その頃の舞台裏。
一方その頃。
エドゥアルド達と別れたメルツェデスは、ハンナを伴ってカジノのバックヤードへと入り込んでいた。
関係者以外は立ち入り禁止の区画だが、もちろん彼女達であれば顔パスである。
初めて訪れた場所だというのに、慣れた足取りで進むメルツェデス。
先程ブランドルからおおよその道順を聞いていたとはいえ、ここまで迷わずに歩けるのは、彼女の鋭い勘に拠るものなのか。
ともあれ、二人は目的地である部屋へと辿り着いた。
念のためにとハンナが先に扉を開けて中を確認し、メルツェデスを招き入れる。
「ふふ、なんだか秘密基地みたいでワクワクするわね」
「なるほど、お嬢様はこういった拠点はあまりお使いになりませんし……今度私どもが使うセーフハウスをご覧になられますか?」
キョロキョロと部屋の中を興味深げに見回すメルツェデスへと、ハンナはついそんな提案をしてしまう。
プレヴァルゴ家の密偵としても活動するハンナは、密偵達が使う隠された活動拠点ももちろん利用したことがある。
当然そんな場所に貴族令嬢であるメルツェデスが訪れることはない。普通は。
本当はメルツェデスも行ってみたかったのだが。
「魅力的なお誘いなのだけれど、バレたらジェイムスに怒られるのよねぇ。
ねぇハンナ、ジェイムスにバレないように行ける自信はある?」
「……残念ながら、ございませんね、今は」
答えながら、ハンナはきゅっと唇を噛みしめる。
プレヴァルゴ家の家令を務めるジェイムスは、ハンナにとって師匠のような存在だ。
すっかり髪が白くなるような年齢だというのに、いまだにその技能は健在で、プレヴァルゴ家の裏の頂点として君臨している。
それでいて、忙しいガイウスに代わってプレヴァルゴ家のあれやこれやを取り仕切る家令としての業務もきっちりこなしているのだ、ハンナとしては頭が上がらない。いや、メルツェデスも、か。
だから、ジェイムスに怒られるような行為には、いまだに二の足を踏んでしまう。
「そう、なら仕方ないわね、それはいずれの機会に、ということで。
それはそうと、ええと……ああ、これかしら」
残念そうに言いながら部屋の中を漁っていたメルツェデスが、取り出したのは、二組の衣服。
真っ黒、ではなく濃い藍色なのは、その方が薄闇に溶け込みやすいから、と言っていたのはそれこそジェイムスだったか。
つまり、密偵が本気で忍ぶ時に使うための服である。
それが、こうしてカジノのバックヤードに用意されていた。
「こんなこともあろうかと、と思って用意はしていたけれど、本当に使うことになるとは。
このわたくしの目を以てしても見抜けませんでしたわねぇ」
「流石に、まさか第一王子殿下から火急の用件で隠密に動くよう言われるとは、思いませんから」
まさか、という体を取り繕いながら、ワクワクとした雰囲気が隠せないメルツェデス。
そんな主に気付いていながらも、ハンナは何も言わない。
むしろ『ワクワクしているお嬢様可愛い』まで思いながら心のメモリーに刻み込んでいる始末である。
「さて、ではハンナ、お願いね」
「かしこまりました」
声を掛けながらメルツェデスが二組の衣服を差し出せば、ハンナが恭しく頭を下げてそれを受け取る。
そして、慣れた様子でメルツェデスがすっくと立てば。
しゅっと一陣の風が踊り、一瞬にしてメルツェデスの着替えが完了していた。
「……あら?」
ここまでくると見事を越えて恐るべき、とでも表現した方がいいような手際に感心しかけたメルツェデスが、怪訝な顔になった。
その隣で脱がせたドレスを畳みながらさりげなくスンスンと匂いを堪能していたハンナが顔を上げる。
なお、この専属メイドとしてちょっとどうかと思う行動は、もう何年もの間積み重ねてきた修練によりメルツェデスの目さえ欺き、気付かせない。
技術の無駄遣いという言葉がこれほど似合う事象もないだろうが、誰も気付かないのだから咎めようもなかった。
「どうかいたしましたか、お嬢様」
自分の不埒な行為などおくびにも出さずに、ハンナが問いかければ、小首を傾げながらメルツェデスが振り返る。
「相変わらずの見事な手際なのだけれど……何故かしら、少し窮屈に感じるのよ」
「お嬢様、それは」
メルツェデスの疑問に、ハンナは即答しようとして、言い淀んだ。
彼女には、その原因がわかっている。
だが、それを率直に言うのははばかられた。
「……それは、密偵用の衣服ですから、女物は胸をきつめに押さえるようになっているのです」
「ああ、なるほど。確かに跳んだり跳ねたりの時に邪魔になるものね」
ハンナの説明に、メルツェデスは納得したように頷いた。
もちろん嘘である。いや、若干本当のことも含まれているが。
毎回メルツェデスの着替えを手伝っているハンナの目は、原因をしっかり捉えていた。
たとえその着替えが一瞬で終わるといえども、ハンナの動体視力はしっかりと正確かつ鮮明にそれを捉え、なんなら経時変化まで含めて把握している。
『お嬢様、またお胸が大きくなられましたね……』
まさか口に出すわけにもいかないから、心の中でだけ呟く。
元々豊満なサイズではあったのだが、夏の訓練を経て、その下で息づく大胸筋も更に鍛えられてしまっていた。
その結果ますます大きさも形も兼ね備えた胸へと進化してしまっているのだが、己に無頓着なメルツェデスは気付いていない。
そして、ハンナも告げるつもりはない。
ちなみに、普段着ているドレスなどは細々ハンナが職人に指示を出してこっそり修正させていたり、場合によってはハンナ自身が縫い直しをしていたりする。
「さ、わたくしはこれでいいわ。ハンナも」
「かしこまりました」
衣服の具合を確かめたメルツェデスに促され、ハンナは自身も素早く着替える。
普段はメルツェデスの前で着替えることなど無いため、むしろこちらの方がハンナにとっては恥ずかしいくらいだったりするが、それはそれで彼女に取っては心地よいものだったりもするのだから、どうしようもない。
何しろ、これだけ素早く着替えようとも、彼女を超える動体視力を持つメルツェデスの目であれば、ハンナのあられもない姿も見えてしまうはずだから。
……見ているとは限らない、ということから目を逸らせば。
「時間も頃合いだし、そろそろ行きましょうか。ハンナ、先導をお願いね」
見られていた、という感慨をハンナがしみじみ味わう暇も無く、メルツェデスが声を掛ける。
至極残念なことではあるが、ハンナは顔に出さない。
内面はともかく、外面は出来る女なのだ、彼女は。
「はい、ではこちらへ」
応じたハンナが、部屋の窓へと手を掛ける。
す……と音もなく窓が開けば、そこからするりと外へ忍び出でた。
続いてメルツェデスが同じように出れば、先程と同じように音もなく窓が閉まる。
カジノの裏に出た二人は音もなく路地裏を進み、出口付近で身を潜めた。
と、まさにちょうどそのタイミングでエドゥアルドとスピフィール男爵が出てきて。
打ち合わせ通りに動こうとしたところで、いきなり女性に話しかけられていた。
「あらあら、まさか修羅場かしら」
「いえ、違うようですね……ある意味修羅場ですが」
離れた場所から、聞こえないはずの会話を当たり前のように拾うメルツェデスとハンナ。
二人揃って恐ろしく耳が良い上に、読唇術まで使えるのだから質が悪い。
ちなみにメルツェデスに言わせれば、読唇術は乙女の嗜みだそうである。
もちろん、その発言に対してはエレーナがツッコミを入れていたが。
なお、それを聞いたフランツィスカは読唇術の練習を始めたらしいのだが、真相は明らかになっていない。
「ふむ? ……どうやら、見事に釣れたようね」
「入れ食い過ぎて、あちらの頭の心配をしてしまいますね」
辛辣なハンナの言葉に、メルツェデスは小さく笑ってしまう。
もちろん注意は必要だが……この動き方は、確かに『魔王崇拝者』のそれに類似している。
彼らは、自分達が攻め手だと思っており、まさか反撃されるなどとは思ってもいない。
「あ、どうやら乗るようですね、動き出しました」
「では、わたくし達も後を追いかけましょうか」
男に誘われて、乗ったエドゥアルドが早速動き出す。
その後を、気取られないようにしながらメルツェデス達は追いかけていった。




