秋夜転変。
こうして、ついに折れたヘルミーナも参加しての練習が始まった。
「……やっぱり、凄くよく声が出るようになってるじゃない」
「くっ……褒めても何も出ないんだからねっ」
「いや、声が出てるじゃない、しっかりと」
感心したようにエレーナが言えば、ヘルミーナはぷいっと横を向く。
もちろんそれがただの照れ隠しであることをわかっているエレーナは、気にした風もなく混ぜっ返すのだが。
そんな砕けたやり取りをしている二人の横から、ユリアーナも声を掛ける。
「本当に、そのほっそりとしたお体から出ている声とは思えない程……。
何よりも音程の取り方ですとか声の通りですとか、そういった技術がとても素晴らしいです」
「ふ、当然のこと。私が扱う魔術は繊細な詠唱が必要となる高度なもの。
であればぶれることなく発声する技術は肝となるのだから」
手放しで褒められ、ふふんと得意げに胸をそらすヘルミーナ。
実際の所、身体能力は見劣りすれども、詠唱を研究しているだけあってヘルミーナの発声技術は優れたものがある。
流石にユリアーナとは比べられないものの、技術だけならばモニカとエミリーよりも上なくらい。
結果として、声量では優る二人と技術に優れたヘルミーナという三人に取り合わせは、予想以上に噛み合っていた。
「全く、だったら最初から……というか普段の授業でもちゃんとしてなさいよ」
「それはそれ、これはこれ。私の気が向かないことに労力を割くのはちょっと勘弁願いたい」
エレーナが呆れたように言うも、どこ吹く風と気にした様子も無い。
……いや、エレーナから見れば、これはこれで若干浮かれているようなのだが。
だからそんなところが可愛いのだ、と言ってやりたいが、それを口に為ればまたむくれて練習から逃げるような気がしたので、エレーナは黙っておくことにする。
「そういうエレンこそ、練習はどうしたの」
「今はタチアナ先生がクララに個別指導中で、その間私達は休憩なのよ」
問われたエレーナが視線を向けた先では、キラキラとした顔でタチアナの指導を受けているクララ。
彼女に教えるタチアナもまた、実に活き活きとした顔で教えている。
何となく、思う。ああして人を引きつけるのは、クララの才能の一つなのではないか、と。
あの偏屈なヘルミーナがじゃれつき、お堅いダンス講師だったはずのタチアナが個人レッスンを進んでやっている。
これで令息達にもあの笑顔を向けてしまえば、大変な騒ぎになってしまうのではないか。
クララがヒロインだとか知る由もないエレーナは、何となくそんなことを思い。
ちょっとばかり、もやっとしたものを感じてしまう。
「さ、クララさんへの指導も終わりましたし、再開しますよ、ギルキャンス嬢」
「あ、はい、タチアナ先生」
ある意味タイミングよく声をかけられたエレーナは、そのもやっとを振り払うように駆け出す。
少なくとも今は、クララが特定の令息と親しくなったりはしていない。
であれば、気にする必要など今はないのだから。
「がんばりましょう、エレーナ様!」
「……ええ、ミーナ達の歌に負けるわけにはいかないものね」
ぐっと両手を握って、やる気をポーズでも見せるクララへと、エレーナは笑って返した。
そんな令嬢達の熱気を受けて、ロジーネの筆もまた踊っていた。
ユリアーナだけでなくヘルミーナ達の歌声も組み込んで。
メルツェデス達の踊りのイメージから新たな着想を得て。
幾度も手直しをして、その度に楽曲は、歌は、鮮やかなものへと変わっていく。
残念ながら伴奏は彼女一人なのだが、だからこそ自分一人で弾く気楽さでもって、好き勝手に曲を弄り倒していくのは、今までに感じたことのない楽しさがあった。
何しろ、自分自身の腕のことは、誰よりも自分がよくわかっている。
更に曲の解釈も当然自分で作ったのだから間違えることがない。
であれば、どこまでも自由に、限界を攻めるかのように楽曲の構成を組み上げていくことも許される。
楽しい。
今までにないほど、ロジーネは作曲に、演奏に楽しさを感じていた。
とはいえ。
「っあ~……流石に根詰めすぎかなぁ……」
如何に楽しさで頭と身体が突き動かされていても、活力の漲る若い身体であっても、疲れは当然溜まる。
放課後の練習やその合間の編曲作業だけでは飽き足らず、ロジーネは自宅へと楽譜を持ち帰り、自室のピアノを軽く鳴らしながら作業をしていたのだが、流石に頭が回らなくなってきたように感じて、一息を吐いた。
途端に、ずしりと身体に襲いかかってくる鉛のような重さ。
知らず知らずのうちに、随分と疲れが溜まっていたらしい。
窓を見れば、すっかり夜も深まり月も随分と高く上がっている。
耳を澄ませば、使用人達も皆寝てしまったのか、物音はほとんど聞こえない。
静かだ。
そして、この静けさが、何とも心地よい。
深まる秋、空気も少しずつ涼しくなり、夜ともなればそろそろ一枚羽織らねば肩が寒い頃合い。
暑さにだらけることもなく、寒さに身を縮まらせることもない、適度な緊張感を持った空気。
それが、疲れた頭には何とも心地よい。
「とはいえ、この頭じゃ流石に今夜はここまでかなぁ……っと、その前に……」
呟き、さすりとロジーネは夜着の上からお腹を撫でる。
早く作業がしたくて、夕食を手早く済ませてしまったためか、根を詰めて作業をしてカロリーを消費してしまったからか、思い出したように胃が空っぽであることを訴えてきたのだ。
これで、例えば伯爵令嬢だとか、あるいは一般的な子爵令嬢であれば我慢するしかないところだろう。
幸いなことにというべきか、残念なことにというべきか、ロジーネは一般的な令嬢には属さない。
近くに置いていたランプを手にすると、出来るだけ音を立てないようにドアを開け、廊下へと。
それから、足音を立てないようにしながら、厨房に向かう。
普通の令嬢であれば自分で料理などしないものだが、彼女は違う。
こうして作曲や編曲に没頭するあまり、気がつけば夜更け、などはざら。
そしてそこで何か食べ物が欲しくなったところで、まさか使用人を起こすわけにもいかない。
そんな事情があって、彼女は簡単な食事であれば自分で用意できるようになってしまっていた。
というか、当主であるモンテギオ子爵すら、自分で夜食を調達していたりするのだから、ある意味似たもの親子なのかも知れない。
料理人達もそのあたりは心得たものなのか、見れば厨房には魔術により保温の機能が付与されたポットに、お湯がたっぷりと入れられていた。
流石にこの時間で火を使うわけにはいかないから、これはありがたい。
そのお湯でハーブティーを淹れ、後はクリームチーズがあったので、それをクッキーで挟んだものをいくつか皿に盛って。
それらをトレイに乗せて、さて戻ろうと思ったところで、ガチャリ、と玄関の方で小さな音がした。
「……え、こんな時間に、誰……?」
まともな人間が出歩く時間では無いとあって、快活なロジーネではあっても、流石に緊張した面持ちになる。
息を大きく吸って、吐いて。
何とか心を落ち着かせようとしながら、頭を動かしていく。
厨房から自室へと戻るには、どうしても玄関ホールを通らねばならない。
そして、手にしたランプは、シャッターで光量を調整出来る軍用のものではない。
かといって、普通の人間程度にしか夜目が利かない彼女が、ランプの明かりを落とした状態で動くのは極めて危ない。
となると、これはもう、近づいて確認するしかないだろう。
そう判断したロジーネは、せめて遠距離からの射撃には当たりにくいようにと、壁に背を付けながら横歩きに距離を詰めていく。
このあたり、良くも悪くも軍事訓練の賜物なのだろう。
やがて玄関ホールに辿り着いたロジーネは、出来る限り身体を見せないようにしながらランプを掲げ、来訪者を伺った、のだが。
「と、父さん? なんでこんな時間に」
そう、入ってきたのは、御者と一人の護衛を伴った……憔悴しきった顔のモンテギオ子爵だった。




