大人の世界としがらみと。
「これがカジノの中……こうなっているのね」
ブランドルに案内されたメルツェデスは、思わず感嘆の声を上げた。
内装そのものは決して華美ではなく、一応本来のメインターゲットは富裕な平民とあって、高級感は控えめなもの。
それでも伯爵令嬢であるメルツェデスにとっても不快ではない、その程度には品の良さも漂っていた。
……まあ、メルツェデス自身が屋外サバイバルも平気なのだから、あまり当てにはならないかも知れないが。
それよりも何よりもメルツェデスの興味を引いたのは、その空気。
「なるほど、これが大人の世界。ちょっと危険な裏の社交場……」
「いやいや、お嬢様はもっと危険な世界をご存じでしょうに」
誰もが思うであろうことを、敢えて口にする男、ブランドル。
もちろんそれでメルツェデスの機嫌を損ねることなどないとわかっているからだし、実際メルツェデスは上機嫌のままだ。
そもそも、危険の質が違う。
命のやり取りと金のやり取りでは、その重みが違う。
後者も、負けが込めば身ぐるみ剥がされた上で売り飛ばされる、など社会的な生命の危機はないではないが。
それらをきちんと理解した上でなお、メルツェデスはカジノの空気を楽しんでいた。
「私の知っている世界とは、また少し違った危険の香りだもの。
……こういうと失礼かも知れないけれど、楽しんでもいい類いの香りだわ」
「まあ、それは。楽しんでいただくための危険、リスクとゲームですからねぇ」
メルツェデスの言い分に、ブランドルはごもっともと引き下がる。
彼女の言う通り、ここにあるのは楽しんでいい、むしろ楽しむ為の危険性。
チップというリスクと引き換えに、伸れば勝ち、反れば負ける場所。
命を失う程ではないが、普通の人間であれば充分なスリルを感じられるものだろう。
命のやり取りですら楽しんでいるのではないか、という疑念をハンナは一瞬覚えたが、それを口に出すことはない。
彼女に取ってメルツェデスの言うことこそが真実なのだから。
そんな会話をしながらメルツェデスがカジノの空気を楽しんでいると、不意に声がかかる。
「あっ、これはこれはお嬢様」
そう言いながら身体を縮こまらせるかのように頭を下げるのは、ブランドル同様にめかしこんだジムだった。
どうやら今日はテキ屋でなく、カジノのスタッフらしい。
「お疲れ様、ジム。……あら、ジムがいる、ということは……?」
挨拶に微笑みで返したメルツェデスが、ふと何かが気にかかったように周囲に目を配る。
だが、その視線の先に、懸念した相手は捉えられない。
「さ、流石にエドゥ……もとい、ノイさんは来てませんよ!? むしろ来られたら困ります!!」
「まあ、それはそうよねぇ。え~、ノイさんとやらの顔をご存じの方もいらっしゃるかも知れないし」
お互いに濁した相手は、もちろん第一王子エドゥアルドである。
隙を見ては街へと繰り出し、平民の店だなんだを堪能している第一王子殿下。
そのエドゥアルドがどうも気に入っているらしいジムがここにいると知れば、顔を出しそうなものだが。
「ということは、ノイさんはこのカジノのことを知らないということ?」
「もちろんですよ、まさか王j……ゲフンゲフン、やんごとないお方にお教えなんてできませんって!」
教えることすら不敬罪になりかねない存在、まして押しかけられてはジムの胃に今度こそ穴が空きかねない。
いや、そもそも直接口を聞いている時点で大分アウトなのだが、彼が許している、むしろ要求しているのだから仕方ない。
そう、仕方ないのだ。
「……あらいやだ、何だか嫌な予感がしたのだけど」
ぽつりとメルツェデスが零した瞬間。
カジノの扉が、開かれた。
「ここが噂のカジノかい? なるほど、いい雰囲気だね!」
そして響く、太陽のような……夏真っ盛りな時にうざったさを感じる太陽のような明るい声。
聞こえた瞬間に、ジムの大きな身体が、小型犬のように反応し、震える。
最早ほんの一言二言でも反応してしまう程に彼の耳に刻まれているのかと思うと、少々、いやかなり、ジムに同情もしてしまう。
同情はすれど、助けようはないが。
そして姿を見せる、太陽のごとき明るい存在感を見せる一人の青年。
「ああジム、ここに居たのかい。こんな良い場所があるのに教えてくれないだなんて、水くさいじゃないか」
「お教えできるわけねぇですよ!?」
あっけらかんと言うエドゥアルド、いや、今は髪を染め眼鏡で瞳の色も誤魔化しているのだから、一応この場ではノイエと言うべきか。
ともあれその青年が親しげに話しかければ、ジムは最大限身体を縮こまらせ、何とか視界から逃れようと悪あがきを見せる。
もちろん、逃れようなどありはしないのだが。
「いやいや、僕が新しい遊び場を探していたのは知ってただろう? だったら紹介してしかるべきだと思うんだ」
「ご紹介したら、あっしが翌日失踪している未来しか見えないんですが!?」
ジムは知っている。エドゥアルドが表だけでなく裏の護衛すらも撒いてここに来ていることを。
そして、1時間もすれば何とか裏の護衛達が彼を捕捉し、しかし騒ぎになるからと連れ戻しも出来ず、ひたすらに見守っていることを。
そんな彼らの前で悪い遊びを教えでもすれば即座にブラックリストへ入り、最悪一発レッドカードである。
もっとも、ジムのバックにメルツェデスが居ることも把握しているので、裏の面々としてもいきなり強硬手段を取ることはしないし、出来ないのだが。
「でん……もとい、ノイエさん、お戯れはそれまでに。従業員の者も困っておりますし」
「大丈夫大丈夫、顔見知りだから。……といっても、あまり入り口で騒いでも迷惑だよね」
ノイエと称するエドゥアルドの背後から、一人の偉丈夫が入ってくる。
誠実さ溢れる朴訥とした顔、農作業でよく鍛えられた身体。それは、メルツェデスもよく見知った顔で。
「まあ、スピフィール様? まさかカジノにいらっしゃるだなんて」
思わず声をかけてしまったメルツェデスを、スピフィール男爵の驚いたような視線が捉える。
「なんと、プレヴァルゴ様。まさかこのような場所でお会いするとは……その節は娘共々お世話になりまして」
「いえいえ、とんでもございません。それよりも、スピフィール様がいらっしゃるとは驚きですわ。
……それも、そちらの方とご一緒だなんて」
そう言いながらメルツェデスが意味深な視線を向ければ、話を振られたノイエと称する青年が朗らかな笑みを見せる。
「僕としてもメルツェデス嬢がいるだなんて驚きなんだけどね。ジムがいるんだから、居てもおかしくないのだけど」
「ええと……ノイエ、さん? 私達は顔見知り、ということでよろしいのですね?」
最早誤魔化しようもないと判断したメルツェデスは、諦めて設定の擦り合わせに入る。
変にエドゥアルドの振る舞いにツッコミを入れても要らぬ混乱を招くばかり。
ブランドルはまだ平静を保ってはいるがこめかみに汗が一筋。
ジムなど、いつ卒倒してもおかしくない、というこの状況。
「うん、もちろん。あなたに案内してもらうのが一番問題がなさそうだしね」
和やかな笑顔を見せるエドゥアルドに、メルツェデスは思わず小さなため息を吐く。
ここまで来ては、他の客の目もあるのだから、これ以上は騒ぎを大きく出来ない。
なんとか自分が引き受けるしかない、とメルツェデスは腹を括った。




