日向と月影と。
そんな疑念を抱きながらも、メルツェデスは何事もないかのように学園では過ごしていた。
いつものように授業を受け、放課後はクララ達との群舞の練習へ。
「1、2、3、4! 同じリズム、同じ歩幅で! 頭の高さまで揃えるつもりで!」
タチアナの指導に従い、メルツェデス達はぴたりとそろった動きを見せる。
リズムを合わせるだけならばすぐにも出来たが、いや、だからか、タチアナは更に上のレベルを要求した。
メルツェデスが一人背が高いものの、フランツィスカ達三人は然程変わりが無い。
その彼女らがステップの歩幅まで揃った時には、これ以上なく人目を引くのだ。
そうなってくると問題は。
「プレヴァルゴ嬢、ただ力を抜いただけでは動きに張りがなく、目立ちます!
全力は出さず、指先にもつま先にも張りとキレを! あなたならば出来ます!」
厳しい声が、メルツェデスへとかかる。
身長が高く、それに合わせて歩幅も広く、何よりも身体能力はこの四人の中ですら頭一つも二つも抜きん出ているメルツェデス。
タチアナの要求に応えようとすれば、自然と動きは抑えたものにならざるをえない。
だが、単に抜いただけでは、彼女一人が手を抜いているのが丸わかり。
手抜きで無く、しかし全力でなく。
彼女一人にだけ、繊細で高度な身体制御が求められていた。
そして、そんなことを求められれば。
「はいっ、先生っ! 見事こなして見せますわ!」
……燃え上がるのが、メルツェデス・フォン・プレヴァルゴという女である。
ある意味では手加減。しかし、全力でやらねば、フランツィスカやエレーナの洗練された所作の隣に並ぶと見劣りがしてしまう。
矛盾した要求はつまり退屈とはほど遠く、故に彼女は、集中していく。
同時にそれは、今後彼女にとって必要とされる動きでもあるのだから。
全力は出さず、しかし気は抜かず。一般の兵士や騎士を鍛えるためには、そんな領域の制御が必要なはず。
例えば、恐らくガイウスはそれが出来ているように思える。
ならば、自分に出来ないはずはない。出来なければいけない。
こんなところで武に繋げながらも、メルツェデスはダンスのレッスンを楽しんでいた。
「……私達も、メルに負けてはいられないわね」
「ええ、もちろんよ」
そんな親友の姿を見て、フランツィスカとエレーナの負けず嫌いも刺激されていた。
メルツェデスの隣に立つことを目標とするフランツィスカはもちろんのこと、エレーナとてただ置いて行かれるつもりはない。
親友二人に恥じない自分であるために。何より自分に恥じないために。
身体能力でフランツィスカに一歩後れを取りつつはあれど、エレーナは必死に食らいついていた。
そんな姿を見れば、クララとて発憤しないわけがない。
「わ、私だって……ううん、私こそ、がんばります!」
元々この新しいダンスは、クララが男性と上手く踊れないことが発端である。
であれば、誰よりも自分こそが努力しなければならない。例え、一番上手くはなれなくとも。
エレーナ達が長い年月をかけて積み重ねてきたものを簡単に覆せるとは思わない。
それでも、足を引っ張らないようにしなくてはならない。
それがクララに出来る、唯一の恩返しなのだから。
四人がそれぞれのモチベーションでそれぞれに努力する姿に、思わずタチアナは目元を抑えた。
美しい。
もちろん彼女達はそれぞれに美少女と言って良い外見をしているのだが、そうではなく。
それにあぐらを掻くこと無く、もっと美しく、もっと高みと飽くなき向上心を見せている。
その姿勢こそが、何よりも美しい。
「……私は、きっとこの国にきて、良かったのね」
懸命に練習する彼女達の姿を見ていて、ぽろり、そんな言葉がこぼれた。
レッスンルームの使用時間ギリギリまで練習したメルツェデス達はそれぞれ帰途につき、片付けや戸締まりを終えたタチアナは、彼女達に遅れること1時間ほどで学園を後にした。
校門の門衛に軽く頭を下げて挨拶をしてから、しっかりとした足取りで歩き出す。
子爵夫人ともなれば普通行き帰りには馬車を使うものだが、彼女は酷い雨の日でも無い限りはほとんど使わない。
当たり前の話だが、ダンス講師は体力がものをいう。
五十を超えたタチアナは日々衰えを感じることもあるが、それに流されていくことなく日々こうして身体を動かし、出来る限り動きを保っていた。
ただ身体を動かすだけでなく、呼吸法まで研究し、日々それを取り入れて。
元々色素の薄かった髪は白くなってきているが、肌や姿勢は同年代に比べて遙かに若々しい。
それらの弛まぬ努力で己を律して、いつの間にかこんな歳になっていた。
「……月日が流れるのは、本当に早いわね」
見上げれば、慎ましやかに輝く半分の月が登りきり、中天を少々過ぎている。
これが満ちて、後二回欠けて満ちて秋が深まれば、豊穣祭本番。
それまでには、きっと彼女達の群舞も形になっているだろう。
「初めてね、こんな気持ちになるのは」
月へと顔を向けながら、ぽつりと零す。
今までであれば、エデュラウム王国の伝統に従って男女のダンスを教えるだけだった。
けれど。
今年は。今は。
その枠に収まりきらないらしい少女達を見て、心が動いた。
少しばかり、彼女達に自分の根っこにあるものを伝えてみたくなった。
高位貴族の令嬢である彼女達にとって、それが良いことなのかはわからないが。
あるいは、そんな立場にある彼女達にだから、だろうか。
「彼女達に伝えれば、あるいは……なんて。こんなに感傷的だったかしら」
彼女達に伝えれば、そこからまた下位の令嬢達に伝わっていく、かも知れない。
そんな淡い期待をしなかったと言えば嘘になる。
自分が生み出した揺らぎが、波紋となって繋がっていくような、そんなささやかな変化。
ささやかでも、それを残したかった。
「……嫌な予感は当たるものね。いえ、これも拭いきれなかった習性なのかしら」
ぽつりと零しながら、タチアナは足を止めた。
微動だにすることもなく、数秒。
ゆらり、建物の影から一人の男が現れた。
「気付いたか。どうやら錆び付いてはいないようだな、タチアナ・スヴァツカヤ」
夜の闇に溶け込みそうな深い藍色の衣服を纏った痩身の男は、ニヤリと唇を歪めて見せる。
顔見知りではないが、その姿や身のこなしを見れば、彼が何者かはすぐにわかった。
だから、タチアナは感情を消した顔を彼へと向ける。
「往来でその名前はやめてもらえるかしら。今の私はタチアナ・コバルチェフなのだから」
「ふん、いずれ捨てる名だろうに、惜しんでどうする」
嘲るような声に、ほんの僅かにだけタチアナの眉が動く。
だが、またすぐに感情のない顔へと戻って。
「壁に耳あり、というでしょう。ザルのような地方都市と違って、王都ともなれば密偵はあちこちにいるのだから」
「はっ、ここまでも碌な防諜網はなかったというのに、何を恐れるか」
タチアナの言葉に、男は少しばかり声が大きくなる。
まずこの時点でどうかとは思うのだが。
「……その割に、学園には入ってこなかったのよね?」
少しばかり顔に呆れの色を滲ませれば、男は言葉に詰まり。
一瞬だけ苛立ちを滲ませ、しかし、何とかすぐに引っ込ませた。
「流石にあそこは、警備が特別だからな……だが、それと王城を除けば、大したことはない」
虚勢なのか本気なのか。
見定めるように、タチアナはしばし視線を男において。
ふぅ、と小さく息を吐き出した。
「それで、どういった御用向きかしら」
「わかっているのだろう? 貴様の出番だ。おあつらえ向きに、随分と良いところに入り込んでいるようだしなぁ」
得意げに笑う男の顔を。
タチアナは、気に食わない、と思った。
だが、それはあくまでも彼女の感情だ。
「……すぐには動けないわ。あちらこちらの段取りを付けるのに、一週間は欲しいのだけれど」
「……ふむ。なるほど、それで不審がられて探られては面白くない。よかろう、一週間後に例の場所で」
少しばかり考えた男は納得したらしく頷き。
一方的に告げると、また夜の闇に消えていった。
タチアナの目でも捉えきれないその動きは、確かに一流のものだったのだが。
……彼が消えてから、数秒。ちらり、ちらりと視線を動かしてから。
ふぅ、と息を吐き出して肩の力を抜く。
それから、また月を見上げて。
「……嫌になるわね、この身が……」
心の底からの言葉を零し、小さく首を振って。
それからまた、家路へと……先程よりも重い足取りで、歩き出した。




