清けき夜に秘したのは。
「ミラ、この者を拘束なさい」
「はいはい、かしこまり~」
メルツェデスが声を掛ければ、周囲に潜んでいたらしいミラがいつもの調子で姿を現した。
……ギロリ、とハンナからその態度を咎めるような睨みを向けられても、平気な顔で。
念のために一瞬止まって男の様子を確認し、確かに気絶しているとみれば縄を取り出して男の手足を縛っていく。
この辺り、鎖分銅を得物としているからか、随分と手慣れている。
あっという間に手足の自由を奪い、ついで口にも捻った布を噛ませて噛み合わせられなくした。
往々にしてこういった連中は、口の中に失敗した際に使う自決用の毒などを仕込んでいるもの。
メルツェデスはミラがそこまでするとわかっていたから簡素な指示に留めたし、ミラもそれをわかっているからここまでしている。
見ていたハンナは若干イラッとしなくもないが、自分はもっと以心伝心であると日頃を思い出し平静を取り戻していた。
全く顔には出さずに。
そうして一段落ついたところで。
「……プレヴァルゴ嬢、ありがとうございました」
神妙な顔で、タチアナが頭を下げてきた。
その足に絡みついていたボーラは既に取り払われ、しっかりとした足取りで立っている。
メルツェデスが間者を斬り倒す僅かな間にその作業をして、自分の足で立てる程に落ち着きを取り戻した。
それは、タチアナの気丈さを示すものでもあり……精神面を鍛える訓練を受けた人間であることも窺わせる。
「いいえ、大したことではございません。先生こそ、ご無事で良かった」
手練れの間者達を、たった一人で瞬く間に斬り伏せた。
それを大したことではないと、汗一つかかずに言うその姿には説得力しかなく、彼らを相手に手こずったタチアナとしては、苦笑するしかない。
とんでもない生徒がいたものだ。
そして、そんな生徒に……殺しても死なないような、むしろ殺し方がわからないような生徒に、自分の技術を伝えられたことは幸運だったのだろう。
きっと世界がひっくり返っても、彼女がいる限りあの技術は残っていくのだから。
だから。
タチアナは、両手を揃えて前に差し出した。
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが。……無事だからこそ、面倒なこともございます。
どうか私にもお縄を。そして裁きをいただきたく」
神を前にした聖職者のごとく真摯な表情で告げたタチアナは、恭しく頭を下げる。
元より、間者となった時に命は捨てていた。
そしてこの国で過ごすうちに、別の覚悟が生まれていた。
いつか祖国が仕掛けてきた時には、この身命を賭してでも、と。
まさに今がその時であったのだが、思わぬ幸運で命を拾ってしまった。
しかしそれもつかの間の夢、こうなってはお上のお裁きを受ける他ない。
……あるいは、それはそれで、いいのだろう。
人知れず消えていくよりは、人々の目の前で散らす方が。
そう思えば、少しばかり愉快ですらあった。
だが、現実は非情である。ある意味で。
「あら。一体、何の罪で裁かれようとおっしゃるのです?」
きょとんとした顔のメルツェデスを前に、タチアナは一瞬言葉を失った。
あまりにも、心底不思議そうに問われて、一瞬何もかもが頭から吹き飛んでしまったのだ。
それでもすぐに気を取り直せたのは、年の功か。
神妙な顔を作り直し、メルツェデスへと向き直る。
「何の罪も何も、明白ではありませんか。私は、チェリシア国の間者としてこのエデュラウムに潜伏しておりました。
であれば、それが明らかとなった今、極刑は免れぬものかと」
現代においても、スパイは多くの国で死刑、もしくは無期懲役。
つまりは最も重い罰を与えられる存在だ。
まして人権意識などまだ育ちきっていないこの世界では、見つかり次第殺されても文句が言えないところ。
であれば、裁判の後に死刑となるなど、まだ上等なくらいだ。
だというのに、メルツェデスは首を縦には振らない。
それどころか、不思議そうな顔で聞いてきたのだ。
「間者、とおっしゃいますが……先生は、何か間者らしい行為……情報の漏洩ですとか、為さったことはおありですか?」
「え? ……ええと、それは……」
問われて。タチアナは、すぐには答えられなかった。
そんな彼女の姿に、メルツェデスは微笑んで見せる。
「だって先生は、留学してきた当時も、そういった行動はなさらなかったのでしょう?
そして、今までもそれは続いて。今日に至っては、間者どもを排除しようとなさってらした。
これのどこに、罪に問える行動があるのでしょう」
響く声は、月の光のように清らかで柔らかく。
しかしてその表情はどこか悪戯で。
タチアナは、反論どころか言葉を返すことすら出来ない。
「人は、生まれを選べません。先生がそういう育ちをされたのも事実でしょう。
ですが、その後、己の意思で何もしなかったこともまた事実。
であれば、どうしようもなかった事で裁くことを、わたくしは正しいこととは思えません」
きっぱりと言い切るが、そこに断罪の響きはない。
あるのは真っ直ぐな思いと、清濁併せ呑むような懐の広さ。
言葉も無く立ち尽くすタチアナの目の前で、メルツェデスはゆっくりと腕を上げて。
その手で、天を指し示す。
「今日ここであったことは、わたくし達と天の月だけが見ていたこと。
であれば、何も無かったことにもできましょう」
とんでもないことを、しかし、あっさりと。
当たり前のように言うメルツェデスに、タチアナの瞳が揺らぐ。
「そんな、そんな都合の良いことが、あってたまるものですか……」
何とかそう言い募るけれども。
心は、既に揺らいでいる。
死を覚悟して、この身を捨てるつもりで、ここに来た。
それは、長い時間を掛けて培った、揺るぎないものだと思っていた。
けれど、それはきっと、希望がなかったからだ。
だって。
さっきの今で、もうこんなにも、生きたいと思っている。教えたいと思っている。
それは、タチアナの顔が、これ以上なく物語っていた。
だからメルツェデスは、一つ頷いて。
「こんなに月の綺麗な夜ですもの。都合のいい奇跡の一つくらいあっても、不思議ではないでしょう?」
楽しげに。あるいは揶揄うように。それでいて優しげに。笑ってみせた。
目を奪われたタチアナは、愚にも付かないことを思ってしまう。
月の光のように清廉で、それでいて捉えどころ無く悪戯で。
三日月をその額に宿した彼女は。
彼女こそが。
月の女神なのではないか、と。




