虎穴の崩壊。
「ノーモアベット」
これ以上賭けてはいけない、締め切りです、との合図が掛かる。
ああだこうだと悩み、あちこちにチップを掛けていた腕が引っ込められて、後はボールの行方を見守るばかり。
カラカラと軽快な音を立てるルーレットに注がれる視線は重く、あるいは火傷しそうな程に熱い。
様々な思惑が入り交じった視線の先で、コトン、とボールが枠に落ちた。
「黒の11! 黒の11です!」
ディーラーの宣言に、うわぁという悲鳴や、おぉ~! という歓声があちこちで響く。
中には、今の一瞬で一ヶ月分の給料を飛ばし、がっくりと崩れ落ちる男もいた。
そんな賭け方をする方が悪い。とは、賭けない人間だから言えること。
勝っていれば次も勝てると思い込み、負ければ次こそ来るに違いないと自分を騙す。
そんな連中ばかりが集っているのだから、負けが更なる負けを呼び、最後には破滅を引き寄せる。
最終的には胴元が勝つ、そんな酷い仕組みを巧妙に隠した喧噪と興奮に満ちた地獄。
その中にあって一人、異彩を放つ男がいた。
「おや残念、外しちゃったか~」
明るく笑いながら、外したことで回収されていくチップに手を振るノイエことエドゥアルド。
彼だけは、場の空気に飲まれることなく賭けて、上手く『負けて』いた。
先程のカードゲームから、このままでは埒が明かないと見た連中がルーレットへと誘い、そして今。
相変わらず最初は勝ち、後から負けが込んで来ているのだが、やはり彼は上手く負けていた。
序盤で稼いだチップはまだ残っており、ここから逆転も充分にありえるところ。
まっとうな賭けであれば。
途中からエドゥアルドが不自然に当たらなくなったのを見て、周囲の常連達は動いた。
エドゥアルドが黒に賭ければ赤、といった具合に逆張りを続けていく。
そうなってしまえば、エドゥアルドは削れていくものの他の人間は儲けてしまうので、賭場としては拙い。
そしてまた、エドゥアルドも心得たもので、逆張りがしやすいような賭け方しかしない。
結果として胴元は大混乱、いつの間にかエドゥアルドに適度に勝たせて何とか損失を抑える、という形になってしまっていた。
そのため、逆張りだけでは勝てなくなったと見てエドゥアルドに乗っかり、その結果運悪く自爆する者も何人か出たが。
こうなってくると、勿論エドゥアルドを沈めることなど出来はしない。
落ちるマス目を操作出来るイカサマ仕様のルーレットならば落とせる、と考えていた胴元達は、最早どうしていいのかわからなかった。
「では、次のゲームを始めます。プレイスユアベット」
どうにでもなれ、と、諦めの滲んだ声でディーラーが告げる。
そして、誰も動かない。
ノイエがどう動くのか。ひたすらそれに注目が集まる、先程までと同じ展開。
今回は黒か赤か。ならば乗るか逆に張るか。
そんな算段だけをしていた客達は、次に聞こえてきた声に耳を疑った。
「じゃあ、黒の13にオールイン」
一瞬、静寂が訪れて。
次の瞬間、どぉっとどよめきが起こった。
今まで堅実に、着実に賭けていたエドゥアルドの、突然の大博打。
オールイン、持っているチップを全て、それも黒の13一マスに注ぎ込んだ。
この場合、当たれば36倍だが、当然外れる確率は36分の35、いや、このルーレットは1から36に0と00のある38マスだから38分の37。
当たる確率が極めてわずか、だというのにこれまで異常な勝負強さを見せていた彼が、その一マスに賭けた。
それを見て、ここが勝負だと彼に乗って黒の13に注ぎ込む男達。
あるいは、ならば赤だ、反対側にある赤の7だ18だと大騒ぎ。
彼らの大半もまた、既にこのルーレットがイカサマであることはわかっていた。
その上で、エドゥアルドが仕掛けたこの勝負。
そこに何かを感じて、彼らはそれぞれ勝負に出た。
結果として、黒の13とその反対側にある赤の7と18に集中したチップの山。
どちらに落としても賭場としては大損。
ならば、せめてエドゥアルドを沈めねば。
ディーラーはそう考えてボールを投じる。……単に13を外して黒のマスに落とせばいいだけのことだというのに、それを失念して。
「ノーモアベット!」
無意識のうちに身体が強ばり、声は意図した以上に張り上げられて響く。
全員が手を引き、後は運に任せて、とルーレットに注目する中、徐々にボールのスピードが落ちて。
勢いを減じていく様子に、幾人かが眉をひそめる。
今まではかなり自然な動きで落ちていたというのに、玄人ならばわかる、自然でない動き。
どうやら、この大勝負にイカサマ担当の手元も狂ったか。
ならば大穴もあるか、と彼らはイカサマを指摘しない。
彼らもまた、結局はギャンブラーなのだ。
そして、賭けた者はもちろん賭けなかった者まで注目する中。
ついに、ボールが落ちる。
赤の、7。
それを見て、声を上げようとした瞬間。
ボールが、跳ねた。
不自然とかそんなレベルですらなく、明らかにおかしい勢いで、ぽ~んと高々と。
それは反対側の方へと勢いを付けて飛び。
あまりにおかしな光景を見て全員が言葉を失っている中、カン、コンとやけに軽く音を響かせながら、踊るように動く。
さながら、誰かの意思を受けたかのように。
そして、徐々に跳ね方が小さくなって。
最後には、ストンと黒の13に落ちて。
そのまま、動かなくなった。
勝負は、ついた。
だが、ディーラーは元より、客の誰一人として、声を出すことが出来ない。
明らかに、あからさまな、むしろわざとだとしか思えないレベルの、それ。
わかっていたけれど黙っていたそれが、今、これでもかとばかりに明らかにされてしまった。
「ディーラー、進行しないの?」
固まりきった空気の中、場違いな程明るく軽く、エドゥアルドの声が響く。
それを聞いて、まずディーラーが我に返った。
血走った目で、何か信じられないものを見るような顔つきになりながら。
「い、イカサマだ~!!」
そう、叫ぶ。
そしてそれは、確かに明らかにイカサマだった。
ただ。
「まあ、イカサマだろうけど。僕にどうこう出来るレベルのイカサマじゃなかったよねぇ」
エドゥアルドの言葉に、何人もの客が頷く。
この賭場には仕込みの客もいるが、そうでない客も大勢居る。でないと賭場として儲けが出ないのだから、当然でもあるが。
そして、仕込みでない客は、だからこそエドゥアルドと賭場のイカサマとの対決に乗って、勝って負けてを繰り返し。
最後の大勝負で、これである。
むしろ怒りの度合いは彼らの方が強いかも知れない。
「そ、それはっ……い、いや、しかし今の勝負は、無効だ、無効!」
「言いたくなる気持ちはわかるけど、だったら今までの勝負、全部無効じゃないとおかしくないかな?
だって、こんな仕掛けがあるルーレットで、これだけ賭けさせてたわけだよね?」
ゆっくりとエドゥアルドが向けた視線の先にある、大量に積まれたチップ。
黒の13とそれ以外、それぞれに大概な量のチップが賭けられていた。
そして、これ以前の勝負でも、もちろん大量のチップは賭けられていたわけで。
それらが、仕組まれた結果で大体奪われてきたわけだ。それで黙っているような大人しい連中は、そもそもこの賭場に来ていないだろう。
「う、うるさい、うるさい! とにかくこの勝負は……」
無効だ、と改めて宣言しようとした時だった。
ビキ、バキ、と何かおかしな音がする。
その発生源は。全員の視線が、ルーレットの置かれた台に向けられ。
エドゥアルドを含む勘の良い何人かは、すっと台から離れた。
そして。
ついにそれがやってきた。
「イカサマですわ~~~!!!」
清々しい程の勢いで、ルーレットが下から上へと、吹き飛んで跳ね上がる。
その下から現れた、黒ずくめの少女。
高々と突き上げられたその右手には、ディーラーと似た服装の男の頭が掴まれていた。
その顔面の哀れな有様からして、彼の顔面がハンマー代わりに使われたのだろう。
あまりにあまりな、非常識な光景に、誰も声を発することが出来なかった。
 




