回り道のその先に。
「随分と自信満々なようだが、こんなアドリブじみた突貫工事をなんとか出来るのか?」
舞台へと向かうモンテギオ子爵に、キャプラン子爵が揶揄いの言葉をかける。
普段であれば激高してしまいそうなところだが、しかしモンテギオ子爵はニヤリと唇を曲げるばかり。
「ふん、抜かせ。これでも、若い頃は指揮者の無茶な代役をいくつもこなしてきたんだ。
何しろいきなり当日、それも二時間前に呼び出されて楽譜を押しつけられたんだぞ?
それに比べれば、この程度お安いご用というやつだ」
いや、売り言葉に買い言葉なのはいつものように、だが。
それでも、いつものような険悪さはなりを潜めていた。
あるいはこれこそが、彼ら本来のやり取りなのかも知れないが。
「そういうお前こそ、目立たない歌い方なんて出来るのか?」
「当たり前だ、それこそ二番手三番手だって何度もやって来ている」
「若い頃は、か?」
ばん、と胸を叩いて見せるキャプラン子爵へと、言わなくて良い一言を入れるモンテギオ子爵。
もう随分と長い間、彼は主役として舞台に立ち続けていたはず。
であれば不満の一つもあろうかとというところだが、全くそんな雰囲気はない。
そんなキャプラン子爵の様子を、モンテギオ子爵は面白くなさそうな顔で見ていたのだが。
「ならば結構。……ユリアーナ嬢の声を支えられるのは、お前しかおらんからな」
ぽつり、そんな言葉を零して指揮台へと向かう。
言われて呆気に取られたキャプラン子爵をそこに置いて。
「な、何を……何を当たり前のことを言っとるんだ、お前は!」
あんなことを言われてしまえば、調子も狂ってしまうというもの。
だがまあ、悪くはない。気分は、そんなに悪くはない。
少しばかり、尻の据わりが悪くなったくらいだろう。
「ったく、これで腐抜けた指揮でもしたら、許さんぞ」
ぶつくさと文句を言いながら所定の位置に着いたキャプラン子爵の目の前では、早速指示を飛ばしまくっているモンテギオ子爵。
本当に暗譜をしているらしく、次から次へと飛ばす修正指示は楽譜を見ながらかのように正確なもの。
それは、開演ギリギリまで続いていった。
休憩から戻ってきた聴衆は、驚かずにはいられなかったことだろう。
普段であれば僅かな隙もなくかっちりと礼服を着込んでいるモンテギオ子爵が、髪を振り乱すような勢いで指示を飛ばしているのだから。
『何だ、何が起こっているんだ? 何が起ころうとしているんだ?』
そんな、期待と言って良い気持ちを抱く人間も少なからずいる。
今日の彼は、いつもと違う。それだけは間違いないことだった。
そして、開演時間となり、それはすぐに実証される。
いきなり、弦楽が跳ねた。
普段であればゆっくりとした曲調で始まるところが、ヴァイオリンを主軸として踊るように軽やかなメロディがいきなり流れ出す。
驚いた聴衆達だが、すぐにそれは、納得となって落ち着いていった。
これは、先程メルツェデス達が歌ったそれをなぞっていくもの。
それでいて、それこそメルツェデスが言ったように、完成度を高めたもの。
「なるほど、私達が踊っていた様子を、こういう形で表現しているのね」
「これ、もしかして……それも利用されているのかしら」
入れ替わるように舞台袖で見ていたフランツィスカとエレーナが、小声でそんなことを言い交わす。
彼が想起させるイメージの中に、自分達が取り込まれたかのような感覚。
「な、なんだか照れくさいというか恥ずかしいというか……そんな感じですね……」
二人の会話を聞いていたクララが、小さく呟く。
何となくだが、この曲の中で踊る彼女達は、実際のそれよりもさらに美化されて描かれているような、そんな気がして。
そこまで持ち上げられるものでは、と、控えめな性格をしているクララなどはそう思ってしまう。
「あ、ちょっと変わった。これは、私達が歌で入ったところかな」
話している間に曲が進み、木管や金管といった楽器もさらに加わってきて、音の重なりが増していく。
晴れやかに軽やかに、そして色鮮やかに時間が過ぎていって。
その音が収束して、しばしの沈黙が降りて。
第二楽章が始まれば一転、腹の底に響くような重低音がずしりとやってきた。
キャプラン子爵の声と、それを支えて重くも豊かな響きが低音楽器群から奏でられる。
メルツェデス達では表現することの出来なかった重さと厚みは、耐え忍ぶ冬の様相。
いや、冬だけでは無い。
冬の明けが遅い春もあれば、日照りの夏もあり、長雨の続く秋もある。
恵まれた年ばかりではない、そんな当たり前のこと。
しかしそれは、経験し苦い思いを味わった人間でしか出し切れない色合いがあるのかも知れない。
「……これは、わたくし達では出せない音と声、ね。酸いも甘いも噛み分けた、というか」
「そう、ね……人生経験というものが足りない私達では。流石にこればっかりは、どうしようもないもの」
溜息のようにメルツェデスが零せば、苦笑しながらフランツィスカが応じる。
自分達も、出来る限り精一杯はやった。
そして、あれはあれで、彼女達にしか出来ない音楽だったという自負もある。
けれども、今こうして、まざまざと突きつけられてしまえば。
「よくもまあ、これに勝とうなんて思ったわね、わたくし」
そうぼやいてしまうのも仕方が無い。
個性を活かす、という点では決して負けていなかったとは思う。
けれど、その根底にある基礎技術と卓越した構造はやはり段違い。
それらがあるからこそ個性が活きるのだと、今更ながら痛感させられた。
「まだ、一ヶ月前の演奏だったら、わからなかったかも知れないけど。これは、無理。流石に無理」
ふるり、とヘルミーナが首を横に振る。
あの、構造だけは見事だった音楽に足りなかったもの。
それが今や、完璧と言って良い状態で補われていた。
そして彼女は知っている。
いや、会場にいる全員が知っている。
これだけの熱量と圧力を持つ音楽が、次なる展開の引き立て役でしかないことを。
そう思い至れば、期待で背筋が震えてくるのを抑えられない。
「……これ、さっきよりも緊張しちゃうのだけど……」
舞台袖で控えていたユリアーナが、小さく呟く。
休んでいる間にも聞こえてきた調べは、それだけでも心沸き立つものだった。
そして今は。この重厚な音の先に控えているものは。期待されているものは。
それを思えば、足が震えてきそうになる。
「大丈夫。あたしも一緒だから」
隣に立つロジーネが、そっとユリアーナの手を握った。
驚いたように一瞬ユリアーナの身体が跳ね、それから、ゆっくりと力が抜けていく。
「そうね、ロジーネが一緒なら心強いわ」
「ふふ、ありがと。それにまあ、あたしだけじゃないし。
うちの父さんも、楽団の人達も……誰よりも、キャプラン子爵様が、支えてくれるから」
「……お父様が……そっか、そう、よね……」
言われて、改めてキャプラン子爵の歌声を聞けば、それはいつもと違った声色。
主役たらんと存在をやたらと主張するような響きは一切無く、楽曲の調和を崩すことなくそこに存在していた。
前座とも言える役割を、普段であれば主役を張る父がやっている。
そして。
待っている。
彼女のことを。
そうとわかれば、足の震えなどどこかにいってしまっていた。
「さ、いこう」
「ええ、いきましょう」
差し出されたロジーネの手を取り、しっかりとユリアーナは頷く。
互いにしっかりと視線を交わして。
第二楽章が終わり、しばし音が途切れたそのタイミングで、二人は舞台へと足を進めた。




