戦争においても従軍した彼の貫禄は重く、声も視線も、若造の一人や二人はそれだけで腰を抜かしそうなほど。
だというのに、ジークフリートが返したのは……笑みだった。
「いや、それは違う。だからこそ、謝罪したのだけれど。
今回目指すのは勝つことではなく、『負けない』ことだ。そして、そのために卿らには武功の上げられぬ戦いを強いることになるだろう。
だから私は、謝罪したのだ」
まだ若干十六歳、ようやっと十七歳に届かんとしている少年が、歴戦の騎士達を前にして言い切る。
その胆力に感心の吐息を零しそうになったのは幾人か。
少なくとも、全員がそれを飲み込む程度の面の皮を持っていることだけは間違いないが。
そのおかげで僅かな動揺の気配はあれど大きくは荒れない空気の中、ジークフリートは言葉を続ける。
「今回の模擬戦、そもそもが私のような青二才の指揮下に置かれるという時点で、卿らの不満は私では計り知れないものだろう。
その上『勝つため』ではなく『負けない』ために戦うなどとなれば、尚更だ。
だがそれでも、卿らは昨日の作戦会議で、私の戦術を了承してくれた。そのことに対し、心から感謝する」
ここに居る騎士達は、それなりに上位な指揮官ばかりであり、それなりに社交界のやりとりにも慣れている。
そんな彼らが、呆気に取られた。
もう一度頭を下げたジークフリートの態度、その言葉の色。
いずれからも、偽りの匂いを感じ取れなかったのだから。
「しかし、だからこそ改めて聞きたい。貴殿らは、この模擬戦に理と利を見いだしてくれるだろうか。
打ち倒す戦ではなく、守り通す戦に……身を挺しても名を上げることのない戦に、身を投じてくれるだろうか。
すまない、騎士でない私には、その是非がわからないのだ」
張っているわけでもないのに、部屋の隅々にまで届く声。
それでいて、苦悩に満ちた迷う色。
矛盾したそれらを同時に成すのは、それもまた、ある意味で上に立つ者の資質なのかも知れない。
少なくとも今、この場にいる騎士達は、彼の言葉を笑みでもって迎えたのだから。
「これは異な事を仰いますな、殿下。元より我らは近衛、陛下や王族の皆様の元に侍り、御身をお守りするが使命と心得ております。
それは、例え訓練と言えども同じこと。
我ら一同、個人の誉れよりもそれが、それこそが何よりの誉れと解釈しておりまする故!」
近衛騎士団の団長が、皆を代表して応える。……一点の曇りもない、晴れがましい笑顔で。
それを見てジークフリートの内心に訪れるのは、安心と、更なる責任感。
この、これだけの面子から、期待と猜疑を寄せられている。
未だ信頼とは言えないそれらを、もしかしたら信頼へと変わるかも知れないそれらを寄せられていることの重みを、ジークフリートは頭で、そして胸で、背筋で感じ取っていた。
その上で。
彼は。
彼らの前で、立っている。
不安も滲ませながら、それでも、怯むことのない笑顔で。
「……ありがとう! 卿らの心意気、しかと受け取った!
我らはこれより、負けぬための、守るための戦に入る! 一堂の心からの奮戦を期待する!」
「ははっ! 御意にございます!」
途端に響く、軍靴の音。
十数人しかいないというのに、一糸乱れぬ動きで力強く床を踏みしめれば、その音は背骨を貫く程に力強くなる。
しかもそれが、一騎当千の古強者どもが、となれば尚のこと。
そんな彼らの、近衛騎士団の頼もしさを前に、ジークフリートは改めて背筋を伸ばした。




