前門の虎後門の令嬢。
「はぁ、はぁ、はぁっ、はっ、はっ!」
一人の男が、息せき切って走る。
豊穣祭の夜、あちこちで歌い踊る人々で賑わう王都の中、一人切羽詰まった顔で。
ほろ酔いの赤ら顔がそこかしこにいる中、顔面を蒼白にして走る姿は一種異様なもの。
それがまた、五色の光が降り注ぎ神々しくも華やかな王城から駆けてきたのだから尚更のこと。
当然一身に視線を集めているのだが、そんなことに気付く余裕は、欠片も無い。
人の多い大通りを走ることを諦めたか、男は曲がって路地へと入る。
それでも祭りの夜だ、一本曲がった程度ではまだまだ人はあちらこちら。
酒瓶片手に暢気な声で歌う酔っ払いどもを恨めしい目で見ながら、男は必死に足を動かす。
曲がっては走り、走っては曲がり。
どれほど走ったことだろうか。
人の気配も随分となくなった王都の日陰とも言える路地の奥、少し開けた場所にある物置のような場所へと辿り着いた男は、はぁ、と大きく息を吐き出すと、がくりと崩れ落ちそうになる身体を、両膝を鷲掴みにして堪える。
すっかり荒くなってしまった呼吸を、一度か、二度か。
落ち着かせる暇もなく、声がかかった。
「おい、男爵様。こいつは一体どういうことなんだ?」
「はっ、ぐぁっ!?」
余裕の欠片もなかった男……男爵と言われた彼は全く気配に気付いていなかったらしく、荒い呼吸が一瞬止まりそうになり、その息苦しさに咽せて、げほげほと咳き込んでしまう。
それは、モンテギオ子爵に親類が治める領地の収穫を教えた、そしてキャプラン子爵にご注進した男爵だった。
そんな彼……男爵に気遣う様子もなく、男が一人、ゆっくりと……足音もなく、近づく。
「のんびりしてる暇はないんだ、さっさと答えろ。あれは、どういうことなんだ?」
「ちっ、違うんだ、あれは、何かの間違いなんだ!」
「間違いなんざ、あっちゃ困るってんだよ!
あんたの策に乗って、確かにここまで上手くやってたよ。だが、昨日は襲撃が防がれて、可愛い部下連中が10人ばかり討ち取られた。
挙げ句に本命の演奏会は大成功ときた! どう落とし前を付けてくれるってんだ!?」
凄む男は、明らかに修羅場を潜ってきた者。
血と隣り合わせの日々を送ってきた者特有の、噎せ返るような殺気を纏っていた。
「ま、まて、まだ成功と決まったわけでは……」
そんな殺気に当てられて、それでも何とか言い返そうとした男爵は、まだ胆力がある方なのだろう。
並大抵の貴族であれば肝を潰して声もでないであろう濃密な殺気の中、それでもまだ、彼は立っていた。
今にも腰は砕けてしまいそうだったけれども。
「どう考えても大成功だろうが、ありゃぁ!!
あの王城に降り注ぐ光、あれは話に聞く『吉祥の瑞光』じゃねぇか!
あんなものが出ちまった以上、来年の大豊作は確実、俺等が狙ったのと真逆の結果だ!
どうしたらこんなことになるってんだよぉ!」
「ひっ、ひぃぃぃ!?」
感情のままに叫ぶ男の声に、男爵は情けない悲鳴を上げるしか出来ない。
そうしていながら視線は、男が示した先へと向かっていた。
その先では……現実とはとても思えない光景。
荘厳な王城へと、暖かな赤、安らぐ青、爽やかな緑、落ち着く黄色、そして清廉なる白の光が降り注いでいる。
それは、さながら伝説にある光景のよう。
そして、どう考えても、精霊の機嫌を損ねたとは言いがたい光景。
このエデュラウム王国で『精霊の祝福』と呼ばれるそれは、とある国では『吉祥の瑞光』というらしい。
新たな伝説にすらなりえる光景を示されて、男爵が何か反論をすることなど出来るわけがない。
「お前みたいな木っ端貴族にゃわからんだろうがな、これで我がチェリシアの戦略は大きな修正を余儀なくされる。
そのせいでどれだけの人員が、金が浪費されるかわかるか? わからんだろうな、お前には!」
激高する男は、そしてその周囲に居る部下と思しき男達も、一斉に短剣や小剣など、携行しやすい武器を抜き放つ。
それらが向かう先は、当然。
「ま、待て、待ってくれ! これは何かの間違いだ、時間をくれ、そしたら必ず何とか!」
「やかましい! これだけの失態を見せたお前に、時間をやったとて何が出来る!
むしろ生かしておいては要らぬ足が付きかねん。大人しくここで息絶えろ!」
「や、やめろ、やめてくれぇぇぇぇ!!! うわぁぁぁぁぁ!!!」
ガクンと腰が抜け、へたり込む男爵。
そこへと殺到する刃を避ける術など勿論無く。
ただ。
彼には、無かったが。
他に、何とか出来る者がいた。
ヒュン、と空気の切れる音。
「ぬぉっ!?」
咄嗟に反応したリーダーらしき男が短剣を振るえば、凄まじい勢いで飛んできた白扇が撃ち落とされた。
貴族令嬢御用達である優美な白扇と、その飛んできた勢いに、男達は何が起こったのか理解出来ない。
まあ、出来る方がおかしいかも知れないが。
「折角の豊穣祭に、こんな人気の無い場所で笑えないコントとは、何とも無粋なことですわねぇ。
それでもまあ、これを弾くあたり、先日の人よりは骨がありそうですけれども」
埒外のことをやってのけた彼女は、それが当たり前であるかのように現れた。
あるいは彼女であれば、一本のペンですら手裏剣代わりにしてしまいそうな、そんな雰囲気。
ハンナの手を借りて高速で舞台衣装から着替え、いつもの漆黒に朱色が入ったドレスを身に纏う淑女が、薄暗い裏路地に姿を見せる。
「なっ、何だ貴様は! ……いや、そのドレス、その顔、まさか貴様……」
うろたえる男達の中にあって、流石リーダーらしき男はすぐに持ち直し、観察力を取り戻したようだ。
更には、要注意人物の外見的特徴もしっかり頭に入ってたらしい。
ゴクリ、と唾を飲み込み、慎重に距離を測るのは彼女を警戒してのこと。
情報と、今目の前にいる彼女の佇まいを照らし合わせ……彼は、情報が古かったことを痛感する。
まして彼女は、男の高まる緊張など気にした風もなくカラカラと笑っているのだから、なおのことだ。
笑いながら彼女が一歩前に踏み出せば、それに合わせて男達が一歩、二歩、下がる。
突然現れた彼女に、男達は完全に呑まれていた。
「ご存じでしたら話も早い。お目に掛けて差し上げましょう、この『天下御免』の向こう傷!
メルツェデス・フォン・プレヴァルゴ。人呼んでプレヴァルゴ家の退屈令嬢とは、このわたくしのことですわ!」
高らかに告げながらメルツェデスが右手で前髪を払えば、勢いよく露わになる向こう傷。
その歪な三日月は、この薄暗い通りであっても真紅に輝いているように見えた。




