善意の仮面。
「遅くなってしまったが、今年の豊穣祭は、これでいく。どうだ」
「……ふむ。貴殿らしからぬ楽曲だが、まあ、これならばいいだろう」
数日後、国立音楽堂にて。
ロジーネから強奪した曲を交響楽へと編み直したモンテギオ子爵は、声楽担当であるキャプラン子爵へとそれを提示していた。
そしてそれに目を通したキャプラン子爵は……憮然とした表情ながらも、それを受け入れるように頷く。
そのやり取りを見ていた楽団員達やコーラス要員の面々は、そぉっと息を吐き出した。
あまりにタイミングが揃ってしまったために、思ったよりも大きな音になってしまったのだが……やり取りに集中していた二人の子爵には、聞こえていなかったらしい。
「しかし、これはまたどういった心境の変化だ? 貴殿はこういった奔放な楽曲は好まぬと思っていたが」
「……少しばかり思うところがあった、ということだ。出来に文句がないのならば、それでよいだろう?」
「まあ、それはそうだが」
キャプラン子爵から問われ、流石に良心が咎めるモンテギオ子爵は、そんな曖昧な答えしか返せない。
まさか、本当のことを言うなど出来るわけも無く。
楽団員はもちろんのこと、何よりも目の前に立つキャプラン子爵からは強烈な反発と軽蔑を受けることだろう。
そうなってしまえば、こんなことに手を染めてしまった己の罪すら無駄になってしまう。
……そう、これは、罪なのだ。
音楽家として、絶対に手を出してはいけない行為。それは、罪と呼ぶにふさわしい。
だがそれでも、伯父の領地の民が、そして国民が飢えるよりは。
己の矜持を殺してでも民を選ぶ程度には、彼は、貴族だった。
「しかし、貴殿が随分とのんびりしてくれたおかげで、こちらは大変なのだがな?」
「……ふん、そう言いながら、どうせ貴殿ならば合わせてくるのだろうが」
バチバチと火花が飛びそうな程の視線を交えながら、それでも二人は、まだ落ち着いた声音でやり取りをする。
それを見ている周囲の人間達も、ハラハラとしつつも、昨日よりも随分とましな心持ちで二人を見ていることが出来ていた。
少なくとも、昨日までのようにモンテギオ子爵は幽鬼のような背筋が寒くなる表情をしてはいないし、キャプラン子爵も今にも噴火しそうな顔はしていない。
これで、何とかなるのでは。
いまだヒリつくような緊張感はあれども、何とか喧嘩別れになって豊穣祭がぶち壊しになる、という事態だけは避けられそうだ。
そんな安堵感が、皆の根底にあった、のだが。
「はっ、この程度の楽曲ならば、三日もあれば合わせてみせるとも!」
「奇遇だな、うちの楽団員達も三日もあれば充分だ。何なら二日でも」
「ならばこちらは、一日でやってやろう!」
「流石にそれはちょっと待ってください!?」
安堵したのは、二人の子爵もそうだったのだろうか。
キャプラン子爵が得意げに言えば、モンテギオ子爵もカチンときたような顔で応じる。
売り言葉に買い言葉、とばかりにキャプラン子爵が応じたところで、たまらず勇気ある若者が割って入った。
少なくとも、昨日までの空気では、とても割って入ることは出来なかった。
その瞬間に、自身の首が胴と離れてしまいそうな緊張感があったから。
だが、今日は違った。割って入るだけの勇気を持てた。
それが許されるような空気があった。
何よりもそのことに、安堵を覚えてしまう。
「お二人とも、それくらいで仕上げられる自信がおありなのであれば、豊穣祭には十二分に間に合うのですから、変に慌てて仕上げようとしないでください」
もう一人、ヴァイオリン奏者のセカンドを務める女性がそう言えば、二人ともはたと動きを止めて。
渋面を作りながらも、睨み合いを止めて互いに顔を逸らした。
それを見ていた楽団員や声楽組は、流石に笑い声は飲み込んだものの、代わりに、安堵の溜息は抑えられない。
彼ら彼女らもまた、この奉納音楽が上手くいくかどうかが左右するものを理解しているのだから。
そのことは、モンテギオ子爵もまた、わかっているのだろう。
「ああ、そうだな。……もう、去年の二の舞は踏まぬ。君達には無理をさせて申し訳無いが、頼む、ついてきてくれ」
じくじくと痛む良心を押さえ込みながら、モンテギオ子爵は楽団員達へと頭を下げたのだった。
それから数時間後。
合同練習を終えたキャプラン子爵は、着替えも済ませて音楽堂を後にしようとしていた。
と、そこへ声がかかる。
「キャプラン子爵様、やっと練習が出来たようですが、いかがでしたか?」
「ああ、卿か。まあ、初日としてはこんなものだろう、というところだな」
振り返ったキャプラン子爵は、やりきった、と言うほどの充実感はないものの、それなりに不満のない表情で応じる。
それを受けた男は、なるほど、と納得したような顔で頷いて返した男は。
先日、モンテギオ子爵に収穫状況を伝えた男爵だった。
「なるほど、それはよろしゅうございました。僭越ながら、私ですら気を揉んでおりましたところでしたから、まして子爵様であれば……」
「ああ、本当にな。だが、あの石頭も、あのままではだめだとやっと理解したらしい。
私だけでは気付きもしなかったところだが、卿が忠告してくれたおかげと言って良いだろう。これで何とか、凶作は避けられそうだ」
朗々たる声で感慨深げに流れる言葉は、それだけで一つの音楽であるかのよう。
思わず聞き惚れそうになった男爵は、気を取り直すかのように首を振った。
「いえいえ、とんでもございません。王国貴族として、少しでもお役に立てたのならば幸いでございます。
ただ、そうなると……」
嬉々として応じていた男爵が、不意に表情を曇らせて言葉を切る。
ほんのしばしの沈黙が、機嫌良く会話をしていた空気の中では妙な違和感があって。
たまらず、男爵は問いかけるために口を開いた。
「そうなると、一体何だと言うのだね?」
「いえ、これは本当に小耳に挟んだことでしかないのですが……その、今回の豊穣祭、奉納音楽を失敗させるための工作員が入り込んでいる、という噂がございまして……。
もしそうならば、子爵様のご家族が狙われるのでは、と」
男爵の言葉に、キャプラン子爵は眉を跳ね上げた。
「なんだと、私本人ではなく? ……ああ、そうか、私が歌えなくなっても代役を立てれば良いが……」
「はい、ご賢察の通り、ご家族を抑えられてしまえば、子爵様を舞台に上がらせ、その上で拙い歌を歌わせることが、と考える可能性が。
勿論、奉納音楽の意味をよくご存じである子爵様であれば、それに屈しないでしょうけれども」
「む、そ、それは……そう、だな……」
畳みかけるように言われ、男爵は歯切れ悪くも頷いてしまう。
彼とてこの国の貴族だ、いざという時に王国のために貴族として己の命を賭けて戦う覚悟は出来ていた。
だが、こんな形で、家族の命を賭けてとなると、流石に考えたことなどない。
例え、娘であるユリアーナが先日の『魔獣討伐訓練』を乗り越えたと知っていても。
彼からしてみれば、妻と娘は今でも守るべき存在なのだから。
だが、貴族である彼が守るべき存在は、もう一つある。
「やっとあの石頭が、精霊様に受け入れられなかった今までの楽曲を捨てようとしているのだ、私がご機嫌を損ねて、国土に凶作を招くわけにはいかんからな。
私一人ならばどうとでもなる、妻と娘に護衛を割り振れば守り切れるだろうし……」
父であり、貴族である。その狭間で、何とか現実的な折り合いを付けようと方策を考えるキャプラン子爵。
その姿を見ている男爵の口元が、ひくり、と歪みそうになり……気付かれないように、また元の形に戻った。




