願い。
「ということでユリアーナ、歌ってみない?」
「え、えっと……」
放課後の学園、人気の無い中庭。
そこでロジーネはユリアーナを口説いていた。勧誘的な意味で。
中庭に設えられたベンチに二人で座って。
いや、互いの腰が触れる程に寄り添って。
そんな距離で向き合い、二人は話していた。
まるで、それが二人にとって当たり前の距離であるかのように。
「お誘いはとても嬉しいし、光栄なのだけれど……色々拙くないかしら?」
「まあ、正直全部がすんなりといかないとは思うけど……でもほら、貴族派のエレーナ様もいらっしゃるのだし」
「それは確かに、とても有り難いし、心強いのだけれど」
ロジーネが言葉を重ねれば、流石にそこは否定出来ず、ユリアーナも小さく頷いて返す。
ユリアーナのキャプラン子爵家は貴族派に属し、そのトップにいるのはギルキャンス公爵。
となれば、そのご息女であらせられるエレーナがいるとなれば、体裁としても悪くは無い。
実際、父がギルキャンス公爵に平身低頭で挨拶をしていた姿を、ユリアーナも見ているのだし。
それでも、懸念は拭えない。
「今のお父様を見れば、あまり楽観視は出来ないのよね……いつにも増してカリカリしているし」
「あ~……キャプラン子爵様もそうなんだ……うちの頑固親父もそうなんだよねぇ……どうしてこうなったんだか」
はぁ、と大きくロジーネは溜息を吐く。
普段ならばここまで砕けたことはしないのだが、ユリアーナと二人きりだからという気安さがそうさせたのか。
そして、そんなロジーネの心根を知っているから、無作法とも言えるそれを、ユリアーナも咎めはしない。
むしろ小さく微笑んでいるくらいなのだけれども。
それも、長くは続かない。
「本当に、どうしてしまったのか……まさか、あなたと会うことまで禁じてくるだなんて」
「そっちもかぁ……うちも、そんなこと言い出してんだよねぇ……そっちのいざこざを、娘にまで持ち込まないで欲しいのだけど」
二人は顔を見合わせて。
揃って、大きく息を吐き出した。
彼女達が知る限り、二人は音楽性の違いから対立はすれども、それなりにお互いを認めている節はあった。
古典的な技巧を踏襲し、その枠組みの中で見事な構成を見せるモンテギオ子爵。
新しい技法を積極的に取り入れて斬新な歌声を披露するキャプラン子爵。
言わば保守と革新の対立なのだが、それでも二人の奥底には相手への敬意が滲んでいたように思う。
けれど、ここ数年……特に今年は敵愾心が酷く、全く以て互いの言葉を聞き入れない有様。
先日の演奏会も、控え室で散々な罵り合いにまで発展したものだった。
「まあ、そうは言っても学園内までは目が届かないんだから、こうして会う分にはいいと思うんだけど」
「それは否定しないけど……でも、豊穣祭で一緒にだなんてやらかしたら、今のお父様達だったら勘当とか言い出しかねないわ?」
「そう、それなんだよねぇ……」
ユリアーナの懸念を、ロジーネは否定出来ない。
今までであれば、そんなことはあるはずがないと一笑に付せたことが、今は、出来ない。
父もキャプラン子爵も、明らかに常軌を逸している。
そんな彼ら相手に、道理など通用しないようにも思えて、また溜息を零してしまう。
「これを契機に、ユリアーナが歌で身を立てられないかと思ったんだけど……」
「やっぱり、そんなこと考えてたのね。……その気持ちは嬉しいし、そうできたらいいな、とは思うけれど……」
互いに口籠もれば、何とも言えない気まずい空気が漂って。
その中で、二人は口を開くことが出来ない。
沈黙がしばし……いや、そうと言うには長い時間流れた後に、ロジーネが口を開いた。
「いっそ、二人揃って勘当されて、駆け落ちでもする?」
「その提案が魅力的なのは認めるけど……その後をどうするの?
世間を知らない小娘が二人で、どうやって生きていけばいいのかしら」
「それはもう、どこぞの酒場であたしがピアノを弾いて、ユリアーナが歌って稼ぐ……って、ごめん、わかってる。
いや、ユリアーナの技量なら出来ると思うよ? ただそれは、親父達の手が回らなければ、で」
努めて明るく、楽観的な言葉を繰り出そうとして……尻すぼみに、勢いは失われていく。
じい、と見つめるユリアーナの視線は、それでもまだ許さないとばかりの圧を捨てずにいた。
「お父様達の手もそうだけれど……そもそも女二人で生活を軌道に乗せることが出来るかどうか。
酒場にツテがあるわけでなし、住むところだって確保しないといけないのよ?」
「あ~……それは、まあ……ツテがないわけじゃない、けど……」
問われて、ふとロジーネの脳裏に浮かぶ顔。
彼女であれば庶民の酒場にも顔が広く、紹介もしてくれるくらいにお人好し。
だが、だからこそ、そんな彼女を、自分達の事情に巻き込み、返せるかどうかわからない恩をもらいにいくことが躊躇われる。
きっと彼女は気にしない。だからこそ。
「きちんと、頼むだけの腕があると証明出来ればいいと思うし、今回はその良い機会だとは思うけど……」
「そう、なのよね……私も、良い機会だとは思うの。何のしがらみも無く参加出来さえすれば。
私だって、ロジーネの曲とピアノの腕は知られて欲しい。
けど、知ってもらえても、その後が続かないと……」
ユリアーナも、ロジーネの腕は知っているし、信じている。
ロジーネもまた、同様に。
彼女の腕があれば、知られて、後援者さえ付けば、音楽で身を立てることができる。
二人はお互いにお互いを、そう評価している。
だからこそロジーネは思い切ってメルツェデス達に訴え出たし、ユリアーナも即座に断ることが出来ないで居る。
諦められない。希望を持ってしまう。それほどの才を持っていると、互いに思っているから。
「ごめんなさい、ロジーネ。少し、考えさせてもらっていいかしら」
「……うん、わかった。ごめん、あたしもちょっと浮かれてた。何だか全てが上手くいくような気がして」
「謝らないで、わかるから。こんな良いお話、普通は無いもの」
何しろ国王派と貴族派、それぞれのトップである両公爵家の令嬢が絡んだ案件。
これが上手くいけば、二人揃って音楽家としての道が開ける可能性すらある。
だがそれも、あくまでも二人の両親が何もしなければのこと。
俯くロジーネの手を、そっと握る。
悪くない。彼女は、ロジーネは何も悪くない。
それは痛い程よくわかっているのに、けれどもどうしようもない。
ただ、繋いだこの手のぬくもりだけが、こんな状況でも確かなもので。
その確かなものを視線で辿れば、間近の距離でロジーネを見つめるユリアーナの顔。
揺らぎながらも未だ力を失わない瞳に、魅入られてしまう。
ユリアーナからすれば、普段よりも弱々しいロジーネの瞳には、揺らぐような光があって。
どうにも、それを守りたくて仕方が無い。
ゆらり。ふらり。細い糸に引かれるように、ゆっくりと二人の顔が近づいて。
がさり。どこかで枝の揺れる音がした。
その音に、はっとお互い我に返り。
それでも、その間近の距離で互いに頬を染めて。
こつん、と額と額をくっつけ合わせる。
互いの考えまでも伝わってきそうな額の熱に、つい思う。
このまま、二人だけの世界になればいいのに。
だって。
『あたしはただ、ユリアーナを思って奏でたいだけなのに』
『私はただ、ロジーネを思って歌いたいだけなのに』
二人が思うことは、同じ事。
生まれた家さえ違えば簡単に叶えられたであろうことが、今の家に生まれたからこそ叶えられない。
その願いは、この家の生まれだからこそ身に付けられた技量から来ている、というのに。
どうにも出来ない二人は、ただお互いを抱きしめるしか出来なかった。




