疑惑の芽。
そうして、いくつか四人で踊れる群舞を軽くだが教わったりなどして解散して、その夜。
メルツェデスは、珍しく家令のジェイムスを自室に呼んでいた。
「ねえジェイムス、タチアナ・コバルチェフ子爵夫人を知っているかしら」
「おや、これはまた懐かしい名前を。三十余年前に突如現れ社交界を風靡した方でございますね。
そういえば今は学園でダンス講師をなさっていらっしゃるとか」
唐突とも言える問いに、しかしジェイムスは淀みなく答える。
即座に答えられて、メルツェデスは感心半分、驚き半分。
彼が社交界の有名人を知っていたから、ではない。
「あなたがそうやってある程度抑えているということは……裏を取った、ということ?」
「子爵夫人には申し訳ありませんが、一通り。
何しろ、当時少しばかり緊張の高まっていたチェリシアからの留学生でしたからね、間者の一人や二人紛れ込んでいてもおかしくはありませんから」
仮想敵国であり、後には開戦に至った間柄だ、ジェイムスを始め各諜報機関はもちろん留学生という肩書きを鵜呑みになどはしていなかった。
そして、実際に間者として捉えられた者も何人かは出ていたらしい。
「まして彼女は、子爵夫人となった……貴族との婚姻を結んだのは内情を探るため、というのはよくあることだものね」
「当時話題となったほどの熱愛ぶりでしたが、手練れの間者であればそれくらいはこなしてしまうでしょう。
良くも悪くも、彼女はエデュラウム王国に上手く入り込んできました。上手すぎるほどに」
ジェイムスの言い方に、メルツェデスの胸に嫌な予感がよぎる。
彼がこんなことを言い出す、ということは。
「まさか……何か、掴んでいるの?」
昼間に見たタチアナの笑顔を思えば、間違いであって欲しいと思う。
だがもしそうならば、個人の感情で見過ごしていいことではない。
揺らぐメルツェデスの視線の先で……ジェイムスは、微笑みを見せた。
「いいえ……この場合、幸いなことにと言うべきか、残念ながらと言うべきかはわかりませんが」
「そこは、幸いなことにで良いと思うわ? でも、そう、ジェイムスが掴めていないなら間違いないわね」
明らかにほっとした顔となるメルツェデス。
もしタチアナが間者とわかり、拘束する羽目になってしまえば。
国家の大事はもちろんのことだが、それ以上に折角光明が見えたクララのダンスが、また暗礁に乗り上げることになってしまう。
何よりも、タチアナ個人を気に入ってしまった今となっては、彼女を捕らえるなど、出来ればしたくないのだから。
そんなメルツェデスへと、幾度かうんうんと頷いてから。
ジェイムスは、少しばかり表情を改めた。
「タチアナ・コバルチェフ子爵夫人が、チェリシア王国へと何か怪しい情報伝達を取った形跡はありませんでした。
ですから、現時点においては、間者と言えないでしょう」
「……現時点では? それは……まさか、未来に、将来的に間者になる可能性があるとでも?」
まさか、と驚くメルツェデスへと。
こっくりと、ジェイムスは首を縦に振って見せた。
「残念ながら、その可能性はゼロではございません。間者の中には、長くその土地で暮らして馴染んだ後に諜報活動や工作を行う存在もおりますから」
ジェイムスの説明に……メルツェデスは、反論出来ない。
彼女とて、前世で暮らした日本において、かつて『草』と呼ばれた存在がいたらしいことは知っている。
そしてタチアナの立場は、『草』として動くとすればこれ以上なく理想的な状態であることも、理解出来てしまう。
「何しろ王侯貴族の子息令嬢と直接触れあえる立場にいるのです、特に工作においてはこれ以上ないとすら言って良いでしょう。
……もっとも、彼女のダンスに対する情熱も知識も本物ですから、それが故にたまたまそう見える状態にある、とも言えますが」
メルツェデスの表情が曇っていくのに気がついたのか、ジェイムスは僅かに慌ててフォローを入れた。
そう、出来すぎてはいるものの、あくまでもそれだけのこと。
まだまだ彼女を疑うには、状況証拠すらないのだから。
それでも、微妙にメルツェデスの表情は曇ったままだ。
「しかし、お嬢様がそのようなことをお聞きになるとは、何かございましたか?」
ジェイムスの問いかけに、メルツェデスは一瞬だけ動きを止めて。
こくりと、小さく頷いた。
「タチアナ先生の所作を見ていた時に、一瞬だけ……本当に一瞬だけ、その中に私達と同類の鋭さを感じたの。
よくよく見れば、目の配り方も『遠山の目付』に似た視野の広さを感じたわ。
……もちろん、フロアで踊るとなれば広い視野が必要となるから、これも偶然と言ってしまっていいのかも知れないけれど……」
「なるほど……しかし偶然が重なれば、ですか」
得心したようなジェイムスに、メルツェデスはまた頷いて見せて。
それから、小さくため息を吐く。
「それだけであれば、普段であれば、わたくしとて気にはしないのだけれど……もう一つ、嫌なことがあって。
……先生の故国、チェリシア王国は我が国の西隣。国境を接しているのは……ジェミナス伯爵領だわ」
メルツェデスが言えば、ジェイムスの眉がぴくりと動く。
勿論ジェイムスとて今までのあれこれは知っているし、ジェミナス伯爵領で何かが起きそうだということはわかっている。
そこに、この偶然の重なりを突きつけられれば。
「なるほど……ジェミナス伯爵がチェリシアを引き込むだなどという大それたことを考えているのであれば、今までは動かなかったコバルチェフ子爵夫人が、彼奴等の計画に合わせて動く可能性がある、と」
「もちろんそうでないことを願ってはいるのだけれど……ない、とも言い切れない情勢ではあるのよね……。
彼は広範囲の穀倉地帯を抑えている。伯爵領軍をまかなうには余りあるほどに」
「余剰穀物を売って軍資金を作る可能性もありますが……伯爵の、そして『魔王崇拝者』の首領が狙うところによっては、充分ありえましょう」
例えば、彼らの狙いが国家の転覆であれば。
そして、魔王復活がその手段でしかないのだとしたら。
むしろ一度他国によって蹂躙させ、魔王の力によって彼らを追い払えば、その後の掌握が容易である可能性すらある。
「むしろ、チェリシア王国に穀物を売り払えば、チェリシア王国は兵糧が確保でき、伯爵は大量の資金を得る……互いにお得な取引になりかねないわね。
最後には『魔王崇拝者』が全てかっさらう腹づもりだったとしても、それはチェリシアにはわからないことだし」
考えれば考える程、これはただの偶然ではないように思えてくる。
しかし、今はあくまでも状況証拠ですらない漠然としたものしかない。
「ジェイムス、西の方は王家の密偵達が探っているようだから……タチアナ先生やチェリシア出身者の周囲をそれとなく洗ってみてもらえるかしら」
「かしこまりました、そういうことでしたら、旦那様の御裁可もいただきまして、出来る限りを動かすよういたしましょう」
懸念に顔を曇らせるメルツェデスへと、大丈夫だと言わんばかりにジェイムスは恭しく頭を下げた。




