解決と、それから。
カウントを取るタチアナの声が、遠くに聞こえる。
それくらいに、クララはひたすらエレーナに集中していた。
動き出しに会わせて足を踏み出し、同じ歩幅で進んで、止まって。
あるいは、身体を沿わせるようにしながらターンをして。
エレーナのリードに合わせながら、リズムに合わせて身体を動かす。
互いの呼吸を、動きを感じながら、同じ時間の中で互いのための動きをしていく。
身体を動かす楽しさは、クララも知ってはいた。
大変遺憾ながら、プレヴァルゴ家のキャンプでも感じたことは幾度もあった。
だが、今この時間こそが、きっと一番楽しい。
そう思えば、自然と笑顔が零れてくる。
それは、見ている者達までも幸せにするような柔らかさで。
……その直撃を間近で受けたエレーナの動揺は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
何しろクララは、乙女ゲームの主人公になるだけあって顔が良い。
そんな彼女がこの至近距離で、しかもエレーナと目が合えば、彼女にだけ見せる微笑みを見せるのだからたまらない。
心臓の鼓動は早まり、頬に熱が集まってくる。
だが。
それでも彼女の動きは揺るがない。
ダンスの先輩であり、身分が上であり、貴族社会の先輩でもあり、その他諸々。
エレーナは、クララの先達であり、彼女の手を引かねばならぬ者。
そんな矜持が、エレーナを何とか最後まで支えきった。
そして、それだけの甲斐はあった。
「た、楽しかった……」
汗を滲ませながら、上気した頬でクララが零す。
たったそれだけのことで、エレーナは報われた気がした。
そんなエレーナの手が、ぎゅっと握られる。
「あ、ありがとうございます、エレーナ様!
私、私、こんなにダンスが楽しかったの、初めてです!!」
それはもう、キラッキラと目を輝かせながら、ずずいと迫ってくるクララ。
「ち、近い、近いわよクララ! そんなに近づかなくてもわかったから!」
そう言いながらエレーナは押しのけようとするかのように両手を突き出すも、どうにもその手には力がこもっていない。
彼女とて、クララがこうして楽しく踊れたこと自体は、嬉しいのだ。
だが、それでもこうも熱烈に来られると困ってしまう。
流石にそこは察したか。
あるいは本当に心からそうなのか。
ひとりしきエレーナへと楽しかったことを訴えたクララは、くるりとタチアナの方へ向き直った。
「先生もありがとうございます! おかげで私、とっても楽しく踊れました!」
「えっ、え、ええ……それならば、良かったです。私としても、お教えした甲斐がありました……」
同じく迫られたタチアナは、思わず一歩後ろに引きながら。
ほんのりと、頬を染めた。
「ちょっとクララ、コバルチェフ夫人でしょ?」
「あ、す、すみません、コバルチェフ夫人!」
そんな夫人の反応を見たから、ではないが、エレーナがクララを窘める。
この学園では、男爵までの位に属する教師には『先生』の呼称をつけ、それ以上であれば男性と独身女性には『様』を、既婚女性には『夫人』を付けるのが習慣となっている。
当然子爵夫人であるタチアナは『コバルチェフ夫人』呼ばれるべきだし、まして男爵家の養女であるクララであれば、なおのこと遵守すべきルール。
だが、先生と呼ばれたタチアナは……一瞬驚いたような顔になる。すぐに、相好を崩した。
「いえ、いいのです、ギルキャンス様。それから、ジタサリャス様も。
……おかしなものですね、先生などと呼ばれて、少し嬉しく思ってしまいました」
などと言いながらタチアナは、口元を手で押さえながらクスクスと笑う。
その仕草そのものは流石学園の講師だけあって、一片の隙も無い洗練された動作だったのだが……なぜだが、親しみのもてるもの。
クララなど、『あ、可愛い』と確信さえしてしまっていた。
「まあ、それはそれとして。ジタサリャス様が楽しいと思っていただけたのならば、私としても幸いです。
行儀作法の取得という側面も強くはあるのですが……やはりダンスは、楽しいものであって欲しいですから」
見せた顔は、貴族家夫人のものではなく。かと言って厳しい鬼講師の顔でもなく。
ただひたすらに、一人の少女がダンスを心から楽しめたことに安堵する、一人のダンス好きの顔。
入学してから初めて見るタチアナの顔に、思わずメルツェデス達は見とれてしまっていた。
『流石は主人公ね、クララさん……いえ、こんなことを思うのは彼女に失礼だわ』
タチアナの思わぬ笑顔を引き出したのは、クララ。
その人タラシぶりにメルツェデスは舌を巻き……即座に、いけないと小さく首を振る。
この世界の人々は、ゲームに似て、しかし非なる人々。
そのことを理解したつもりなのに、まだふとした瞬間に引っ張られてしまうらしい。
それはもちろん彼女達に失礼だし……何よりも、メルツェデス自身が、そう思いたくないと思っている。
もうすっかり、メルツェデス自身が、彼女達のことを好きになってしまっているのだから。
「これならば、もう大丈夫でしょう。時間もすっかり遅くなってしまいましたし、皆様お帰りになってください」
「はい、コバルチェフ夫人。遅くまでお付き合いいただき、ありがとうございます」
タチアナが帰りを促せば、最も世話になったクララ、の世話役であるエレーナが一堂を代表して挨拶し、メルツェデス達も合わせて頭を下げる。
期せずしてその動きは、一糸乱れぬものになっていた。
打ち合わせた風もなく目配せもなく。それでいて強制したような上下関係も感じられず。
彼女達五人が、自然と普段から行動を共にしている様子が窺えて、思わずタチアナは微笑みを浮かべていた。
「いいえ、こちらこそ正直なところ助かりました。
……ジタサリャス嬢も、これで明日からのレッスンも大丈夫ですね?」
「はい、大丈夫です! ありがとうございます、コバルチェフ夫人……タチアナ先生っ」
エレーナに窘められたからか、夫人と呼んで。
それから、僅かに間を置いて、クララは先生と言い直した。
……一瞬。ほんの一瞬だけ、タチアナの顔が寂しそうに見えたのを、クララの目は見逃していなかったのだ。
そして、彼女の思った通り。タチアナは、はにかむような笑みを見せる。
「ふふ、そんな風に呼ばれるのは久しぶりですが……いい、ですね。
これからは皆さんにもそう呼んでもらおうかしら」
最後の台詞は独り言めいていたけれども。
もちろんクララの耳には届いていて。
「はい、そう呼ばせていただきます、タチアナ先生!」
喜色満面、心の底から嬉しそうなクララの笑みに。
タチアナもまた、微笑みを返したのだった。
こうして、クララの課題も克服出来た、はずだった。
だが、その翌日。
「う、うわぁぁぁぁ!?」
クララのパートナーを務めていた令息の悲鳴が響く。
リードしているはずなのに、ついていけない。
クララの動きに振り回され、最終的には物理的にも振り回され。
先日見た光景そのままに、彼はダンスルームの壁に向かってゴロゴロと転がっていった。
それを、呆然と……クララだけでなく、練習していた令息令嬢達までも見送って。
「ど、ど……どおしてぇぇぇぇぇぇ!?」
クララの悲鳴が響く中、タチアナは額に手を当てながら、溜息を吐きつつ首を横に振った。




