疑念と決意。
「……ただいま帰りました」
ロジーネと語り合い、触れあった後。
門限が迫っていたこともあって、二人は名残を惜しみながら別れた。
馬車に揺られながら窓の外を憂鬱に眺めれば、ふと『このまま家に帰り着かなければ』なんてことも思い浮かんでしまう。
けれども特に何事も無く平穏無事に帰り着けば、重い気持ちを押し隠しながらも帰着を告げれば。
間の悪いことに、父であるキャプラン子爵が丁度入れ違いに出て行くところだった。
「ああ、ユリアーナ、帰ったか。……奴の娘には会っていないな?」
「……流石に、授業の時はご勘弁ください」
「そういえば同じクラスだったか……それは仕方ないが、言葉は交わすなよ?」
「心得ております」
太く低い声で苛立たしげに言われれば、普通の令嬢であれば震え上がるところだろう。
だが家族として生活を共にするユリアーナは、良くも悪くも慣れているため、動じない。
念を押され、言葉を選びながらゆっくりと頭を下げて。
顔を上げれば、はて、と首を傾げる。
「それはそうとお父様、お出かけですか?」
「うむ、急ぎの会合があってな。……何としても奴を引きずり下ろさねば……」
頷く子爵の目には、どうにも普段と違う光があるように思えてならない。
こうして会話も出来るし、仕事もきちんとこなしている。
だというのに、モンテギオ子爵が絡んだ途端に、こうだ。
その様子に、ユリアーナは言い知れない不安を感じてしまう。
だから、思わず彼女は、問いを発してしまった。
「……今から降板させられたとして、代役の方は豊穣祭に間に合うのですか?」
口にしてしまって。直後、ユリアーナは後悔してしまう。
ばっと振り返ったキャプラン子爵の目は血走り、顔は歪と言って良い程怒りに歪んでいたのだから。
「間に合うかどうかなど関係ない! 奴を降ろさねば、そもそもが台無しになるのだ!
降ろしさえすれば、後はどうにでもなる! してみせる!」
見たことも無い父の姿にユリアーナはびくっと震え、己の身を守ろうとするかのように胸の前で腕を十字に組み合わせる。
まさか、戦闘訓練で教わった防御姿勢を、家族相手に使う事になろうとは。
尋常で無い父の姿に怯えながらも、頭の片隅ではどこか冷めた思考が動いていた。
芸術を嗜む深窓の令嬢、といった風情のユリアーナだが、彼女とてあの『魔獣討伐訓練』を乗り越えた令嬢なのだ、心根は鍛えられている。
もしかしたら、鍛えられてしまっている、という表現の方が正しいのかも知れないが。
だからユリアーナはその怒鳴り声に誤魔化されることなく、違和感を感じ取っていた。
「お父様、一体どうなさったのですか? 少なくとも去年までは、モンテギオ子爵様をそこまで悪し様にはおっしゃっていませんでした。
だというのに、今年は……特にここ数ヶ月は、親の敵であるかのように。一体、何が……」
ユリアーナの言葉が終わる前に、キャプラン子爵はカッと目を見開く。
その形相は、明らかに痛いところを突かれた者の顔。
やはり、何かある。
だが子爵は、それを教えるつもりはないようだ。
「うるさい、お前が首を突っ込むことではない! お前は黙って私の言う通りにしておればよいのだ!」
先程よりも大きな声は、しかし常人では聞き取れない程僅かに揺らぎ、ひび割れている。
声楽家として鍛えているユリアーナの耳は、明確にそれを捉えていた。
動揺しているのは間違いなく、そしてそれは、怒りで覆い隠そうとしているけれども、その根源は……怯え。
声楽家として揺るぎない地位を確立している彼が、一体何に怯えるというのだろうか。
もしかしたら、今から顔を出すという会合にその原因があるのだろうか。
憶測は湧き上がれども、ユリアーナにそれを確かめる術は無い。
今できることは、ただ一つ。
「……申し訳ございませんでした。どうかお気を付けていってらっしゃいませ」
そう言って頭を下げることだけ。
ユリアーナが従順な姿勢を見せれば、キャプラン子爵は溜飲を下げたか、大きく息を吐き出した。
纏った空気も、少しばかり落ち着いたものになっている……ということは、思い通りにいっていない何かが原因となっている?
口には出さず頭の中だけで思考を巡らせながら、ユリアーナは全く顔に出さない。
「うむ、最初からそう言えばいいのだ。今日は遅くなるから、食事は二人で済ませておけ」
「かしこまりました、お母様にもそのように」
普段、夕食だけは親子三人で摂ることが多いのだが、どうやら余程今日の会合とやらは重要らしい。
もっとも、最近の食卓の空気を考えれば、母と二人で食べる方が随分と気楽なものだが。
いつからこうなったのだろう、と考えても、ここ数ヶ月、としか思い浮かばない。
ただ、この状況が色々な意味で良くないことは、間違いない。
内心でそう思いながらも、ユリアーナは頭を下げて出かけていく父を見送り。
扉が閉まる音と共に、顔を上げた。
子爵の足音が遠ざかり、馬のいななきや車輪の音が遠くに聞こえて。
それを合図に、ふぅ、と大きく息を吐き出す。
実の父親との会話だというのに、息を詰めていた。その事実が、ユリアーナの心に重くのしかかる。
「このままでは、だめだわ……お父様も私も、きっとお母様だって良くない方向に行ってしまう」
ぼやくように言いながら、くしゃり、と前髪をかき乱す。
ユリアーナと違って、母は良くも悪くも普通の貴族女性。
父であるキャプラン子爵に何かあれば、そのまま流されるように後を追うことになってしまうだろう。
いかに自立を目指すユリアーナであっても、両親が揃って転落していくであろう未来を見過ごすわけにはいかない。
かと言って、今の彼女では、父を止めることなど出来はしない。
「覚悟しないとダメね、これは、もう。息を潜めていても、きっとどうにもならない。むしろ悪化するばかり……。
だったら、もう……賭けに出るしかない、のかな……」
呟くユリアーナの顔に浮かぶのは、自虐的とも言える苦笑。
賭け、などと言ってはいるが、その実、負けるとは思っていない。
正確に言えば、賭けに負けても、路頭に迷う心配は無い、と思っている。
ロジーネの誘ってくれた企画に乗れば、その後勘当されたとしても、きっとギルキャンス公爵家令嬢エレーナが助けてくれるだろう。
そうすれば少なくとも彼女自身は、上手くいけば母も生き延びることは出来る。
ただ、そのあまりに打算的な狙いと、ほぼほぼ間違いなく訪れるだろう結果に、心が耐えられれば、だが。
「せめて芸術くらい、綺麗事だけで生きていけたらいいのに……」
それは、本当に心から思う事。
ただひたすらに、歌いたい事だけを歌って生きられたら、どれだけ素晴らしいことか。
それも、共に歩みたい人の伴奏と共に。
だがそれは、叶わない。少なくとも今は、どうしようもない。
「……どうにかしないと、いけないのね……きっと」
自分に言い聞かせたユリアーナは。
心を、決めた。




