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こうして、間一髪のところで間に合ったミラに護衛され、キャプラン子爵は無事帰宅することができた。
子爵が玄関口に辿り着いたところでミラは姿を消していたため、普段通りの帰宅を装うことが出来ていたのだが、それでも滲むただならぬ雰囲気に、ユリアーナや夫人が何かあったのかと問い詰めるなどした一悶着もありつつ。
何とかなだめすかした子爵は、衝撃的な出来事を何とか忘れようと、そして何より、明日に備えようと早々にベッドへと潜り込んだ。
そして向かえた豊穣祭当日。
王城にある式典会場、その控え室に到着したキャプラン子爵は、ほっと安堵の溜息を吐いた。
誰も欠けることなく、ここにいる。
それが、襲われたのが彼だけなのか、それとも同じくプレヴァルゴ家の者に助けられたのかはわからないが、確かに全員がここにいる。
そのことに安堵し、もう一度息を吐き出した。
これならば、後はミス無くやりきればいい。それで、役割は果たせるはず。
そう自分に言い聞かせ、キャプラン子爵は心を落ち着かせる。
何とかここまでこぎ着けたというのに、声楽担当の筆頭である彼が揺らいでは元も子もないのだから。
普段であればすぐに集中に入れるキャプラン子爵だが、やはり襲撃の翌日とあってか、いまだ自分を取り戻したとは言い切れない状態。
そしてそれは、モンテギオ子爵も同様だった。
とっくに暗譜しているはずの楽譜を何度も、神経質と言って良い程に忙しなく目を動かして確認している。
鬼気迫る、というには迫力が足りず、むしろちょっとしたことで壊れてしまいそうな危うさを漂わせながら。
昨日の練習は彼とて仕上がった手応えを感じていたのだが、何しろ事情が事情なだけあって、それで一安心、とはとても言えない。
むしろ、少しでも、わずかでも、出来る限りよりよいものをと自分を追い込んでいる有様。
それが危うさを招いているのだが、残念ながら彼はそのことに気づけないでいる。
それでも。彼も、そして楽団も声楽の面々もプロ。
何事もなければ問題無く、恙なく演目を終えることが出来たはずだった。
「……このメロディは……?」
「うん……?」
モンテギオ子爵とキャプラン子爵は、同時に顔を上げた。
二人の鋭い耳は捉えたのだ、聞こえるはずのない旋律を。
彼ら以外が奏でるはずのない、歌うはずのないそれを。
一体、誰が。
疑問が脳裏に浮かんだ次の瞬間。
弾かれたようにモンテギオ子爵が、追いかけるようにキャプラン子爵が駆け出した。
ステージが進行している最中だ、裏方のスタッフ達が忙しなく行き交っているバックステージ。
ぶつかりそうになるのをかきわけるようにしながら、彼らは必死に足を動かす。
そして、息を切らせながらついに辿り着いた舞台袖から見えたのは。
「ロジーネ……何故お前が、そこで、その曲を弾いているのだ……」
それは、当主である彼が使うと宣言し、取り上げた曲。
愕然とした顔で、がくりとモンテギオ子爵は膝を衝いた。
その視線が捉えているのは、誇らしげとも楽しげともいえる顔でピアノを弾くロジーネ。
さすが王家の式典会場が保有するグランドピアノなだけあって、その音色の響きは素晴らしいもの。
だがもちろん、ピアノが素晴らしいだけではない。
演奏するロジーネの技量が卓越しているからこそ、このピアノが心躍る旋律を奏でているのだ。
そしてそれに彩りを与える群舞。
赤、黄色、水色、そして白のドレスを纏った四人の少女が、一糸乱れぬ動きで旋律に乗り、軽やかにステップを、ターンを、時にジャンプを披露する。
それは、色とりどりの花々が寄り添いあい、戯れているかのように愛らしく。
かと思えば、ふわりとスカートの裾を広げてターンするその姿は艶やかで。
色とりどり。あるいは四季折々。
雰囲気を、表情を時々刻々と変えながら、彼女達は踊る。
やがて、四人がステージの中央へと集って。
観客へと向き直った彼女達は、歌声を、弾けさせた。
いや、踊っている彼女達だけでなく、傍に控えていた四人の少女達も。
八人がそれぞれに歌声を弾かせるその様は、春のように色鮮やかで。
練習で幾度も聞いた、数十人からなるオーケストラのそれよりも強烈な印象を耳に残していく。
始まる前に、クララの光属性魔術『ブレッシング』によって祝福を与えられ、全員の能力が上がっていたとしても、普通では考えられない程、圧倒的に。
「おい、モンテギオ! これは、一体どういうことだ!」
動揺のあまりキャプラン子爵が家名で呼び捨てにするという失礼な行為に出るも、モンテギオ子爵は答えない。答えられない。
それどころでは、ないのだから。
弾けるような動き、高らかなジャンプは情熱滾る夏だろうか。
汗を散らし、時に手を取り合って向き合い、あるいは離れてそれぞれに踊る様は、貴族の舞踏会では見られないもの。
だが、それが正しいのだ。少なくともこの曲においては。
彼が間違えていたことを、曲が進むほどにまざまざと見せつけられる。
「……聞いての通りだ。私は、ロジーネが作った曲を取り上げ、編曲し、それを豊穣祭で演奏しようとした。
それ自体は、貴族家当主として認められた権限の内だろう?」
「貴様……理屈としては正しいが! 音楽家としてそれはどうなんだ!?」
「ああ。……そうだ。私は、間違っていた。
ロジーネの曲を使ったことではない。もっと基本的で根本的なこと……あの子の曲を読み取りきれなかった。解釈を、間違えた」
キャプラン子爵が肩を掴んでくるのに抵抗することもなく、呆けたような声で淡々とモンテギオ子爵は答える。
最初から、間違っていたのだ。
これは、豊穣祭のための楽曲ではない。
まるでそんなことは頭になかったはずだ。
何故ならば。
「来るぞ。よく聞いておけ」
「なんだと、貴様、どの口が……」
食ってかかろうとしたキャプラン子爵が、言葉を失った。
響き渡る、清廉という言葉そのものを表したかのような歌声に。
それは、すっと一人前に進み出たユリアーナの歌声。
先程まではコーラスの中の一人でしかなかったはずの彼女が、ソロで歌っている。
確かにそのコーラスの中においても、彼女の存在感は際立っていた。
だが、今こうして一人で歌う彼女は……先程までの八人の歌声を遙かに凌駕する存在感を示し高らかに歌い上げている。
「ユリアーナ……? お前は……」
それ以上、言葉が続かない。
今なら、キャプラン子爵にもわかる。
この楽曲は、ただ一人。ユリアーナのために、彼女の歌声のために作られたものだと。
そして、捧げられるだけの価値が、彼女の歌声にあることも。
「こんなことも、わからなかったのか、私は。わからなかったんだな……」
呟くモンテギオ子爵の目の前で、再び踊り出したメルツェデス達に彩られながら堂々とした姿で歌うユリアーナと、彼女を支えるように伴奏するロジーネ。
一際強く、感情を込めてユリアーナの声が響いたその瞬間、頭の奥でパキンと何かが砕ける音がしたような気がして。
その途端に、どっと彼の目から涙が溢れ出した。
「ああ、こんな簡単なこともわからなかったんだな……」
床に衝いた膝をぐっと握りしめ、崩れ落ちそうな身体を支えながらモンテギオ子爵は舞台から目を逸らさない。
逸らしてはいけないのだ。
「なあ、キャプラン子爵。……いつからだろうな。
いつから私は、楽曲の向こうに、誰の顔も浮かばなくなっていたんだろうな。
聴衆の顔も、聞かせたい誰かの顔も、まして表現したい誰かの顔も浮かばずに、ただ構成にだけ腐心して……そんな楽曲が、人の心を震わせるわけもないというのに」
砂を噛むようなモンテギオ子爵の言葉に、キャプラン子爵も返す言葉が無い。
彼もまた、いつからかひたすら技巧にこだわるだけで、それが何を表現したいのか、誰に聞かせるためにそうしたのか、考えていなかったのだから。
「挙げ句に、娘から、まだ年若い娘から曲を奪い、厚顔にもそれを陛下の御前で、これだけの聴衆の前で、魂を入れぬまま奉納音楽として演奏するなどと……音楽家として、何より人の親として到底許されることではない……」
今にも突っ伏して額を床に付けてしまいたい衝動に駆られながら、それでもモンテギオ子爵は、歯を食いしばり、目を血走らせながら視線を舞台へと向け、耳に全神経を集中させている。
見逃してはならぬ。聞き逃してはならぬ。
これは、きっと罰なのだ。
犯してはならぬ罪を犯した、彼への。
そんなモンテギオ子爵の肩から、圧迫感が抜けて。
それから、ぽん、と叩かれた。
「……許されない、というのならば、私も同じだ。
私とて、あの才能を……ユリアーナの歌を閉じ込めようとした。
何もしなくていい、組まれた縁談の通りに婚姻を結ぶのがあの子の幸せなのだと、勝手に決めつけていた。
私自身は、伝統をぶち壊して好き勝手に歌っていたというのにな」
悔恨の言葉を拭い去らんばかりの清冽な声が響く。
高く、強く、それでいて柔らかくしなやかに、伸びやかに。
何故今まで、知ろうとしなかったのだろう。
そして、よくぞここまで成長したものだ。
二つの感情に突き動かされ、キャプラン子爵の目からも、涙が溢れ出す。
「はは……私達は、一体何をしていたのだろうな……一体、何のために……」
それ以上、モンテギオ子爵は言葉が続けられない。
舞台袖で身じろぎも出来ぬ程に打ちのめされた愚かしい二人の親の目の前で、夢のような光景が広がっていく。
色とりどりの布をはためかせながら可憐に舞う、妖精のような少女達。
天上の音楽であるかのように柔らかく、耳に心地の良い歌声。
そして。
踊っていたメルツェデス達が端により、舞台の中央にはユリアーナ一人。
そのユリアーナは、ロジーネへと視線を向けて。
それを受けたロジーネは、汗を滲ませながらも楽しげに笑いながら頷き。
フィナーレを飾る、圧巻の独唱が始まった。
ユリアーナがこう歌いたい、と思うままに、ロジーネの伴奏が寄り添う。
時折視線を交わし、折り合いをつけながらも自由に、のびのびと。
今、この場で、新しい歌が生まれていく。
二人だけの、二人が作り上げていく歌が。
そして、声が、降り注ぐ。
最高の音響効果を備えた式典会場、『ブレッシング』により向上した身体能力、何よりも、様々な枷から解放されて思う存分に歌い上げるユリアーナ。
それは、さながら祝福の花びらが舞い落ちていくかのように、幻想的で神聖な空間だった。




