熱情の響いた先は。
二人が姿を見せた瞬間。
どぉ、と歓声が沸き上がりかけて。
慌てて声を飲み込み、周囲の人間を窘める声や仕草があちこちで見られた。
この国の基本的なマナーとして、格式ある演奏会で楽章と楽章の合間において拍手や声を上げることはマナー違反である。
そしてそれを当然今居る聴衆達、すなわち貴族階級の者達は熟知しているのだが……そんな人々であってすら、思わず声を上げてしまう程に高まっている興奮。
いや、それだけではない。
「……随分期待されちゃってるね」
「そうね、きっとロジーネのピアノを、よ」
「まったく、わかってるくせに。まあいいよ、今はそういうことにしておいてあげる」
小さく言葉を交わした二人は、一度舞台の中央付近へ。
そこまでユリアーナをエスコートしたロジーネはキャプラン子爵へと彼女を託し、そのまま進んでグランドピアノへと。
椅子を引き、腰掛けて、軽く高さを調整。先程まで使っていたのだから高さは合っているはずだが、一種のルーティンとして。
ふぅ、と小さく息を吐いてから顔を上げれば。
こちらを凝視している父、モンテギオ子爵と目が合った。
普段とはまるで違った、ギラつくような目。
2楽章を終えて、ここまで指揮をしてきて、すっかりテンションが上がってしまっているらしい。
そして残念なことに、その目が何を言っているのか、イヤでもわかってしまう。
『すまない』ではなく、『準備はいいか?』でもなく。
『いくぞ』
ただそれだけである。
突き放しているとも傲慢とも言えるそれは。
しかし、ロジーネならば出来るという信頼が無ければ成立しないもの。
だからロジーネは、不敵な笑みで答える。『誰にもの言ってんの?』と。
それを見たモンテギオ子爵の唇が少しばかり上向きにゆがみ。
そして、指揮棒が振られた。
最初の入りは、前楽章のイメージを引き継いだキャプラン子爵の重い声だった。
そこに、先程まで演奏していた楽団にズレることなく、ロジーネもまた寄り添うように重い音を滲ませていく。
響くほどには強くなく、消え入るほどに弱くはなく。
それは、いわば助走。
次に来るそれのための、抑えに抑えた音と声。
いつだ、いつ来るのだ、と聴衆の期待はいやでも高まっていく。
それに合わせてユリアーナの緊張も高まっていくのだが……同時に、高揚感としか言いようのないものもこみ上げてきた。
あるいは聞かれることもなく消えていくだけだったかも知れない自分の声が、待たれている。
とてつもなく重く、同時に、誇らしくもある。
だからユリアーナは、淀みない足取りで踏み出して。
マグマのように圧力が高まっていたそれを、解き放った。
一瞬で会場を白く染め上げてしまいそうな声。
隅から隅まで届き、空気という空気を震わせてしまいそうな圧力と。
魂をくすぐり震わせるような、優しくも甘い響き。
先程と同じ、いや、もっと豊かな音色を得たそれに、聴衆は酔いしれる。
ユリアーナの声だけではない。
彼女の声を、その甘さを引き立てる塩のような役割を、キャプラン子爵が見事に果たしていた。
深く渋く、しかし親子だからだろうか、混じり合っても違和感のない歌声。
それはユリアーナの声にしっかりとした幹を与え、どこまでも届くかのような歌声を成していく。
いや、キャプラン子爵だけではない。
ロジーネのピアノも、楽団の音色も、その全てがユリアーナの歌声の元に結集し、その輝きを高めていく。
その光景に、響く音楽に、誰よりも胸を熱くしていたのは、もしかしたらモンテギオ子爵かも知れない。
音が、ユリアーナの歌声を軸に、一つの塊を成していく。
彼が得意とする整然と纏まった楽曲、とはまた違う、むしろ一歩間違えば混沌としてしまいそうな程な個性の奔流が、しかし崩れることなく一つの塊として輝きを放っている。
盛り上がっている金管が走りすぎないように少し抑えて。
低音はもう少しだけ強めて、キャプラン子爵と調和するように。
弦楽はもっと踊るように弾けていい。
彼が指揮棒を振るう度に尖りかけた個性が全体のバランスを取り戻し、崩れかけた一つの音楽という体を取り戻していく。
そのことに、胸が熱くなる。
ああ、楽しい。
こんなにも、響く音が、楽しい。
輝くような音が弾け、消えてはまた浮かぶ。
響き合い、重なり合い、また新たな音が生まれていく。
……彼がイメージする通りに。時に、それ以上に。
気付いたその瞬間、モンテギオ子爵の目から涙が溢れてきた。
今この瞬間、指揮者としてこの音楽を率いていること。
こんな自分に、それでも全力の演奏を捧げてくれる楽団員達。
酷い裏切りをした自分の厚かましい願いを聞き届けて、最高の歌声とピアノを響かせてくれる二人。
せめて今この瞬間だけは、裏切ってはならない。
だから彼は、一層の熱を込めて指揮棒を振るう。
視界は涙で歪み、ろくに見えはしないが、構うものか。
楽譜は覚えている。楽団員の配置もわかっている。音を聞くだけで、どんなコンディションかもわかる。
耳は冴え渡り、一つの音も聞き逃さず。
脳髄に刻み込まれたバランス感覚が、熱意のままに指揮をしても楽曲を壊させない。
止まるな、いけ。
感情のままに。昂ぶるままに。少しばかり、冷静さを残して。
響け。響け。そして、届け。
この熱情が、聴いている全ての人に、少しでも。いや、一音も余すこと無く。
「……ほら、やっぱりそうじゃない。子爵様は、あんなものじゃなかったのよ」
小さく小さく。響く音色の邪魔にならぬよう小さく、メルツェデスが呟く。
退屈だったあの日のモンテギオ子爵は、その音楽は、もうどこにもない。
溢れる熱情の手綱をしっかりと握った、名指揮者の演奏が、そこにはあった。
会場にいる誰もが呼吸すら惜しむ程の高揚。
だが、その中で一人、展開が読めている……いや、展開を作っているモンテギオ子爵は、少しばかり哀愁を感じていた。
……ああ、終わる。終わりが、近づいてくる。
終わりたくないな。
けれど、壊したくもないな。
なら、仕方ないか。
一つ、また一つ、と音を終息させていく。
終わりへと向かわせながら、モンテギオ子爵は指揮棒ではなく、左手でキャプラン子爵を指し、それから指示を出す。
気付いたキャプラン子爵はすぐに意図を理解し、小さく笑って。
それから、ユリアーナの手を取った。
父と娘が、二人して歩く。向かう先は、グランドピアノで未だ演奏を続けるロジーネ。
エスコートされたユリアーナがそっとピアノに手を添えれば、キャプラン子爵がそっと離れ。
また、音が消えた。
今や響くのは、ユリアーナの歌声と、それに寄りそうロジーネのピアノばかり。
改めて示される。これは、ユリアーナのための……二人のための曲なのだと。
互いに視線を交わし、それだけでお互いの意図を汲み取って、歌が紡がれていく。
この瞬間を向かえた喜びを歌うかのごとく高らかに。
それから、少しずつ少しずつ、語らうような声音へと。
やがて、語るべきものを全て語り尽くして。
収束するように、静かに終わりを迎えた。
誰もが息を呑み、一言も発することが出来ぬ中。
はぁ、と大きく響いたのは、モンテギオ子爵の吐き出した息の音。
それから、いまだ涙の止まらぬ、汗まみれの顔のまま子爵は振り返り、聴衆へと向かって胸に手を添えながら頭を下げた。
一秒の沈黙と。
ついでやってきた、今日一番の、会場中を震わせるような歓声と拍手。
誰もが声を上げ、手を打ち鳴らす。
それは、メルツェデスでさえも。
「この楽曲を表す言葉を、きっと誰も持たないわ……言えるとしたらただ一言、『モンテギオ』、と」
彼らしい、わかりきった、という意味では無く。
彼とその娘の全てが込められた曲として。
最大限の賛辞として、メルツェデスは口にした。
そして、それがきっかけだったかのように。
ひらりと、光が一粒、舞い降りてきた。
「え? な、なんだこれは?」
「綺麗……あ、あっちからも、こっちからも!」
会場のあちこちで、そんな声が聞こえる。
式典会場、つまり屋内だというのに、頭上からいくつもの光の粒が降り注いでいた。
赤、青、緑、黄色、そして、白。
五色の光が、ふわりふわりと踊りながら、会場中全ての人々へと。
「おお……これはまさか、精霊の祝福……」
「ご存じなのですか、ご老公?」
国王であるクラレンスの傍で見ていた一人の老公爵がつぶやけば、聞こえたクラレンスが問いかける。
ゆっくりと頷いた公爵は、昔を懐かしむように目を細め。
「ええ、ええ。あれはもう、六十年は前の話でしょうか……今までになく素晴らしい奉納音楽が演奏された際に、やはりこのように光が降り注ぎました。
翌年は、これ以上ない程の豊作となり、きっとあれは精霊様がお気に召して、祝福してくださったのだろうと。
まさかこの歳になって、また見ることが出来ようとは……長生きは、するものですのぅ……」
「なるほど、そんなことが……」
しみじみと語られ、クラレンスは驚き。そして、納得したように頷いた。
この奇跡のような光景は、精霊の起こしたことと言われれば納得がいく。
そして、きっと喜んでくれたのだろう、ということも。
「……本当に素晴らしい演奏だったよ、モンテギオ。そして、キャプラン」
豊穣祭の主催者として。国の最高責任者として。何より一人の人間として、クラレンスはそう口にした。
それを知ってか知らずか、降り止まぬ光に聴衆は手を伸ばし、あるいは見蕩れ。
誰もが、これ以上無い豊穣祭の締めくくりに酔いしれていた。
だから、その会場からそっと抜け出した一人の令嬢に、ほとんど誰も気がつかなかったし。
唯一気付いた彼女の親友は、『またなの、相変わらず忙しないんだから……』と愚痴のように呟くしか出来なかった。




