失われたもの。あるいは奪われたもの。
「伯父上達の領地の収穫は……凶作、までは言わないが、例年よりも明らかに収量が落ちている不作……」
「はい、それも他の領地では大半が例年並み、という状況で」
差し出された資料を見て、モンテギオ子爵は大きく息を吐き出した。
エデュラウム王国全体としては、大きく収量を損なってはいない。むしろ、一部豊作の地域があるおかげで、平年並みと言ってもいいだろう。
だが、その中にあって、明らかにおかしな収量を見せている地域があった。
「……私の縁者が治める領地だけが、軒並み不作、とはな……」
つぶやきながら、ガシリ、と強く髪をかきむしる。
モンテギオ子爵は、領地を持たない、いわゆる法衣貴族と呼ばれる立場にある。
本家である伯父の家から、家を継ぐどころか補佐としても残ることが出来なかった三男が、何とか音楽家として独立したのが先代のモンテギオ子爵。
当時は何とか食いつなぐのがやっとだったらしいのだが、その跡を継いだ現モンテギオ子爵が音楽的才能を開花させ、今や押しも押されぬ立場を築くに至った。
その何とか食いつないでいた間を支えてくれていたのが本家であり、モンテギオ子爵からすれば、伯父には足を向けて寝られないと言っても過言では無いほどの恩を感じている。
しかし今、その伯父の領地が、不作に陥っているという。
いや、その伯父だけでなく、彼の知りうる親戚達が治める領地のことごとくが。
「これではまるで、精霊様が、私の縁者だけを狙い撃ちにしているようではないか……」
「誠に申し訳ございませんが、そう考えずにはいられません……。
このように、すぐ隣の領は普通の、時に豊作の領地もあるくらいですから、精霊様の恵みがこの国から失われたわけではないはずなのです」
肩を落とすモンテギオ子爵へと、沈鬱な顔で男爵が別の資料を見せる。
確かにそこには、他領では特に問題無く収穫がなされているという数字が見て取れた。
ということは、明確に、彼の親類縁者が治める領地だけが不作に陥っているということ。
「ということは……やはり、昨年の楽曲でも、ご満足いただけなかった、ということなのか……」
「この数字を見る限り、そう言わざるを得ないとは……」
力無く呟く子爵へと、応じる声もまた、力無く重たいもの。
ガシリ、ガシリと頭をかきむしっても、何故なのかという答えは出ない。出るわけがない。
「数年前から兆候はあった。だから私は、必死になって楽曲を構築した。だというのに、何故、こんな結果になるのだ……」
がくり、とモンテギオ子爵は作業をしていた机へと手を衝き、苦悶の色に染まった言葉を絞り出す。
何しろ、あくまでも彼の親戚が治める地ばかりが不作となっている、ということは。
「全国的には概ね例年通り、ということは、ダンスにも演奏にもご満足いただいて、ただ一つ、私の楽曲にだけご不満だった、とでも言わんばかりではないか、これでは……」
子爵の呟きに、傍に立つ男爵は何も言葉を返すことが出来ない。
この数字を前に、下手な慰めはかえって傷を抉りかねないし、同意の言葉を返すなどもっての他。
かといって、この場合の沈黙は肯定と取られても仕方がないところ。
何か言おうとして、しかし何も言えない男爵に、子爵は一層打ちひしがれる。
しばしの沈黙の後。
「申し訳ございません、モンテギオ子爵様。大事な豊穣祭の前に、このようなことをお伝えすべきではなかったのかも知れませんが……しかし、直前に不意打ちのような形でお知りになることでもあれば、その方が一大事と思いまして」
「……いや、男爵、謝ることはない。いずれはわかったことだ、今のうちに知っていた方がいい……伯父上にも、下手なことを言わなくて済むからな……」
豊穣祭となれば、本家の人間、何もなければ伯父も領地から出てくる。
その時に迂闊なことを言わずに済んだと思えば、これもまた仕方の無いことなのだろう。
不作という現実から目を逸らすわけにはいかないし、逃げた結果本家と拗れてはそれこそ最悪の事態だ。
ここで、踏みとどまらねばならぬのだ。そして、よりよい楽曲を届けねばならぬのだ。
もしこれで今年も満足いただけなければ、それこそ伯父達の領地の来年の収穫は、凶作となってしまう。
そうなれば、餓死者が出てもおかしくはないし、被害がどれだけのものになるのか、わかったものではない。
疲れ切った顔で、しかし決然とした意思を滲ませる子爵を見て、男爵は小さく息を吐き出し。
懐から、銀色に輝く煙草入れの小箱を取り出した。
「そう言っていただけるのならば、こちらとしてもお伝えした甲斐がございました。
そういえば子爵様、根を詰められていたせいか随分とお疲れのようです。気も張り詰めてらっしゃるようですし、一服つけられてはいかがですか?」
気遣うように言いながら、男爵は一本のシガリロ……細く巻かれた葉巻を取り出した。
普通の葉巻と違い十数分で吸いきることができるもので、確かに休憩として一服するには丁度良いものではあるだろう。
確かに随分と頭が重く感じるし、気分転換も必要かも知れない。
そう考えて子爵は、勧められるままシガリロを受け取る。
しげしげと物を確かめるように眺めれば、微かに香ってくる甘い香り。
事前に吸い口が切ってあったのを確かめてから口にくわえれば、男爵が指先から小さな火を出し、着火してくれた。
「すまんね、ありがとう。……こういう時には便利なものだね」
「いえいえ、どういたしまして。おかげで、すっかり煙草呑みになってしまいました」
などと軽口をたたき合いながら、子爵はゆっくり軽く吸って、煙を口腔内に招き入れる。
舌で転がすようにして煙を楽しめば、甘く蠱惑的な味わいに重かった頭が少し緩んでいくような感覚。
ふぅ、と煙を吐き出せば、濃厚な香りが鼻をくすぐり、名残を残しながら消えていく。
「……なるほど、これはいい物のようだね。いいのかね、こんなに気軽に差し出して」
「子爵様だからこそですよ、普段からお世話になっておりますので。
と、長居しすぎましたね。私はこれにて失礼いたします。また何かわかりましたら、お伝えさせていただきますので」
「ああ、ありがとう、男爵」
辞去の礼をする男爵へと、モンテギオ子爵はゆっくりと手を振って応じた。
その動きは、リラックスして緩んできた頭のせいか、緩慢なもので。
だから子爵は、去ろうと身を翻した男爵の口角が、わずかに上がったことにも気付かなかった。
それからシガリロをゆっくりとふかすこと十数分。
休憩は充分とばかりに作曲へと取りかかった子爵だが、リラックスしすぎたのか、先程とはまた別の感覚で、音が脳内に出てこない。
ああでもないこうでもない、と格闘すること2時間ばかり、唐突に緩んでいた頭が冷え、猛烈な焦燥感が襲ってきた。
このままでいいのか。この曲でいいのか。間に合うのか。質はどうなのか。
これで、伯父の領地は救うことが出来るのか。
先程までシガリロで緩んでいた思考が急激に戻り、それらが焦燥感をかき立てる。
書かねば。書かねば。書かねば。
だが、書けるのか?
今まで考えたこともなかった言葉が、彼の脳裏に走る。
その事に気付いたモンテギオ子爵は、愕然として。
ばん、と叩きつけるようにしてペンを机に置いた。
「……今日はもう、帰ろう」
すっかり夜も更けて、『もう』などと言う時間ではとっくになかったのだが。
それにすら意識が向かず、子爵は重い足取りで帰宅の途についた。
そして、今の状況である。
馬車に揺られている間も焦燥感は募り、頭が痛くなってくる程。
それに比例するかのように、頭の中から音楽が消えていくような感覚。
まずい、このままでは。
その焦りが最高潮に達したところでの、ロジーネの「作曲していた」発言である。
彼は作曲の筆が全く進んでいないというのに、顔を見るに娘であるロジーネは恐らく順調に進んでいたのだろう。
なぜだ。なぜ。
そんな答えの出ない問いが、彼の脳内を駆け巡る。
そして同時に、ロジーネが、どんな曲を作っていたのかが、気に掛かった。
「ロジーネ、作っていたという曲を、見せてみなさい」
「え? い、いや、父さんにお見せできるようなものじゃないから……」
唐突に言われて、ロジーネは覿面に狼狽する。
何しろ作曲しているのは群舞に合唱を合わせるという変則的な物。
王道路線をよしとする父からすれば、邪道もいいところだろう。
そんなものを見せれば、どんな反応を見せるのか、想像に難くない。
だというのに、それを知ってか知らずか、モンテギオ子爵は諦めてくれない。
どころか、ずい、と一歩進み、圧を強めてくるくらいだった。
「いいから見せなさい。どんなものでもいいから」
「わ、わかった、けど……怒らないでよね……?」
子爵の見開いた目は充血していて、どこか狂的なものを感じる程。
断れば身の危険さえありえるような気がして、ロジーネは首を縦に振ってしまった。
暗い邸内、御者と護衛は下がり、ロジーネの持つランプだけが照らす中、ロジーネの部屋へと向かう。
親子二人だというのに、何とも心細くて仕方が無い。
何故いきなり父がこんなことを言い出したのか、わからない。
いや、どうも行き詰まっているらしいから、何か刺激をと思ったのかも知れないのだが、その雰囲気がおかしい。
こんな父の姿を見たことがなかったロジーネは、困惑しながらも自室へと案内して。
「……これが、今作っている曲だけれど」
そう言いながら、恐る恐る楽譜を差し出した。
受け取った子爵は両手で掴むようにしながら楽譜へと目を走らせ。
ものの数秒ほどで、かっと目を見開く。
最初の数小節を見ただけで、子爵の頭の中で音楽が鳴り響き出した。
歌い踊る花の妖精達を想起させる軽やかなメロディ。
複雑さよりもそれぞれの旋律の聴きやすさを優先したような構成で、彼の好みからは大きく外れている。
だが、それだけにわかりやすく、彼ほどの音楽家であれば明確に脳内でその音を再現出来るほど。
そう。先程まで音を失っていた彼の脳内で、豊穣祭にふさわしい喜びに満ちた音楽が響いている。
「……これだ。これしか、ない」
何故か、そう思ってしまった。
この楽曲であれば、きっと。
ガチリ。頭のどこかで、何かがはまった音がしたような気がした。
その時見せた子爵の表情に、ゾワリ、とロジーネは背筋を震わせる。
「と、父さん、一体何が、これ、なの……?」
問いかけに、子爵はすぐには答えない。
彼の中の何かが抵抗していた数秒。
わずか、数秒。
「ロジーネ。悪いが、これは私が使わせてもらう」
「は!? ちょ、ちょっと父さん、何言い出してるの!?
それは交響楽として作ってないし、そもそもそんなのっておかしいよね!?」
思わぬ、というか、あの父から出た言葉とはとても信じられず、ロジーネは夜中だということも忘れて声を張り上げてしまった。
それも無理からぬこと、彼女が知る父であれば、娘が作曲した楽曲を奪うような真似などするわけがないのだから。
止めて欲しい。正気に戻って欲しい。そんな思い出その腕に縋り父の身体を揺さぶるも、何故か彼の身体はびくともしない。
「おかしいかも知れん。だがこれは、当主の決定だ」
低く重く、冷たい声。
縋った腕を払われ、ロジーネは抗うことが出来ず床にへたり込んでしまう。
これがまだ、荒れ狂い叫ぶように言われれば、まだ癇癪か何かと思うことも出来ただろう。
だが、この声音は。こんな暴挙に出ておきながら、揺らがない声は。
衝撃で引き留める声も出せず、部屋を出て行く子爵を呆然と見送ることしか出来ないロジーネは。
「どうしちゃったの、父さん……本当に、おかしくなっちゃったの……?」
そう小さくつぶやくことしか出来なかった。




