月夜の晩に。だからこそ。
タチアナ・コバルチェフの朝は早い。
日の出とともに、ではないが、そんな比喩がされる程には早起きで、また、寝覚めもいい。
子爵家だというのに最低限の使用人しか置かず、そのため朝の支度も大半は自分でやってしまうため、早く起きなければならない、という事情もあったりはするが。
ともあれ、彼女は身支度を整え、用意されていた朝食を食べてしまうと、出勤の準備に取りかかる。
それもまた程なく終わり、使用人達に留守の間のことを言いつけてから家を出る。
夫であるコバルチェフ子爵は仕事で地方に出張しているため、挨拶が出来ない。
……そのことが、今日に限っては、酷く心残りだ。
だが、動揺を見せることなくいつものように家を出て、いつもの道を通って学園へと向かう。
見上げれば、秋晴れの空。澄み渡った青に、少しだけ切ないものを感じたのは気のせいだろうか。
ただ、その足取りは年齢を感じさせぬしっかりとしたもの。
なんなら、学園の生徒達よりも足早なくらいだ。
そして、学園につけば朝の準備を終えて、程なく最初の授業が始まる。
「はい、背筋に意識を! ピンと伸ばして、ですが、硬くなるほど力を入れすぎない!」
ダンスルームにタチアナの声が響く。
男爵家以下の令息令嬢達にも丁寧に。
伯爵家以上の子息達にも忖度せず、歯に衣着せず。
誰を相手にしてもブレることのないタチアナの指導は、時に疎まれることもあるが、大半の生徒達は彼女を敬愛している。
そして、彼女を疎む生徒は多くの場合上位貴族の子息であり、タチアナを評価しているジークフリートやフランツィスカ、エレーナが同席している授業の場では何も言うことが出来ない程度の根性しかない。
いや、根性がないからタチアナの指導が不満なのかも知れないが。
順調に授業をこなし、放課後はまたクララ達の自主練習に付き合う。
「いいですよ皆さん、次、テンポを合わせてジャンプ、ジャンプ、ジャンプ!」
タチアナの声に、完璧に揃ったタイミングと高さでクララ達が跳ぶ。
まるで一つの生き物であるかのように。それでいて、確かに個性豊かな少女達の群れでもあって。
エデュラウム王国の貴族向けダンスにしか慣れていない人間であれば圧倒されるような、そんな迫力と鮮やかさを持っていた。
綺麗だ。
目を細めながら、タチアナは心の中でそう呟く。
確かに才能のある少女達だったが、僅か一週間でここまでの精度を出してくるとは。
これであれば、後は振り付け次第でいくらでも美しく開花していくことだろう。
きっと、振り付けをするのはタチアナではないが。
そんな内心を飲み込んで折り合いを付けられる程度には、タチアナは老成していた。
あるいは、枯れていると言ってもいいのかも知れない。
だから、聡い彼女達にも気付かれずに済んだ。
「先生、今日もありがとうございました! 明日もまた、よろしくお願いします!」
「はい、お疲れ様でしたジタサリャス嬢。それから皆さんも。日に日に良くなっていらっしゃいますよ」
はちきれんばかりの笑顔を向けてくるクララへと、微笑みを返す。
ああ、この笑顔を見られただけでも、きっと甲斐はあったのだろう。
そんなことを思いながら、メルツェデス達も労って。
……明日の約束には、さらりと流して言葉を返さなかった。
恐らく、不自然ではなかった、だろう。
それから彼女達を帰して、ダンスルームを閉めて。
まだ残っていた職員達に挨拶をしてから、学園の外へと出た。
やけに夜道が明るくて、思わず空を見上げれば、雲一つ無い夜空に煌々と輝く青白い月。
どうやら、今日は良い日のようだ。
目線を戻したタチアナは、また歩き出す。
いつもの足取りで。……いつもと違う道を。
向かうのは、王都外縁部。
とても貴族の夫人が一人で向かうような場所ではないのだが、彼女は迷わずに進んでいく。
やがて、一軒の粗末な家の前へと辿り着いて。
「よぉ、予定通りに来たな。流石お堅いと言われたらしいタチアナ・スヴァツカヤだ」
「だから、その名を表で口にしないでと言っているでしょうに」
その家の中から男が出てきて下卑た笑みを見せれば、タチアナは足を止めて、溜息を吐きながらそう答えた。
見れば、その後ろにも更に男が数人。十人は、いないか。
流石にこの王都で工作活動をしようというのだ、多すぎず少なすぎずの人数で動く必要があるのだろう。
一つ息を深く吸って、吐き出す。
「はっ、今更もう気にしても仕方がないだろう? コバルチェフの名は捨ててこっちに戻ってくるんだから」
何一つ疑っていないような声で男が言うものだから、思わず小さく笑ってしまった。
男達が怪訝な顔をすれば、タチアナはどこか馬鹿にするような表情になって。
「捨てないわ。だから、スヴァツカヤで呼ぶなと言っているのよ」
「……何?」
思わぬ返答に、男は一瞬言葉を失い、問い返すのがやっと。
だがしかし、流石にこんな工作を任せられるような人間だ、すぐに頭は動き出したらしい。
「つまり、裏切るつもりか」
「裏切りのつもりもないのだけれど、ね。こちらとしては、四十年近く放っておいて今更味方ヅラされても、というところなのだし」
「それでも貴様が生まれた祖国だろうが! 貴様には我らがチェリシアの血が流れている!」
顔を真っ赤にし、指を突きつけながら男は叫ぶが、タチアナは涼しい顔。
この状況で、不思議な程に落ち着いている。
「確かに私はチェリシアの生まれ。この血と肉は祖国がくれた物」
そう言いながら、タチアナは己の胸に手を当てる。
まるで、その心臓の鼓動を確かめるように。血潮が流れていく様を感じ取るように。
数秒にも満たない沈黙の後に、その視線を男へと向けて。
「けれど、私が欲しかったものはくれなかった。それを与えてくれたのは、この国だった。
私から言わせれば、先に裏切ったのはチェリシアの方だわ」
「何を世迷い言を……この国が何を貴様に与えたというのだ!」
祖国を裏切りもの呼ばわりされて、男の顔は更に赤く。
対するタチアナの顔は、月の光を受けてか青くさえある。
ふ、と少し笑みを浮かべて。
「人生を。手を血で汚すこと無く、踊りだけで生きていける人生を。
そして、愛を。私個人を、私の踊りを愛してくれたのは、この国の人々だった。
だから私はスヴァツカヤの名を捨て、この国の貴族、タチアナ・コバルチェフとして生き、そして死ぬのよ」
「はっ……くだらん、本当にくだらん! そんなもののために、死にに来たというのか!
そんなことのために、密告もせず、人も連れず、一人のこのこと来たというのか!」
「ええ、人に話せば、事情をあれこれ説明しなければいけないもの。それでは、あの人に迷惑がかかってしまうわ。
大勢引き連れてやってくれば、お前達に気付かれて逃げられるだろうし。
それに……ただ死にに来たつもりもなくってよ」
それは穏やかな声。
決意と覚悟を決めた者が持つ静かな顔のまま、タチアナは、右手をゆっくり空へと向けて伸ばした。
「元々、いつでも消える覚悟も準備もしていたから、準備に一週間なんて必要なかったのよ。
ただ……あの日から、一週間。上弦の月は、すっかり満ちてくれた」
悠然と語っていたタチアナの目に、鋭い光が宿る。
思わず男達がたじろぎ、一歩下がる中。
タチアナは、決然と告げる。
「この月明かりの中ならば、老いた私の目でも、お前達の動きを捉えることが出来る」
『月夜の晩ばかりと思うなよ』という脅し文句がある。
つまり月の無い夜は暗いから不意打ちしてやるぞ、と匂わせているわけだ。
だが逆に言えば、街灯もろくに無い時代はそれだけ月明かりは影響があったとも言える。
そして、今宵は満月。タチアナの目には、男達の表情までもが良く見えていた。
「……最初から、そのつもりだったわけか」
疑問では無く、確認の口調。
見れば、先程までの赤ら顔はどこへやら、男はかなり落ち着いた表情を取り戻していた。
そして、タチアナが返答代わりに隠し持っていた短剣を抜いて見せれば。
「やれ」
冷徹な顔で手を振り、背後に控える部下達に指示を出した。
途端、彼らの姿は消え失せ。
「甘い!」
キン、と鋭い金属音が幾度か。
傍目には消え失せたかのように見える程の速さで男達はタチアナに襲いかかり、その凶刃を、タチアナが振るった短剣がはじき返していた。
彼女を取り囲もうとする男達と、巧みな足さばきと位置取りでそうはさせないタチアナ。
「この老いぼれが、ちょこまかと!」
「この程度、人が溢れるダンスホールに比べたら隙間だらけなくらいだもの」
罵るような声に落ち着き払って返すも、じわり、タチアナの額に汗が浮かぶ。
人数までは想定内だったが、連中の腕は、タチアナの予測を越えていた。
動きは見えるし、攻撃を弾くことも出来ている。
だが、こちらから反撃までは出来ない。
おまけに、タチアナの技量を見て取ったか、連中は強引に仕掛けて来ず、代わる代わる、交互に攻め寄せては引き、また別の男が襲いかかってくる戦法に切り替えてきた。
このままでは、体力に劣るタチアナが不利。
どうしたものか、と迷ったその刹那。
「くぅっ!?」
突然、タチアナが足をもつれさせて倒れ込んでしまう。
見れば足下に巻き付く、ボーラと呼ばれる飛び道具。
ロープの両端に重りを付けたそれは狩猟などでも使われ、足に絡みついて動きを封じる効果がある。
にやり、リーダーらしき男の唇が歪むのを見て、タチアナの眉が悔しげに寄る。
「手こずらせてくれやがったがなぁ、これで、終わりだぁ!」
散々に抵抗され、苛立ちが募っていたのだろう。
一人の男が大声を上げながら大きく小剣を振りかぶるのが見えた。
せめてこいつだけでも道連れに。
そんな悲壮な覚悟を決めて、タチアナは男を見据えて。
だから、集中の高まった意識の中で、その目は捉えた。
夜闇を切り裂く、一条の白い光を。
それは、月の光を反射して白く輝く、貴婦人が使うような白扇。
タチアナも見慣れたそれが、クルクルと綺麗に回りながら飛んでくる。
そして。
「ぐほぁぁ!?」
白扇は、タチアナに斬りつけようとしていた男のこめかみに直撃し、その見た目からは想像も出来ない程重い音を立て、めり込んだ。
そう、まるでその骨に鉄芯が入っているかのごとく。
いやまあ、本当に入っているのだが。
人体の急所、脳に衝撃が伝わってしまうこめかみを撃ち抜かれた男が、意識を飛ばして崩れ落ちれば。
「まったく、折角の素晴らしい月夜に、なんとも無粋な群舞を踊ってらっしゃるものねぇ」
その常識外れな白扇の持ち主の声が響く。
月明かりの中現れたのは、夜に溶け込みそうな黒と、その中で鮮やかに浮かぶ真紅を纏った一人の令嬢。
ギラリと輝く刃とそれを持つ男達など歯牙にもかけず、ずいずいと。
そのまま、タチアナの前へと進み出て。
「今日ばかりは、先生もですわよ? こんな連中をパートナーに一人踊るなど、そんな寂しい真似はおやめくださいまし」
「プ、プレヴァルゴ嬢……」
現れたのは、もちろん語るまでも無い。
「プレヴァルゴ……まさか貴様、メルツェデス・フォン・プレヴァルゴか!」
こんな潜入工作に来る連中だ、当然要注意人物は抑えており、その中でも上から数えても早いところにあるその名前はもちろんすぐ出てくる。
当然、その危険度も。
ごくり、と男の一人が生唾を飲んだ。
一気に緊張感を高めた男達を前に、その原因である彼女は、いつものように不敵に笑いながら前髪をかきあげて。
「問われて名乗るも幾度目かしら。そう、わたくしこそ誰が呼んだか退屈令嬢、メルツェデス・フォン・プレヴァルゴ!
この『天下御免』の向こう傷、空に輝く満月に成り代わり、三日月を刃と振るって差し上げましてよ!」
高らかに告げる中。
降り注ぐ月の光を受けて、ギラリと紅い三日月が輝いた。




