異変の兆し。
「父さん、こんな時間までお仕事だったの?」
父であるモンテギオ子爵へと、ロジーネは努めて明るく声を掛ける。
何かがおかしい。
この数ヶ月感じていた違和感が、そのピークを迎えてしまったような感覚。
芸術を生業としている家柄だから、父が色々と追い詰められている光景は何度も見てきた。
だがしかし、ここまでの憔悴は、そしてどこか芸術家故とは違う何かに追い詰められているような気配は、今まで見たことが無い。
そして、子爵が向けてきた視線も、やはりロジーネが知らぬものだった。
「ロジーネか。……こんな時間まで何をしていたのだ」
「いや、ちょっと作曲を……って、あたしはどうでもいいっていうか、父さん本当にどうしたの?」
作曲、と口にした途端に、モンテギオ子爵の目つきが変わった。
その瞬間、これはまずい、と直感したロジーネは、慌てて話題を逸らそうとする。
果たして、逸らせたのかどうか、モンテギオ子爵はそれ以上の追求はせず。
「どうも何も、それこそ仕事をしていただけだ。そう、仕事……お勤めを……ああ、そうだ、私は……」
ロジーネの言葉に何かを刺激されたのか、モンテギオ子爵は茫洋とした視線を中空へと向ける。
そんな見慣れぬ子爵の姿を、ロジーネは驚きの顔で。
御者と護衛は、痛ましいものを見るような顔で凝視してしまった。
そんな空気に、ロジーネがますます疑わしげな、それでいて気遣うような目つきになったのは致しかたないところだろう。
「ちょっ、ほ、ほんとにどうしたの、父さん? う、ううん、それよりも今日はもう寝た方が……それか、何か食べる?」
昨今色々と問題を起こしてはいるが、やはり父親ではあるのだから、ロジーネとて気にならないわけがない。
だというのに、そんなロジーネの言葉が届いているのかいないのか。
いや、中途半端にしか届いていないかのように、子爵の顔は、そして返された言葉は答えているようでどこか要領を得ない。
「いや、少し食べたから、いらん。どうした……ああ、そうだ、どうしたのだ……」
あるいは、寝ぼけているかのような。
こんな時間だ、眠くなっても仕方ないと言えば仕方ない。
だが、恐らくそういうことではない。
「何故、こんな時間まで作曲をしていたのだ……?」
向けられた視線に、ロジーネはゾクリと背筋を震わせた。
目の前に居るのは、一体誰だ?
いや、顔つきも声も、間違いなく父であるモンテギオ子爵だ。
だというのに、なんだこの違和感は。
何かが違う。
しかし、何が違うのかがわからない。
困惑するロジーネの前で、がしり、と子爵が頭をかきむしる。
「そうだ、作曲を……私は、作曲をしていた、のだ……私が、していた……なぜ、お前が……」
「と、父さん? 本当にどうしちゃったの……?」
得体の知れない違和感に恐怖を覚えながら。
それでもロジーネは、心配が溢れてしまった顔で子爵へと手を伸ばす。
だが、その手へと、子爵は応じなかった。
目は向ける。
されどその手の、ロジーネの顔の意味を理解することなく、ぼんやりと、ただ視野に収めただけ。
ただ、ロジーネの問いかけは、触れたくない記憶を揺さぶった。
話は、数時間前に遡る。
モンテギオ子爵は、国立音楽堂の一室で五線譜と向き合い、苦悩していた。
豊穣祭で演奏する楽曲が、どうにも仕上がらない。
正確に言えば、いくつか作曲はした。
だがそれは、彼自身も楽団員も、いずれも満足とは言えないもの。
当然そんなものを演奏するわけにはいかず、お蔵入りとした上で新たな曲を作ろうともがいていたのだが……どうにも、形にならない。
ガシリ、ガシリと頭をかきむしる。
考えが上手く纏まらない時の、モンテギオ子爵の癖。
物理的な刺激が脳を活性化させるような気がして、気がつけば無意識に頭皮に爪を立ててしまうのが常習化していた。
実際それで何とか曲を作れた時もあったが、今この時ばかりは、それでもどうにもならない。
何とも、頭が重い。
普段であればこう奏でれば次はこう、とメロディが湧いてくるというのに、全く繋がらない。
ブツン、ブツンと途切れていくような感覚。
断片的なフレーズのイメージは出てくるのに、それらが纏まっていかない。
いわばスランプとでも言うべき現象、なのだろう。
それが、よりにもよって、失敗が許されない豊穣祭の前にやってきた。
モンテギオ子爵の焦燥もまた、今までに感じたことのないもの。
どうすれば。
このままでは、来年の実りは。
音楽が溢れることなく、ただ延々とそんな無意味な問いかけが脳内を駆け巡っていたその時、だった。
「モンテギオ様、まだいらっしゃったのですか。ちょうどお耳に入れたいことが……」
そう言いながらドアをノックしてきたのは、顔なじみの男爵だった。
弾かれたように顔を上げた子爵は、入室の許可を与え。
入ってきた男爵の顔を見て、ずん、と頭の芯が重くなるような感覚を覚えた。
「ああ、どうにも次の曲がね……それはそうと男爵、こんな時間にわざわざ、ということは」
ほんの僅かにだけ希望を持ちながら、九割九分九厘は悲観的。
そんなモンテギオ子爵の心を、残念ながら男爵は裏切ってはくれなかった。
「ええ、速報値ではありますが、各領地の収穫状況が上がってまいりました。
……それを見ると、どうにも……その、大変申し上げにくいのですが……」
「いや、いい、構わんから率直に言ってくれ。伯父上達の領地はどうだったのだ」
申し訳なさそうに言う男爵へと、モンテギオ子爵はゆるりと、力無い様子で首を振って見せる。
それはもしかしたら、男爵よりも上位であることの誇りがそうさせたのかも知れない。
貴族として、より良き姿を見せるように。
もっとも、自然の災害に対しては、どうしようもなかったのだが。
「はい、伯父上様の領地は……」
促され、男爵は調査結果を述べていく。
それらは……子爵が想定していた最悪の事態、ほぼそのままであった。




