湧き上がる熱。
ユリアーナが最後まで歌いきり、その余韻がゆっくりと消えて。
式典会場は、静寂に包まれた。
そして、数秒後。心ここにあらずのまま一人の聴衆が、無意識のうちに手を一度、二度、と打ち合わせる。
拍手、とすら言えないくらいに緩慢としたものは、しかしそれを聞いた周囲の人間を引き込んでいって。
ぱち、ぱち、とまばらに上がっていた音は、いつしか割れんばかりの拍手となって会場を埋め尽くしていく。
渾身の歌唱を終えたユリアーナは、はぁ、はぁ、と息を荒げながら、目の前で巻き起こる興奮のるつぼとも言える熱気の凄まじさに、呆気に取られたような顔で見ていた。
それは、正直に言えば幾度も夢見た光景。
そして、叶うことがないとも思っていた光景。
だがしかし、今こうして現実の物となったのだけれど、未だ信じることが出来ない。
現実感がなく、ふわふわした心地の中。ぽん、とその肩に、手が置かれた。
「お見事でした、ユリアーナさん。さ、皆様のお声に応えませんと」
楽しげな微笑みを見せながら、エスコートしようとユリアーナの手を取ったのはメルツェデス。
え、え、と慌てて周囲を見回せば、ロジーネもまた、エレーナにエスコートされ舞台の中央へと、心ここにあらずな顔でやってくる。
そして二人が中央で揃い、聴衆へと紹介するようにメルツェデスとエレーナがゆったり、腕で指し示せば。
もう一度、爆発的な拍手と歓声が巻き起こった。
ビリビリと肌まで振るわされるような空気の中、ロジーネとユリアーナは立ち尽くす。
見たかった光景が。
見せたかった光景が。
今、ここにある。
あまりにも現実感のない光景に、知らず、二人は互いの手を握っていた。
「ひゅーひゅーお熱いね~」
「ミーナ、今はやめときなさい」
いらぬヤジを飛ばすヘルミーナの声も、それを窘めるフランツィスカの声も耳には入らない。
成し遂げたことの、そして、得られたことの大きさを、もしかしたらロジーネとユリアーナの二人こそが、一番実感できていないのかも知れない。
そんな、まさにこの舞台の主役となった二人の両脇に、メルツェデス達が分かれて並ぶ。
国王派も貴族派も関係なく並び、取り繕うこと無く、心から『やりきった』と言わんばかりの笑顔を見せる少女達。
彼女達の顔と家を知る者達は、もしかしたら驚いたかも知れない。
だが、そんな驚きを飲み込む程に、会場は先程までの舞台に興奮し、感動していた。
「さあ皆さん、ご挨拶を」
公爵令嬢であるフランツィスカが音頭を取れば、やっと我に返ったロジーネとユリアーナは左右を見回し、慌ててスカートへと手をやって。
それを見ている他の少女達は微笑みながら呼吸をはかり。
どきまぎとしながら動くロジーネとユリアーナに合わせ、綺麗に揃ったカーテシーを披露した。
三度爆発する歓声と拍手に、ロジーネとユリアーナは膝が震えてくるのを抑えられない。
それでも、なんとか、なんとか耐えきって。
二人、顔を見合わせて。
やっと、笑えた。
やりきった。
やってやった。
そんな達成感が突き動かすがままに、舞台の上、衆人環視ということも忘れて二人は熱い抱擁を交わす。
貴族令嬢としては酷く無作法、不躾な行為ではあるのだが……この場にいる貴族達は、誰も、一人としてそれを指摘などしない。
出来るはずも無い。
ここで水を差す無粋こそ咎められる、と幾人かの小賢しい者は算段し。
ほとんどの者は、それが些事でしか無いと思う程に、先程までの舞台に胸打たれていたのだから。
いつまでも終わらないのではないかと思われた熱狂。
しかし、その中で一際大きな拍手が響き渡っているのに気付いた者が、口を閉ざした。
やがてそれは広がっていき、熱気は未だむせかえる程にあれども、形だけは平穏を取り戻す。
それでも止まない拍手。その元凶は、貴賓席にて国王クラレンスの隣に控えるガイウスであった。
娘の晴れ舞台に、恥も外聞もなく滂沱と感涙を垂れ流す姿は一種異様ではあるのだが。
誰も、何も突っ込めない。
後が怖い、というのももちろんある。
しかし、彼の拍手が意味するところを知っている、というのもあった。
バシン!と一際音高く手が打ち鳴らされ、そして、音が止む。
それが、合図。
クラレンスが立ち上がり、一歩前に進み出れば、聴衆達は彼へと向かい一斉に頭を下げた。
「皆、顔を上げてくれ。あのステージの後に、格式張った礼儀作法など無粋というものじゃないか」
軽く手を振りながら頭を上げるように言うクラレンスの頬は、その言葉を裏付けるかのように珍しく紅潮している。
ちなみに、その後ろで見ていたエドゥアルドもまた感じ入った顔をしているのはともかく、ジークフリートは約一名に視線が釘付けになったまま夢見るような顔で呆けていたりするのだが。
ともあれ、色々と型破りであったステージは、王家の人間までもが認めた。
「実に素晴らしい歌と踊りであった。新しい形であり、しかして歌とは、踊りとはかつてこうであったと思わせるものでもあった。
恥ずかしながら、この歳で若い彼女達に閉じていた目を開いてもらったような、そんな清々しい気分になってしまったよ。
今日この時、この音楽に触れることが出来たことを幸運に思う。さあ皆、彼女達にもう一度拍手を!」
クラレンスの言葉に、また拍手と歓声が巻き起こる。
型破りであった。『普通』から大きく逸脱していた。
だが、それはとても心地よく、心震えるものだった。
魂の奥底、原初の記憶の延長上にあるような、不思議な馴染み方。
その余韻を、しみじみと聴衆が味わっていた、その時だった。
「恐れながら申し上げます。陛下、わたくしどもに何とももったいないお言葉、誠にありがとうございます」
ざわめき収まらぬ会場の空気をものともせずに通る声。
怒号飛び交う戦場においてもかき消されぬのではと思えるその声の主は、誰あろうメルツェデスである。
一瞬、令嬢が国王へと許しを得ることなく直言したことに眉をひそめる者もいたが、そんなことに気が回る者は、だからこそすぐに思い直した。
彼女こそは、国王クラレンス直々に『勝手振る舞い』を許された伯爵令嬢。
公爵令嬢であるフランツィスカやエレーナでも許されない振る舞いが、メルツェデスであれば許される。
例えばこうして、距離こそ遠くあれども、国王へと直接声を掛けることすらも。
もちろん普段であれば乱用しないし、彼女がこうしてクラレンスへと直言するのは幼い頃の襲撃の時以来初めてのことなのだが。
そして、当然与えたクラレンス自身はそのことをよくわかっているため、うん、と笑顔で頷いて返しているくらいだったりする。
止める者もいない今、だからこそメルツェデスは勝手に振る舞ってみせる。
「わたくしども、非才未熟の身なれども、懸命に歌い、踊らせていただきました。
陛下からのお言葉はもちろん、こうして皆様から暖かいお声と拍手をいただけましたことも、これ以上ない幸せでございます。
しかし、先程申しましたように、わたくしどもは未だ未熟な青二才。
ですが!」
突如張り上げた声に、会場が一瞬静寂に包まれる。
何だ、何を言うつもりだ? と会場の疑問が、あるいは興味がメルツェデスへと集中する数秒の後、彼女は口を開いた。
「ですが。もしも、この楽曲の完成形が聞けるとすれば……皆様、ご興味ございませんか?」
にっこりとメルツェデスが告げれば。
ほんの僅かの沈黙の後、会場は大きなどよめきに包まれた。
その意味するところを理解できた者は、いない。例えばフランツィスカやエレーナですら。
むしろ『また何言い出してるのあの子は!』などと思っていたりするのだが、淑女の仮面でそれを覆い隠している。
そんな会場の混乱を、涼しい顔で見ているのはメルツェデス一人。
クラレンスやエドゥアルドを始めとする好奇心旺盛な連中は興味津々と。
大半は、何を言っているのだと困惑している顔で。
あれが未熟? あれ以上の、完成形?
それは、とても想像のつかないもので。
だというのに、口にしたメルツェデス本人は実に自信たっぷりだ。
「そう、それこそが! この後、モンテギオ子爵様率いる楽団の皆様が演奏なさる楽曲なのでございます!!」
「……は?」
高らかに口上を述べ挙げる弁士のようにメルツェデスが言い切れば。
ぽかんとした顔のモンテギオ子爵の口から漏れた声は、湧き上がった歓声にかき消された。
例えば、この盛り上がりを味方にモンテギオ子爵の盗作を糾弾するのならばわかる。むしろ、そうなると思っていた。
だが、まるで彼女達は前座を務めただけ、今からが真打ち登場なのだと言わんばかりのこれは、なんなのだ。
モンテギオ子爵には、いや、キャプラン子爵にも理解出来ない。
そして、理解する暇を与えずに、事態は進行していく。
「ただ……伴奏を見事に務め上げられたモンテギオ子爵令嬢ロジーネ様、メインを務められたキャプラン子爵令嬢ユリアーナ様があまりに素晴らしすぎたせいか、モンテギオ子爵様も、声楽担当のキャプラン子爵様も感極まって男泣きに泣いておられまして……。
誠に申し訳ございませんが、陛下、どうかしばしの休憩をと、『勝手振る舞い』にて奏上させていただく次第でございます」
そう言って深々と頭を下げるメルツェデスに、会場中が呆気に取られたように言葉を失った。
あの舞台の間に、広い視野を持つメルツェデスの目は捉えていたのだ、子爵達の表情を。その変化を。
ロジーネの曲が、ユリアーナの歌が、彼らに届いた。
そして彼らは、特にモンテギオ子爵は己の所業を悔い、反省していた。
であるならば。今の彼らであれば。
そう閃いたメルツェデスは、筋書きになかったアドリブに打って出たのである。
そして。
そんな要求をされたクラレンスは……一瞬だけ目を丸くして。
次の瞬間には、それはもう楽しげに、気持ちの良い笑い声を響かせた。
「あ、あははははは!! そうか、彼らもまた人の親というわけだな!
よろしい、皆も先程の余韻に浸る時間、あるいは次へと万全の体制を整える時間が欲しかろう。
三十分の休憩を認める! モンテギオ子爵、キャプラン子爵、その間に目をちゃんと冷やしておくように!」
クラレンスが宣言すれば、おお~とどよめきの声が上がる。最後の一言には、くすくすとした笑いも上がったが。
決められたプログラムから外れての長い休憩は前代未聞。
だが祭りの夜は長いのだ、三十分くらいならば大したことはないだろう。
……裏方のスタッフ達は色々胃を痛くするかも知れないが。
ましてそれが『勝手振る舞い』にて提案され、恐れ多くも国王陛下が御裁可なさったのだ、是非も無い。
「不躾なお願いにも関わらず、寛大なお言葉、誠に感謝いたします!」
晴れやかな笑顔でメルツェデスがお礼の言葉を述べ、また深々と頭を下げる。
そして顔を上げれば……その視線は、すっと舞台袖へと向かって。
へたり込んでいるモンテギオ子爵と、呆然と突っ立っているキャプラン子爵へと挑発するような笑みを投げかけた。
『やれるのでしょう? やってみせてくださいな』
二人の脳裏には、そんな言葉が聞こえたような気がして、はっとした顔になる。
これは。この無茶ぶりは、つまり。
「どーすんですか、子爵様」
理解しきる前に、背後から声が掛けられた。
振り返れば、声楽担当含む楽団員達が全員、彼らの後ろに勢揃いしている。
それぞれに、呆れだとか困惑だとか様々な表情を浮かべているのを見るに、皆色々と察してしまったのだろう。
いまだ床に膝を衝いたままのモンテギオ子爵は、一瞬顔を俯かせ。
それでも、ぐっと顔を持ち上げる。
「聞いての通りだ。私は、許されないことをした。だが、だからこそ、演奏しろと彼女は言っている。であれば、最早逃げることなど許されない。
皆には申し訳のしようもないし、色々と言いたいこともあると思うが、すまん、そして、頼む、今この時だけでいい、演奏をしてくれ」
そう言うと、彼は床に額を打ち付けんばかりの勢いで頭を下げた。
最早土下座に近い姿勢、貴族家の当主がするようなことではない。
ない、のだが。誰もそのことを、指摘できない。
呑まれたかのような時間が、しばし流れて。
「ああもう、わかりましたよ、やりますよ。
……こっちだって、素人の女の子にあんなの見せられて、色々刺激されちゃってますからね」
「まあなぁ、正直どんな顔して出ていけばいいのかって思ったけどさ」
一人の団員が溜息を零しながら言えば、他の面々も後に続く。
「赤っ恥かと思ったけど、プレヴァルゴ様が面目を施してくれたんだし、応えないのも違うよねぇ」
「とんでもなくハードル上げられちまったけどな」
「違いない。正直そっちのせいでガクブルなんだけど」
そんな軽口をたたき合うのは、厳しい練習を共にした間柄だから、だろうか。
そう、まだ、失われていない。彼らの間に繋がる何かは。
気付いたモンテギオ子爵は、また涙がこみ上げてくるのを、堪えることが出来ない。
「すまない、本当にすまない! そして、ありがとう!
……そして、もう一つ、すまない! こうなったら、今までの構成ではダメだ、大幅にアレンジを入れる。むしろアドリブくらいのつもりでいて欲しい!」
「うわっ、まさかの無茶ぶりですか!? いやまあ、やるっきゃないですけども!」
完成度重視、ガッチリと精密に計算してくるモンテギオ子爵のまさかの言葉に、団員達は驚き。
しかし、来るなら来い、とばかりの笑顔を見せる。
彼らもまた、先程のステージを見て、聞いて、心が沸き立っているのだから。
そして誰よりも。
今こうして話している間にも、モンテギオ子爵の脳内では、次から次へと音楽が湧き出ていた。
こうアレンジすれば、いや、こうすれば。
黒く重い鎖で縛られていたような感覚から解放され、次から次へとアイディアが浮かび、とめどない程。
だがしかし、一つだけ絶対に外せないものがある。
「父さん、そんなとこに座り込んでどうしたの!?」
不意に、声が掛かった。
振り返れば、ロジーネがそこにいる。そして、その隣にはユリアーナも。
それを見れば、膝が汚れるのも厭わず、彼は三度身体を向き直らせる。
「丁度いいところに来てくれた! すまん、ロジーネ! それからユリアーナ嬢!
詫びは後でいくらでもする、今は力を貸してくれ! この曲には、お前達の力が必要だ!」
「は、はい??」
再び勢いよく下げられる頭に、ロジーネは困惑し、ユリアーナは言葉もない。
そんな三人へと、キャプラン子爵が歩み寄って。
「すまない、ロジーネ嬢。私からも頼む、力を貸してくれ。
それから、ユリアーナ……この曲はお前の歌がないと完成しない。それがよくわかった。だから……すまないが、もう一度歌ってくれないか?」
彼もまた、二人へと頭を下げた。
絶対に成功させねばならぬという貴族としての責務。
才能を閉じ込めていたという親としての悔恨。
それらを都合良く解決できる手段に、乗ってしまうのは調子が良すぎるというものではある。
だがそれでも、軽蔑されようとも、この二人にもう一度舞台に上がってもらわねばならぬ。
であれば、彼の頭の一つや二つ、安いものだ。
そんな覚悟が伝わったのか、ロジーネとユリアーナは、互いに顔を見合わせて。
すぐに、うん、と頷き合った。
「わかった、あたしに出来ることなら」
「わ、私も、微力ながら……」
二人の返答に、がばっとモンテギオ子爵は顔を上げる。
その目は真っ赤に充血し、未だ涙は止まっていない。
だが、その目は既に力を取り戻し……いや、むしろギラギラとした光を放つほどになっていた。
「ありがとう、ありがとう! すまない、色々言いたいことはあるが、時間がない!
ロジーネとユリアーナ嬢は疲れているだろうから、第三楽章まで休んでいてくれ、そこにピアノとユリアーナ嬢の歌を入れる!
ああもう、時間が惜しい、すまん、何とか読んでくれ!」
そういうとモンテギオ子爵は、あの時控え室から掴んで持ってきてしまっていた楽譜へと、猛烈な勢いで指示を書き込んでいく。
ギリギリ、彼をよく知るロジーネだから何とか読解し音階へと落とし込めるそれを怒濤の勢いで書き込んだ子爵は、それをぐいっとロジーネへと押しつけた。
「皆には口頭で伝える、各自の楽譜に書き込んでくれ! 急ぐぞ、時間がない! いやもう、ステージ上で伝えるか!」
「ったく、誰のせいですか! わかりましたよ!」
スタッフ達によって楽器が並べられていくステージへと、急ぎ向かおうとするモンテギオ子爵と楽団員達。
そんな彼らへと、思わずロジーネは声を掛けた。
「ちょっと父さん、この楽譜、父さんのでしょ!? これなしでどうすんの!」
悲鳴のような声を聞いて。
モンテギオ子爵が、くるりと振り返る。
「なんだ、そんなことか。必要ない、とっくに頭の中に入っている」
さも当然のように言ったモンテギオ子爵は、今度こそステージへと向かっていった。




